2025年01月01日22:10
浜松勤労会館UホールでFOX WORKS「Magician's Worth」を観た≫
カテゴリー │演劇
年を越したが、12月中にいくつか演劇を観た。
遅ればせながらそれについて触れようと思う新年。
12月8日(日)15時~
はままつ演劇フェスティバル2024参加作品。
演劇とは何だろう?と考えてみた。
いろいろな演劇を観るとこういう機会も出来る。
劇場でやるから演劇と言うわけでもない。
演じるのは舞台、観るのは客席と境界線を設けるのが演劇でもない。
価値を観た人自身で決めることが出来る。
必ずしも決める必要もない。
タイトルの「マジシャンズ・ワース」の意味は、マジシャンの価値だそうだ。
芸術かエンターテイメントか指向性を問題にしても境目はあいまいだ。
どちらが有用かなんて論議は不毛だ。
どちらも必要としている人がいる。
良いエンターテイメントは芸術だ。
プロによるものかアマチュアによるものかもそう。
プロ=良い演劇、というわけではもちろんない。
基本的には誰もが自分が求めている演劇を観に行く。
有料にせよ無料にせよ。
開催場所への距離に応じ、交通費だったりガソリン代がかかったりする。
誰にも平等に与えられた時間を費やすことにもなる。
求めていないものに時間を費やす余裕は誰もないのだ。
浜松市芸術祭の一環だからと言って、エンターテイメントにふった作品をやってはいけないということはない。
むしろ志向するならぞんぶんにやりきってもらいたいと思う派だ。
商売として演劇をやっていないと、とかくエンターテイメントと言う言葉から離れがちになる。
しかし、世の中を見渡してみれば、そのような演劇の方が優勢に見えたりもする。
ブロードウェイ等のロングラン作品を翻訳しレパートリー化した劇団四季のミュージカル。
これはそれのみで生活する劇団員を雇う営利団体としての劇団を維持し発展させて行くために選択した手段。
「レ・ミゼラブル」や「ミス・サイゴン」だって、海外発が今では日本で十分なじんでいる。
歌舞伎座で行われる歌舞伎はテレビなどメディアでも有名な歌舞伎役者を抱え、古典芸能を興行として成り立たせているように見える。
多ジャンル発のエンタメ強力コンテンツを演劇化した作品は数多くある。
「ワンピース」や「風の谷のナウシカ」は歌舞伎化されたし、「千と千尋の神隠し」は有名女優のダブルキャストで演じられ、「進撃の巨人」「鬼滅の刃」もブームの後には企画され舞台化されるという流れは出来ている。
あんなに本が売れ、映画でも多くの観客を動員した「ハリーポッター」は本場イギリスで演劇化された作品を日本向けにして持ってこればあらかじめ成功は約束されているものだとも言えるだろう。
2.5次元演劇と言う演劇ジャンルがある。
アニメなどのキャラクターをさす平面世界2次元と、実在する人物の存在世界である3次元との中間の意味だが、
本来の2.5次元の意味と合っているのかわからないが、誰かが紹介するためそう名付けたのだろう。
プロジェクションマッピング等デジタル映像により、俳優の身体以外に頼りになる手段が発展したことはそれらを支える大きな要因だと思う。
AIによる即興性あふれるコンテンツも生まれるかもしれない(今もあるかもしれない)。
望む望まないは人それぞれあるだろうが。
それは、観客が求めるものが変化していることにも所以する。
コンピューターゲームなどは、デジタル技術の進化により、創成期と比べれば格段の違いだろう。
音楽などは部屋に置かれたコンピューターの前で完結させることが出来る。
身体表現を基本とする演劇は、その点、世の中の技術の発展に対し、遅れをとっているようにも見える。
むしろ、遅れながらやっとついていっていると言えるかもしれない。
1945年にアメリカで初演されたテネシー・ウイリアムズ作「ガラスの動物園」の戯曲のト書きに例えば、このような表記があり、へえと思った。
スクリーンに文字―「去年の雪いまいずこ」
スクリーンに映像―ポーチで客を迎える少女時代のアマンダ
そうなのだ。
演劇と映像のコラボレーションが、行われている。
しかも、テネシー・ウイリアムズの有名戯曲ですでに指定されてることに驚いた。
エンターテイメントの世界も他のあらゆるジャンルと同様、時代とともに複雑化している。
旅などでもただ見学物を観るだけでなく、自ら行う体験型が求められていたりする。
テーマパークなどは、どこも来場者にここでしか出来ない体験をしてもらおうと様々なアイディアを尽くす。
わかりやすいひとつの形が東京ディズニーランドやUSJ。
ただし、送り手が用意したものを享受する自分にも飽きてくる。
ロールプレイングゲームのように、選択権を与え、自主性を発揮できることに価値を見出したりする。
客席に一方的に座っているからと言って、完全な受動的な存在ではない!
我々も能動的存在であり、この作品に参加する権利があるのだ!
そんな大げさなものではないが、人はテレビでもクイズ番組が好きだし、
本屋に行っても、クロスワードパズル雑誌のコーナーは売り場の一角を占めている。
高学歴者のクイズ王、謎解きなんてのも今でも続く時代のキーワードだ。
FOX WORKSの「Magiician's Worth」のチラシにはこう表記されている。
マジック×謎解き×ミステリー×多重展開
さあ、果たして“演劇”は行われるのか?
時代は大正9年。
江戸川乱歩、大正ロマン、観客は自分勝手にイメージを作り上げていく。
これは大いなる期待でもある。
テーマは、マジック。
導入は、幻影城を作った建築家であり、マジックの創作者でもある老人を奇術雑誌の記者が取材に訪ねるところから始まる。
話の骨子は老人が語る「幻夜城」で繰り広げられた、とある奇譚。
謎の天才マジシャン「D」により導かれたトップマジシャンが集められ、競わされる。
マジックにも得意ジャンルがあり、登場人物にはそれぞれ振り分けられていた。
マジシャンらしい名があり、衣装、出で立ちにも反映する。
トップマジシャンと言う役割だが、舞台で実際のマジックは行われるのか?
それは演劇では必ずしも必要な条件ではない。
ピアニストだからと言ってピアノを弾く場面が必須なら出来る役者は限られる。
おそらく役を演じる前はマジックの実践者でなかったと思われる俳優たちは、
それぞれのマジシャンとしての特徴であるマジックを披露した。
そこは作品にとって重要なポイントだったのだろう。
「限定 推理チャレンジ席」が最前列に用意されていて、謎を解く実践者としての役割も持つ。
それは舞台上の住人としてではなく、舞台と客席の約束事を破り、遊園地での謎解きゲームに挑む参加者となる。
演劇として観ようとすると、それぞれ持ち合わせている「演劇の見方」がじゃまする時がある。
「演劇とはこういうもんじゃない・・・」
でもどこかそんな凝り固まった見方をがらりと覆される作品を求めて劇場に足を運ぶ。
チラシにもあり、台詞にもあったように思う。
「マジシャンはいつも、観客の驚く顔が見たいのさ」
きっとそれが今回の作品の一番の目的だろう。
エンターテイメントの道はある意味芸術志向より、奥深く困難な道なのかもしれない。
そんなことをふと思った。

遅ればせながらそれについて触れようと思う新年。
12月8日(日)15時~
はままつ演劇フェスティバル2024参加作品。
演劇とは何だろう?と考えてみた。
いろいろな演劇を観るとこういう機会も出来る。
劇場でやるから演劇と言うわけでもない。
演じるのは舞台、観るのは客席と境界線を設けるのが演劇でもない。
価値を観た人自身で決めることが出来る。
必ずしも決める必要もない。
タイトルの「マジシャンズ・ワース」の意味は、マジシャンの価値だそうだ。
芸術かエンターテイメントか指向性を問題にしても境目はあいまいだ。
どちらが有用かなんて論議は不毛だ。
どちらも必要としている人がいる。
良いエンターテイメントは芸術だ。
プロによるものかアマチュアによるものかもそう。
プロ=良い演劇、というわけではもちろんない。
基本的には誰もが自分が求めている演劇を観に行く。
有料にせよ無料にせよ。
開催場所への距離に応じ、交通費だったりガソリン代がかかったりする。
誰にも平等に与えられた時間を費やすことにもなる。
求めていないものに時間を費やす余裕は誰もないのだ。
浜松市芸術祭の一環だからと言って、エンターテイメントにふった作品をやってはいけないということはない。
むしろ志向するならぞんぶんにやりきってもらいたいと思う派だ。
商売として演劇をやっていないと、とかくエンターテイメントと言う言葉から離れがちになる。
しかし、世の中を見渡してみれば、そのような演劇の方が優勢に見えたりもする。
ブロードウェイ等のロングラン作品を翻訳しレパートリー化した劇団四季のミュージカル。
これはそれのみで生活する劇団員を雇う営利団体としての劇団を維持し発展させて行くために選択した手段。
「レ・ミゼラブル」や「ミス・サイゴン」だって、海外発が今では日本で十分なじんでいる。
歌舞伎座で行われる歌舞伎はテレビなどメディアでも有名な歌舞伎役者を抱え、古典芸能を興行として成り立たせているように見える。
多ジャンル発のエンタメ強力コンテンツを演劇化した作品は数多くある。
「ワンピース」や「風の谷のナウシカ」は歌舞伎化されたし、「千と千尋の神隠し」は有名女優のダブルキャストで演じられ、「進撃の巨人」「鬼滅の刃」もブームの後には企画され舞台化されるという流れは出来ている。
あんなに本が売れ、映画でも多くの観客を動員した「ハリーポッター」は本場イギリスで演劇化された作品を日本向けにして持ってこればあらかじめ成功は約束されているものだとも言えるだろう。
2.5次元演劇と言う演劇ジャンルがある。
アニメなどのキャラクターをさす平面世界2次元と、実在する人物の存在世界である3次元との中間の意味だが、
本来の2.5次元の意味と合っているのかわからないが、誰かが紹介するためそう名付けたのだろう。
プロジェクションマッピング等デジタル映像により、俳優の身体以外に頼りになる手段が発展したことはそれらを支える大きな要因だと思う。
AIによる即興性あふれるコンテンツも生まれるかもしれない(今もあるかもしれない)。
望む望まないは人それぞれあるだろうが。
それは、観客が求めるものが変化していることにも所以する。
コンピューターゲームなどは、デジタル技術の進化により、創成期と比べれば格段の違いだろう。
音楽などは部屋に置かれたコンピューターの前で完結させることが出来る。
身体表現を基本とする演劇は、その点、世の中の技術の発展に対し、遅れをとっているようにも見える。
むしろ、遅れながらやっとついていっていると言えるかもしれない。
1945年にアメリカで初演されたテネシー・ウイリアムズ作「ガラスの動物園」の戯曲のト書きに例えば、このような表記があり、へえと思った。
スクリーンに文字―「去年の雪いまいずこ」
スクリーンに映像―ポーチで客を迎える少女時代のアマンダ
そうなのだ。
演劇と映像のコラボレーションが、行われている。
しかも、テネシー・ウイリアムズの有名戯曲ですでに指定されてることに驚いた。
エンターテイメントの世界も他のあらゆるジャンルと同様、時代とともに複雑化している。
旅などでもただ見学物を観るだけでなく、自ら行う体験型が求められていたりする。
テーマパークなどは、どこも来場者にここでしか出来ない体験をしてもらおうと様々なアイディアを尽くす。
わかりやすいひとつの形が東京ディズニーランドやUSJ。
ただし、送り手が用意したものを享受する自分にも飽きてくる。
ロールプレイングゲームのように、選択権を与え、自主性を発揮できることに価値を見出したりする。
客席に一方的に座っているからと言って、完全な受動的な存在ではない!
我々も能動的存在であり、この作品に参加する権利があるのだ!
そんな大げさなものではないが、人はテレビでもクイズ番組が好きだし、
本屋に行っても、クロスワードパズル雑誌のコーナーは売り場の一角を占めている。
高学歴者のクイズ王、謎解きなんてのも今でも続く時代のキーワードだ。
FOX WORKSの「Magiician's Worth」のチラシにはこう表記されている。
マジック×謎解き×ミステリー×多重展開
さあ、果たして“演劇”は行われるのか?
時代は大正9年。
江戸川乱歩、大正ロマン、観客は自分勝手にイメージを作り上げていく。
これは大いなる期待でもある。
テーマは、マジック。
導入は、幻影城を作った建築家であり、マジックの創作者でもある老人を奇術雑誌の記者が取材に訪ねるところから始まる。
話の骨子は老人が語る「幻夜城」で繰り広げられた、とある奇譚。
謎の天才マジシャン「D」により導かれたトップマジシャンが集められ、競わされる。
マジックにも得意ジャンルがあり、登場人物にはそれぞれ振り分けられていた。
マジシャンらしい名があり、衣装、出で立ちにも反映する。
トップマジシャンと言う役割だが、舞台で実際のマジックは行われるのか?
それは演劇では必ずしも必要な条件ではない。
ピアニストだからと言ってピアノを弾く場面が必須なら出来る役者は限られる。
おそらく役を演じる前はマジックの実践者でなかったと思われる俳優たちは、
それぞれのマジシャンとしての特徴であるマジックを披露した。
そこは作品にとって重要なポイントだったのだろう。
「限定 推理チャレンジ席」が最前列に用意されていて、謎を解く実践者としての役割も持つ。
それは舞台上の住人としてではなく、舞台と客席の約束事を破り、遊園地での謎解きゲームに挑む参加者となる。
演劇として観ようとすると、それぞれ持ち合わせている「演劇の見方」がじゃまする時がある。
「演劇とはこういうもんじゃない・・・」
でもどこかそんな凝り固まった見方をがらりと覆される作品を求めて劇場に足を運ぶ。
チラシにもあり、台詞にもあったように思う。
「マジシャンはいつも、観客の驚く顔が見たいのさ」
きっとそれが今回の作品の一番の目的だろう。
エンターテイメントの道はある意味芸術志向より、奥深く困難な道なのかもしれない。
そんなことをふと思った。