浜松市福祉交流センターに「ともにいるだけで学びになる~福祉とアートの現場から~」に行った

カテゴリー │いろいろ見た

1月21日(土)13時30分~

主催は認定NPO法人クリエイティブサポートレッツと文部科学省で「共に学び、生きる共生社会コンファレンス」。
クリエイティブサポートレッツは、知的に障害のある人たちの表現活動をサポートすることを中心に、障害をはじめあらゆる「ちがい」を越えて全ての人たちが、いきいき暮らしていける社会づくりに貢献することを目的として運営されている。

13時30分に間に合うために会場へ車で向かったが、
渋滞と駐車場の確保に思ったよりも時間がかかり(それは僕の責任)、10分以上遅れて席につく。

関係者のあいさつの途中だった。
もしかしたら主催の文科省の方の話だったかもしれないが、聞き逃した。

おふたりのキートークから本題は始まる。
先ず、アーティストであり東京藝術大学学長の日比野克彦さん。
僕が20代の80年代、日比野さんの名前は各メディアでよく見聞きした。
段ボールを素材にアート作品をつくっていることもよく知っている。
でも展覧会に行ったことはない。

作品を実際に観たのは、それよりずっと経った4年前の2019年2月。
静岡市美術館へ「起点としての80年代」へ行った時。
1980年代は「インスタレーション」や「メディアアート」など今日の美術につながる起点となった時代ではないかというコンセプトの美術展。
美術に変わり、アートと言う言葉がよく使われ、「オルタナティブ・スペース」が登場し始めたのもこの時代だと言う。
オルタナティブ・スペース‥‥‥。確かに。
日比野さんのコーナーもあり、野球のミット他、段ボールで作った作品が展示されていた。
演劇作品に美術・出演で参加したときの写真パネルもあった。

キートークでは東京都等が主催し、日比野さんが監修したTURNプロジェクトのことが紹介された。
東京2020オリンピック・パラリンピックに向け、障害の有無、世代、性、国籍、住環境などの背景や習慣の違いを超え、
多様な人々との出会いによる相互作用を表現として生み出そうというアートプロジェクト。
2014年から日比野さん自身をはじめとし、アーティストたちが福祉施設等に滞在し、一緒に作品づくりをした。
そこにレッツも関わっている。

神戸大学の教授である津田英二さんが、「出会い」について、
自分の意識性だけでは成立しない、人や物を媒介としながら、
自分自身の無意識の部分と出会う、それはつまり気づきであるという話をされた。
「気づき」という言葉。
これはイベントの最後、客席からの質問でもう一度出てくることになる。

続いて、5名の方による15分づつの事例紹介。
①レッツの高林洋臣さんが障害者施設アルス・ノヴァの日々を紹介。
②レッツのササキユーイチさんが「街をリビングルームに」というコンセプトで久保田壮さんの飴活(アメカツ)を紹介。
③たけし文化センターシェアハウスの体験者高本友子さん、原菜月さんの重度知的障害者たちとのシェア生活体験記。
④レッツの夏目はるなさんが小学生などの校外学習「GOGO!たけぶん探検隊」のプログラムについて紹介。
⑤STスポット横浜の田中真実さんがダンサー等アーテイストが出向き障害者や外国人たちを指導する社会教育活動を紹介。
短い時間で活動すべてを語り切るのは不可能だが、語られたご自分自身のことが興味深い。

最後に登壇者のほか地域連携協議会メンバーと共にラウンドテーブル。
ラウンドテーブルとは、ラウンドテーブルミーティングとも言い、
立場、役職、部署の違う数名で円卓を囲み、上下関係を気にせず自由に意見交換をする会議のこと。

進行役が、発言者を指名するのではなく、自主的にマイクを取ることを促したのも
「ラウンドテーブル」の進行方法を意識したものだろう。
ただ、それぞれが違う立場と言うより、価値観が共有出来ている間柄の方たちで、
円卓をひとまわりすると、だいたい言いたいことは言ってしまい、場が滞ったように感じた。
2時間とたっぷりあったので、早目にWEB参加者や客席から質問を受け付けてもよかったかもしれない。
津田さんが話した、「自分自身の無意識と出会う人や物との出会い」。
新しい価値観を生み出すきっかけがあるとしたらそこからだ。

舞台と客席の間には、スペースが設けられている。
それは、レッツの日常をそのまま持っていく「出張レッツ」とも言える場が形作られている。
客席からは椅子などに阻まれて詳細は見えなかったが、
子どもや障害者やサポートする人たちが思い思いに過ごしていた。
そこは、コンファレンスを執り行う舞台の上の人と見に来た客席の人とは
「世界の違う場所」であった。
聖域、サンクチュアリとも言える。
一番の特徴は、舞台上で準備して語られることをほぼ聞いちゃいない、ということだ。
でも、その場にともにいる。
これは今回の大きなテーマ。

ともにいるから治外法権区域と言うわけではない。
役割としては、滞りなく進もうとする予定調和にストップをかけること。
同調圧力には屈しない。
違和感とも言える。
これは時に批評性を帯びて会場に伝わる。

キートークの時は、おとなしく与えられた場所で過ごしていた。
座っている場所からは良く見えないが、用意されていたおもちゃなどで遊んでいたのだろうか。
新しい行動に移るきっかけは時間の経過に対する異議かも知れない。

舞台の端っこに、おもちゃが横一列に几帳面に並べ始められた。
それまでは、ここは乗り入れてはいけない場所として認識していたのかもしれない。
そのタブーの領域を越えてみる。
また、越えてもいい、そんな許容のメッセージを受け取っていたのだろう。
先ず1個置いてみる。
許されることがわかると、またひとつまたひとつ。
でも子どもたちだけの遊び場だったら、もっと無軌道だろう。
その場がどういう場であるか、見つめる観客席、
そういった環境が、その時の行動をつくる。
見えない結界を越え、他者の世界を徐々に侵食していく。
並んだおもちゃは崩され、話し合いが行われている舞台上に広がる。

舞台に上がり、小石を鳴らしながら歩く人がいる。
そこにはサポートをする人もついていく。
客席を見渡しながら、寝そべる人がいる。
琴で「さくらさくら」を弾く人がいる。
折り紙で折った紙ヒコーキが飛ぶ。
飛行がうまくいかなければ知恵と技術を駆使して改良される。
小さな紙の飛行距離が物足りないとなれば、大きな紙を折りだす。
紙飛行機は性能を高め、ラウンドテーブルの大人たちに届き始める。
大人たちが目の前に落ちた紙ヒコーキを飛ばし返したりもする。
ただし、語りを止めることはなく、ラウンドテーブルは続いている。

それは無軌道な行動により壊されて行くのではない。
小石を鳴らす人も寝る人も紙飛行機飛ばす人も、自らの行動をわきまえている。
想像し、つくりあげているのだ。
いや、そんな能動的なものでなくてもいい。
ただ居る。
その人によるその場にふさわしい佇まいが、結果、場所をつくりあげている。

舞台中央に座っていた日比野さんが立ち上がり、全身を使って、本気で客席に向かって紙ヒコーキを飛ばす。
とても美しい軌道で客席に落ち、その時は時間が止まった気がした。

終了予定時間となり、客席から質問を受ける。
ひとりめは、登壇されなかったが、同じ地域連携協議会に所属する医師の方。
ふたりめは、レッツが運営するアルスノヴァという障害福祉サービス事業所にかつて5年間いたという青年。
今は事業所を出て、正社員として働いているそうだ。
彼が質問したこと自体が今回のコンファレンスでとても象徴的だった。
チラシにも掲載されている文科省の事業名は「令和4年度 学校卒業後における障害者の学びの支援に関する実践研究事業」である。

彼は「学んだことは知識ではなく、恥じ。廉恥」だと言う。
恥を知って生きていくことは、気づきがあることだと言う。
ただし、修正していく人、出来ない人、しない人がいる。
ともにいるだけで学びになる、というのもひとつの恥。
「明日を生きるということが大事」という出来過ぎた言葉で締めくくる。







 

シネマe~raで「ペルシャン・レッスン 戦場の教室」を観た

カテゴリー │映画

1月15日(日)16時~

「戦場の教室」というサブタイトルはとても皮肉的なタイトルだ。

第二次世界大戦下のナチスドイツの強制収容所で行われる
管理する将校と捕虜の青年とのペルシャ語の個人授業。

戦争終了後を見越しペルシャ語をマスターする必要がある将校の思惑により、
時代の運命に巻き込まれ、自発的ではなく、成り行きの中で、
生き残るための偽のペルシャ語レッスンが始まる。
ユダヤ人の青年は殺されないために、ペルシャ人であると嘘をつく。

ナチスドイツの強制収容所の収容者たちの置かれた立場は、
意識して徹底的に描かれる。
管理者は収容者に対し冷酷で高圧的だ。
殴り、蹴るの制裁は観客に残酷さを刻み付けるかのように非情だ。

その行為は、1945年の連合国軍への敗北以来、現在では二度と再現されてはならない
時代の負の遺産として世界中の多くの人に刻み付けられている。
だから、こうして僕も映画館に足を運ぶのだ。

それではナチ党の管理するドイツ人たちが残虐で卑劣な性格なのかというと当然そうではない。
そういう立場になったというだけのことだ。
非情さを演じ、粛清行為を行う。

加害者側と被害者側、そんな対極の関係の中で、行われる命をつなぐ授業。
青年が、ペルシャ人ではなく、ユダヤ人であることがばれたらそこで終わり。
全く知らないペルシャ語を教えるために、架空のペルシャ語を創作する。
目に入る物をヒントに、また、命じられた食事番で捕虜たちに配膳する際、名前を聞き、
そこから連想ゲームのように言葉を生み出していく。

言うならば、でたらめ言葉。
でも、どんな言葉でもそういうものではないか?
もちろんたったひとりの男により生み出された言葉はないだろうが。
それらは、苦さを含んだ美しいラストシーンにつながっていくのがこの映画の醍醐味。

そのシーン観ながら頭に浮かび上がってくるのは、冷徹な顔の裏側に純真な夢を抱いたドイツ人将校。
偽のペルシャ語をマスターした男がユダヤ人として生き残った男と授業の結果、
心のつながりを持つことがまた皮肉。

それが戦争であるというメッセージだが、
映画をつくった監督であるヴァディム・パールマンさんはウクライナに生まれる。
ただし、幼少期に難民としてヨーロッパへ渡り、そして、カナダの大学で映画を学ぶ。
トロントで制作会社を立ち上げ、CMやミュージックビデオの演出の仕事に従事する。
マイクロソフトやナイキの仕事もし、CM界では革新的なディレクターだったというから、
映像を学んだベースはカナダで培われた。

商売で培われた緻密で妥協しない映像と生まれてからの複雑な経歴。
それが映画に現れていると思う。
一方を正義、一方を悪とは単純に断定はできない。
ただし良いことは良いこと、悪いことは悪いこととして、映画は帰着させている。
それは信じられることだと思う。






 

路上演劇祭Japan in 2023 出演者・スタッフ募集のお知らせです。

カテゴリー │路上演劇祭

僕も実行委員として関わっている
「路上演劇祭Japan in 浜松2023」の出演者・スタッフ募集のお知らせ。


『未知につながる路』

日程:6月10日(土)
場所:砂山銀座サザンクロス商店街
締切:3月10日(金)
※出演にあたっては規定のエントリーシートを提出。
お問い合わせはこのブログでもOK。
(エントリーシートをメールにて送付します)

募集案内はこちら







 

2023年の始まり

カテゴリー │新年の始まり

明けましておめでとうございます。


今年はどんな年になるのだろう。

今年はどんな年にするのだろう。

それは世界と僕にかかっている。


今年もよろしくお願いします!(^^)!