第68回浜松市芸術祭

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■第68回浜松市芸術祭
                           フィールド 寺田景一

僕が浜松市芸術祭・演劇・人形劇部門へ関わることになったのは、第50回浜松市芸術祭『はままつ演劇・人形劇フェスティバル2004』からだ。

50年という節目を迎え、劇団員が企画・運営に参加し、主催者である浜松市や財団法人浜松市文化協会の人たちと一緒に盛り上げていくという転換点となった年である。

実行委員会10名と別に実行組織が作られ、主な運営はそちらで行う。

クリエート浜松の会議室で、検討会は行われ、コンセプト案として、「多くの市民に演劇・人形劇を観ていただくため、市民が楽しめる作品を提供およびイベントを企画し、演じるものの視点だけでなく、観る側の視点も入れて事業を展開する」とある。

運営会議の組織図には、座長として、見野文昭さん。
部会として、公演・イベント部会、広報部会、招聘部会、ワークショップ部会、人形劇部会があり、部会長及び部会員がいる。
そして事務局。
こちらは浜松市文化政策課及び文化協会の担当者。

◇人形劇部門
招聘公演:シアターポッポ
自主公演:人形劇サークルかみふうせん、人形劇団てだのふあ、人形劇団かぜのこ、パネルシアターあそび、劇団トトロ&どんぐり、人形劇団どんぐり
その他:ワークショップ受講生公演
ワークショップ:影絵劇ワークショップ

◇演劇部門
招聘公演:MONO
自主公演:環境演劇劇団シアターキッズ地球村、劇団Skip!、浜松放送劇団、劇団遊演地、演劇集団浜松キッド、劇団からっかぜ、フィールド、MUNA-POCKET COFFEEHOUSE、PROJECTルア+唐津匠
協賛公演:劇団たんぽぽ、演劇ユニットマナーモード
ワークショップ:演劇評論家養成ワークショップ(講師 扇田昭彦氏)、俳優ワークショップ(講師 中山一朗氏)、青少年向け演劇ワークショップ(受入れ劇団:シアターキッズ地球村)
イベント:つながる「夢」浜松JCスロースクール(パフォーマンス、PR参加)、はままつ夢づくりフェスタ2004(PR参加)
また、チラシには別予算・運営で行われた、ゆかりの芸術家顕彰でマキノノゾミさんの講演会が掲載されている。

以降、財団法人の名称が浜松市文化振興財団に変わったり、運営会議が財団の会議室で行われるようになったり、参加メンバーも変化しながら、時が経つ。

大きな変化は、2017年より市や文化振興財団が運営から抜けたこと。
演劇部門は我々、静岡県西部演劇連絡会が引き受け、主管という立場で運営を担うことになる。
人形劇部門とは再びたもとを分けることとなる。

はままつ演劇フェスティバル2022は、オムニバス公演、FOX WORKS、MUNA-POCKET COFFEEHOUSE、劇団からっかぜ、シニア劇団浪漫座の自主公演が終了し、演劇ワークショップと高校演劇選抜公演が残るのみとなった。

今回が第68回浜松市芸術祭であることは、(僕も含め)関わった方のどれだけが意識されているかはわからない。
また、浜松市民にどれだけ演劇が浸透するようになったかも明確な答えはない。
ただし、各公演で、さまざまな参加者やお客さんを観ると、確実に続けてきたのだ、という実感が湧いてくる。

第1回からの浜松市芸術祭演劇部門の歩みについては、劇団からっかぜさんのHPに掲載されている。


(静岡県西部演劇連絡会会報2022年12月4日号より)


※以前は会報の発行を担当する連絡会の事務局をやっていたこともあり、年3回の発行日(4・8・12月)のほぼ毎回原稿を出していた。
今回、久しぶりに書かせてもらった。







 

オリンピックと演劇

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■オリンピックと演劇
                      フィールド 寺田景一


東京オリンピックが始まった。
開会直前にもいくつか問題が起こり、開閉会式のショーディレクターを担当していた小林賢太郎氏が過去の作品の表現が理由で、本番前日に解任となった。
小林氏は、ラーメンズというコントユニットで、テレビのお笑い番組に出演していたこともあるが、その後舞台を中心とした活動に移行し、ソロ公演やプロデュース公演、また、カジャラというコント集団などで、公演を重ねた。
そして、2020年11月16日をもって、表舞台での活動は停止するという発表がされた。

僕は、小林氏の舞台などをテレビやYouTubeなどで観たことはあるが、生で観たことがない。
豊橋の劇場PLATで公演情報を見つけるが発売後すぐに完売となっていた。
小林氏の公演は、僕の中ではコントと言うイメージだが、戯曲集という形で著作物を出していて、演劇とも言えるし、そして、ミュージシャンと組んだり、映像作品を発表したり、ジャンルというくくりは重要でないのかもしれない。

ジャンル分けは僕もどうでもいいのだが、興味深いのは、あくまでも僕が活動する範囲での情報であるが、演劇に関わる人に小林賢太郎ファンが多いことだ。
僕と同年代だとつかこうへい、野田秀樹、北村想などとなるが、もっと下の年代であることは断わっておく。

一体何が引き付けるのだろう?
それは、発想と仕上がった作品が、とても斬新に見えるからなのではないか?
その発想が、今までこの世になかったまったく新しいものであるということではない。
新しく見えるということが重要で、小林さんはそのように見えるように意識的に計算してもの作りをしているのではないか?

表舞台から引退するという発表の後、名前を聞いたのは、7月15日、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式についての発表を行った際である。
ショーディレクターとして、クリエイティブの名簿のトップに小林氏の名前があった。
その時は、お笑い番組だったり、コントや演劇などの活動の先にこれがあるのかと、少なからず驚いた。

それは歓迎だけではない。
コロナ禍、1年の延長を経て、開催が発表されながらも反対の意見が渦巻く中、突入しようとしている式典は一体どんな演出をすれば、多くの人を満足させられるのだろうと部外者にもかかわらず心配した。

小林氏が、今まで行っていたように見えた、自分の目が届く範囲を注意深くコントロールしながら広げていく手法とマッチするのだろうか?
あ、でも今回は、非常事態時のオリンピックの式典だ。
全世界から新しい価値観を求められるのではないか?
そんな理由で、小林氏は選ばれたのではないか?

僕は、ここでは、解任の件については言及しない。
今までもこれからも表現活動の価値が変わるものではないと思うから。

開会式が終わっての反応で驚いたこと。
それは、新しい価値観を求められていたことは共通認識だと思っていたのだが、思いのほか、過去のオリンピックやコロナ禍以前に計画されたプランとの比較で例えばしょぼかったとか、感想が述べられていたこと。
それはないんじゃないか、と思うが、人は頭で考えるよりも心で反応しがちであることを認識。
組み込まれている各々の価値観が表に立ってしまうのである。

演目の中に、1964年の東京オリンピックの際に導入された競技種目の50のピクトグラムを実演するパフォーマンスだが、僕も多くの方が述べているように、仮装大賞だ、と観た途端に思ったのだが、これなど小林氏らしいなと感じたのも確か。
ミニマムに必要最小限の人数で行うこと、オリンピックの歴史を継承するつながりを持つこと、無観客でテレビの向こうの視聴者を意識したものであること、言葉の壁を越えて誰でも理解できること、上質なエンターテイメントであることなど、様々な状況から生まれてきた条件の中で考え抜かれたことが伺える。

平常時だったら、やらなかったと思う。
その時は各国の参加者たちはグランドに集結していて、大型ビジョンでは観ることができたと思うが、会場にいる人が生で観るには、表現のサイズが小さすぎる。

演劇畑では著名な劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチ氏もコロナ禍以前の総合演出チームの中で、開会式のステージ演出に抜擢されていたそうだ。

演劇というものは、生の舞台で行うということが本質となるので、日ごろの活動からすると、会場の規模が表現の枷となる。
観客が拡大なしで観ることが原則となるので、小劇場から始まった劇団が大きなホールで公演するようになっても、一番遠い客席のお客さんから観ても満足できるように作る。

それが、数万人収容のスポーツ競技場が舞台となると、音楽なら音というものの強みで、距離を乗り越えてしまうが、演劇はそうはいかないのも現状。
まあ、サーカスのようなものなら出来うるかもしれないが。

僕は多くの人と同様オリンピックの開閉会式が好きだが(これも今まで観てきた経験から組み込まれていると思われる)、やはり開催国の文化財産を駆使した、ある意味金に糸目をつけない本気の見世物が楽しみなのだろう。
そして、オリンピックというスポーツの祭典で、文化というアプローチで一緒になって盛り上げることに高揚感を感じるのだろう。

表現は当然、自分のためだけにしていいが、おのずと対象者が必要となる。
文章なら読んでもらわなければ意味はない。
音楽なら聴いてもらわなければ意味がないし、映画や演劇なら観てもらわなければ意味がない。

オリンピックの開閉会式の対象者は誰なのだろうか?
世界中、という表現が当てはまるのかもしれない。
でもそれは顔も見えない人たちである。
インターネットでの表現(YouTubeとかSNSとか)も、対象は世界中という言い方もできるが、実際はそんなことは意識せず、あくまでも自分発信で発進したのがたまたま世界に届いてしまう時もあるという感覚だろう。
僕が開閉会式の演出に選ばれることは万に一つもないが、そんなことを考えた。


(静岡県西部演劇連絡会会報 2021年8月1日号より)




 

ワークショップ評

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■ワークショップ評
                          フィールド 寺田景一


演劇の批評は劇評と言う。
ワークショップの批評は何と呼ぶのだろうか。
はままつ演劇フェスティバルは2004年、はままつ演劇・人形劇フェスティバルとして劇団が単独公演をする自主公演だけでなく、ワークショップや招聘公演などを行い、浜松の演劇シーンを演劇人たちが(当時は人形劇人も)一体となって幅広く盛り上げていこうという趣旨で始まった。

ワークショップについては、当時静岡文化芸術大学の教授であった劇評家の扇田昭彦氏が講師を務めた演劇評論家ワークショップ等の劇評、殺陣や照明、中山一朗氏や劇団うりんこや佃典彦氏の演技などのワークショップが行われた。
2009年の演劇と人形劇の合同ワークショップの後、2010年から、短編戯曲を書き上げる劇作ワークショップと複数の地元の演出家を講師とした演技ワークショップが始まる。
演技ワークショップでは、劇作ワークショップで選ばれた数作の戯曲が題材として使われ、演出家ごとに班分けされそれぞれ作品作りを行い、演劇祭のファイナルイベントで上演される。

フェスティバルのコーディネーターであった大岡淳氏が講師を務める劇評ワークショップも並行して行われていたが、大岡氏の退任後、何人かが講師を務めた後、現在は行われていない。

そんな中、コロナ禍となった。
2020年は演劇祭の全ての日程が中止となり、現在2021年について話し合いがなされている。
ワークショップについてもワークショップ部会にて話が進められているが、現状ではオンラインにて行われる方向だと言う。

2010年に始まった劇作→演技→ファイナルの連動は2019年まで10回行われている。
なぜ10年という長きに渡り実施出来ているのだろうか。
それは、どちらのワークショップも劇作りが持つ『根源的な喜び』を体験できるからではないだろうか。
劇作ワークショップなら1本の戯曲が立ち上がる。
演技ワークショップなら1本の演劇が立ち上がる。
始まる前までは、姿かたちがなかったものが、終わるとそこには確かに何かが残るのだ。
ワークショップにより生み出されたものが。

これらが、劇作ワークショップは2日(以前は3日)きりで、演技ワークショップは1日きりで、作品作りまで行ってしまう。
短編作品とはいえ、効率的で素晴らしいことだ、と思うが、一方、やり残してしまうこともある。

それは、しばしば参加者や参加を考えている人から聞く意見でもある。
「もっと基本的なことを教えてほしい」。
うん、確かにそうだろう。
でも、これを1日や2日の日程で行っても、ほんのさわりを教えることができるかどうかだろう。
これも入り口の一つではあるが、こういうワークショップは例えば“東京”では山ほど行われている。
地方ではあまりないのかもしれない。
それは演劇により生計を支えている人の数の違いであると思う。
そのような声を無視するべきではないが、制限ある中で行っている事業ではある。
基本からみっちりと系統立てて学べる機会、それはあればいいと確かに思う。

突貫工事ではあることは承知なのだ。
見落とすところもたくさんあるかもしれない。
すべての人に平等ではないかもしれない(誤解はしないで欲しい。機会は平等なのだ)。
経験者も未経験者も違う年齢の人も演劇観が異なる人も他者との競争の波にも飲み込まれる。
そこでは満足する者もいれば、挫折感を味わう者もいる。
それが嫌で参加しない人もいるかもしれない。

それでもひたすら最後まで作ることを目的に、講師も参加者も一体となって走りきる。
書くことも演技することも演出することも辛く、そしてまた楽しいことなのだ。
それは演劇を作る過程で味わうことができる『根源的な喜び』であると思う。
それがここではたった1日か2日で実現する。
そんな喧騒の1日か2日。
なかなかできない体験に翌年も申し込むリピーターが多数。
匂いを嗅ぎつけた新たな参加者も交え、再び1日か2日の喧騒が展開される。
そして気が付けば10年。
振り返ればそんな感じなのかもしれない。

しかしながら、ここで行われることはあくまでも限定された枠の中での作品作りの体験である。
劇作の道も演技の道もその先は長く、そして広い。
それはもちろん誰もがわかっていることであるが。


静岡県西部演劇連絡会会報2021年4月18日号より




写真は2010年浜松開誠館高校で行われた演技ワークショップ。
撮影は浜松写真連絡協議会さん。






 

事務局交代

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■事務局交代                 フィールド 寺田景一

今年の8月の改選をもって、事務局が交代した。
創立からのメンバーではない私は、2002年に静岡県西部演劇連絡会が出来た頃のことはあまり知らないが、仲間たちとフィールドという、劇団と名乗らないが実質演劇をやる集団を立ち上げ、旗揚げ公演を行った頃、会長の見野さんから声をかけていただき、この団体の一員として参加するようになった。

最初に連絡会の例会に行ったのは、劇団テクノポリスの稽古場だった。
カレー処ヤサカの敷地内にかつてあったスペースCOAで、2003年7月の終わりに開かれたユニットライブに3劇団の内のひとつとして参加してすぐの8月の例会だったと思う。
それはちょうど翌年の2004年からそれまであった浜松市芸術祭の演劇部門を発展させ、人形劇部門と合同で、《はままつ演劇・人形劇フェスティバル》として関係各所が協力し、開催しようという時期だった。
僕にとっての連絡会の活動は最初から、フェスティバルの活動と《同義語》だった。

2カ月に1回の例会への出席率が比較的よかったからかどうかわからないが、その後、劇団からっかぜの布施さんのあとを継いで事務局の担当となった。
いつ事務局となり、どれくらい担当したのか思い出せないくらい長く担当させてもらった。
その間に辞めた人たちもいるし、一方新しく入ってきた人たちもいる。

連絡会というのはあくまでも横のつながりであり、それぞれにとっての主体とはなりえない。
当初は劇団単位の会員の集まりであった。
代表のみが参加する劇団もあれば、複数名が参加する劇団もあったが、いずれにしても劇団より連絡会の存在が上位に来ることはない。
その後、さまざまな事情で個人会員という立場の人たちも現れてきている。

現在の連絡会は、浜松市及び浜松市文化振興財団より委託を受け、はままつ演劇フェスティバルを主管することが、主な活動となっている。連絡会主体の活動をしよう、と独自のワークショップが行われたりもしたが、長く続かなかった。
近頃はそういう話も出なくなった。
そして、フェスティバルの自主公演に参加しなくなるとともに退会する劇団もあった。
しかしながら、公演を打たなくなった劇団が時とともに集まる機会が減っていくように、明確な目標がなくなると、集団は集まる理由を失っていく。
サロン的に日が合う人で会いましょうとか、年に1回忘年会も兼ねてなどとけしかけて会うくらいがオチになる。

フェスティバルも、市や財団が運営から外れ、人形劇との連携もなくなった。
しかしながら、フェスティバルは続いている。
私はそのことがすべてだと思う。
続いているということ。
自主公演中心と言う形態に変わりはない。
ワークショップの内容も固定化されてきた。
代わり映えがしないと感じる人もいるかもしれない。

但し、同じことを続けて行く中にも常に変革がある。
自主公演も新たな作品に挑むし、ワークショップも新たな人が参加する。
高校演劇は顕著だが、年度の繰上げでメンバーががらりと変わる。
変わり続けなければ現状維持も出来ないのである。
また、形を一変させることを俎上に載せて話し合う機会もあるといい。

ちなみに、同じ日、会長交代も実行された。


静岡県西部演劇連絡会会報2019年12月1日号より



 

演劇

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■演劇                   フィールド 寺田景一

私は演劇をやっているが、演劇を生業にしているわけではない。
演劇とは関係のない民間会社に勤め、演劇に費やす金は、働いて得た給与から充当している。
以前、転職する時、クライアントへ担当替えのあいさつに出向いた際、演劇をやっていることを話していた私は「これからは演劇を専門にやるの?」と聞かれたが、そんなことはないので、「いえいえ、演劇なんかじゃ食えないですよ」と演劇に全く罪はないのに、自嘲気味に答えた。

また、こんなことも言われる時がある。
「演劇って、お金かかるでしょ」。
一度や二度の言葉ではないので、このように答えたりする。
「みんながパチンコやったり、音楽好きな人がバンドやるのと変わらないよ」または、「特別なものじゃない。あくまでも趣味の一つだよ」と答え、微妙に笑う。

と言っても、趣味に膨大に金をかける人は多くいるが、私の場合は決してそうではない。
機材にお金をかけることはまったくないし、観劇も演劇をやっている行為の延長と言えるが、経済観念はそこそこあるつもりだ。
入場料金をしっかり吟味するし、観たい作品を求めて、距離(交通費に直結する)を厭わず出向くということも近頃は特に、ほぼない。

ずいぶん前になるが、こんな会話を交わしたこともある。
元々学校の同級生であったが、仕事の関係で久しぶりに会い、互いの近況を話している際、演劇をやっているという話をしたら、「大変なことをよくやるな」というような反応があった。
その男は、「自分は金と直結する事しかやらない」と言った。
例えば、ギャンブルにしてもそうだ。息抜きの為にやるのではない。
金を儲けるためにやるのだ。
また、仕事以外の日常生活でも、同様だ。
人と会う場合でも、その先に、自らへの金銭的なメリットを考えて人と会う、と言う。

その言葉は直接的であったが、むしろ潔いと思った。
対して、仕事とは別に演劇を一生懸命やっているらしい、私のことを自分とは違うと思ったらしい。
ただし、決してそのことに無理解ではなかったことは次に続く言葉で、納得した。
「仕方ないな。性分だから」。
そうか。
演劇をやっていることは、私の性分なのか。
理屈は抜きなのである。
金儲けが性分の方がうらやましい気もしたが、生まれついての性分なら、仕方がない。

とは言え、演劇とはひとりではできない。
何かを集めるのが性分の人がいて、その結果がコレクターだったら、ひとりコツコツ集めることで満足するかもしれない。
でもコレクターだって、同好の者たちと自慢し合ったり、中には博物館をつくり一般に披露する人もいる。

かつて読んだ本に、無人島でも映画を撮る映画監督と無人島では撮らない映画監督がいるとし、実在の映画監督が分類されていた。
無人島で映画を撮るということは、観る人もいないということを意味する。
転じて、無人島で、演劇をつくる人はいるのだろうか。

私が映画監督だったとしても、無人島で映画は撮らない。
たぶん誰かが観てくれるのを想定して、映画を撮る。
演劇の場合も同様である。誰かとは誰か?
それは、意外と日々会う目の前の人だったりする。
その人が、私がやる演劇を観る観ないに関わらず。

2019年8月4日号より


 

本間一則さんのこと

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■本間一則さんのこと         フィールド 寺田景一

本間一則さんが、はままつ演劇・人形劇フェスティバルの演劇部門の審査員をつとめられていたのは、表彰が始まった2006年から2010年の5年間である。
劇評家の扇田昭彦さんが、静岡文化芸術大学の教授をされていた関係で始まったともいえる劇評ワークショップは、地域演劇の劇評を書くという文化を生み、審査を担う人物を輩出するまでに至る。
本間一則さんもそのおひとりである。

2010年4月の連絡会の会報から、何度か依頼し、原稿を頂戴した。
初回は「私と演劇(芝居)との出会い」というタイトルで、PART1とされていた。
僕はこれを見て、ああ、次回も依頼するか、と思った。
結果、出会いにまつわる話はPART4まで続き、静岡文化芸術大学の開学2年目から社会人聴講生として、扇田先生の講義を受けるところまで語られる。

高校の時に演劇部を結成された先輩から誘われ、入部し、卒業されたあと、高校の恩師や友人たちと結成した「劇団青い猫」で数年間活動されたようである。
諸事情で解散後、観ることは続けられたと書かれているが、演劇を再開したとは書かれていない。

僕が本間さんと知り合ったのは、審査員を引き受けられた頃だ。
2004・2005年と劇評WSの講師を扇田先生がされた時、本間さんも参加されていたと思うが、僕は参加していない。

お会いする度のあいさつ程度で、それほど密に話をする機会はなかったが、フェスティバルのファイナルイベントが終わった後の打ち上げの席で、このように聞かれた。
「寺ちゃん、そもそも演劇を始めた理由は、何だね」。
え?何だろう。
その時は本間さんの経歴は何も知らなかった。
一方的な質問に感じられ、どう答えればいいのかすぐに返事が出来なかった。
即答できる答えはなかったし、過去のどこまで遡ればいいのかわからなかった。

質問というものは、質問者に由来する。
空の青さを知りたい子供は自然界の事象に興味があるのだろうし、健康の秘訣を知りたい大人はどこか健康に不安感があるのだろう。
他人が演劇を始めた理由を知りたい本間さんは、ご自身にこそ演劇への思いがあったのだろう。

もちろん、僕が質問を受けた時にはそんなことに頭は回らないから、“適当”に答えたことだろう。
何とお答えしたかも忘れてしまった。
酒が入っていたからと言って、不真面目に答えることはなかっただろうが、何を答えても自分の中で白々しかったと思う。
自分の答えがなかった時、もしも本間さんにこんな質問をお返ししていたら、どうだっただろう。

「どうしてそんなご質問をされるんですか?」。
本間さんは答えてくださっただろうか。
「いやあ、実は、俺も昔は演劇をやっていたことがあってねえ。かくかくしかじか」。
そんな話に発展していたら、僕も、もう少しまともな答えが出来たかもしれない。

昨年2018年6月に開催された路上演劇祭Japan in 浜松のご案内をメールで差し上げた。
「寺ちゃんが案内くれるからさあ、来ちゃったよ」。
会場である砂山銀座サザンクロス商店街で、久しぶりにお会いする事が出来た。
後日、静岡新聞の読者投稿欄に、「迫力ある路上演劇祭続けて」と見出しのついた本間さんの投稿が掲載されていた。

そんな本間さんが、先月お亡くなりになった。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

静岡県西部演劇連絡会会報 4月7日号より
写真は静岡新聞より





 

ボヘミアン・ラプソディ

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■ボヘミアン・ラプソディ         フィールド 寺田景一


12月1日映画の日にTOHOシネマズ浜松で
英国のロックバンド「クイーン」のボーカル、フレディ・マーキュリーの
伝記映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。
フレディがクイーンのメンバーである
ブライアン・メイやロジャー・テイラーと出会った頃から、
1985年にアフリカ飢餓救済を目的に開催された
ライブエイドのロンドン・ウェンブリースタジアムに登場したクイーンのライブまでを描いている。

実際のライブエイドのライブの模様を見事に再現していると話題になっている。
僕は、1985年の際は大学生で、アパートでテレビ中継を熱心に観ていた。
調べたら、フジテレビで7月13日午後9時から翌14日正午まで放送していた。

ライブの出演者に関しては、事前にも話題が盛り上がっていて、
ポール、ジョージ、リンゴが出演するばかりか、ジョンの息子、ジュリアン・レノンも登場し、
1日だけのザ・ビートルズ実現か?!と煽るスポーツ新聞の記事も目にした。

時代はメディアがレコードからCDに変わっていく頃で、MTVが登場し、
音ばかりでなく、ミュージックビデオでのプロモーションも重要視されるようになってきた。
クイーンは全盛期を過ぎたベテランバンドで、フレディのソロ活動が目立っていたが、
若くて勢いのあるマイケル・ジャクソンのようには行かない。

ライブエイド以前にバンドエイドと言う名で、イギリスで主に活動するミュージシャンたちが集められ、
「ドゥー・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」という曲が作成された。
クイーンのメンバーは誰も参加していない。

ライブエイドに出てきた時は、むしろ唐突感があり、その後の記事では、
クイーンは、チャリティー目的と関係なく、自分たちがやりたいパフォーマンスをやった、
と悪口を言われていた記憶がある。
チャリティーという目的があるので、普段やらない人達が共演したり、
社会的メッセージを発信してきたミュージシャンを登場させるとかではなく、
自分たちの宣伝の場にチャリティーを利用したのではないかという揶揄心である。

僕は、チャリティーだからと言う気持ちはまったくなく、
この時の夢のようなライブエイドの映像がまたいつか観られたらいいな、
と頭の片隅に少しだけ残しながら過ごしていたが、
2004年、DVDの4枚組として販売されるのを知り、迷わず購入した。
そのDVDの中でもクイーンは最も多い6曲収録され、何度か観てしまうパートの内のひとつだった。

そのDVDも長く観ていない。
そこで「ボヘミアン・ラプソディ」の情報を知る。
久し振りにDVDを手に取った。
クイーンのパートのみを観直した。
そして、映画を観た。
ライブエイド参加時のフレディやメンバーの状況も描かれていた。
その当時、フレディは命を落とすこととなるエイズに侵されていたことを知っていて、
メンバーにも知らせていたという。
その後、フレディが亡くなるのは1991年11月24日である。

タイトル名でもある「ボヘミアン・ラプソディ」という楽曲が生まれた経緯も描かれている。
「同じことをやりたくはない。オペラだ。オペラと融合した曲をやるのだ」。
実はとても演劇的でもあるのだ。
映画は、日本語の字幕があるので、歌詞の意味を感じながら聴くことができた。
それがよかった。


静岡県西部演劇連絡会会報12月2日号より






 

砂山劇場の終わり

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■砂山劇場2018の終わり          フィールド 寺田景一


路上演劇祭に参加することを目的とする砂山劇場2018は、2017年11月11日13時~の「街歩きツアー」から、具体的な活動が始まった。
参加者募集チラシを作成したが、そちらの成果は芳しくなかった。
2018年6月3日の本番に向け、月2回程度集まって進めて行くことは決めていたが、具体的な進め方は何も決めていなかった。

決めようがないのだ。
参加するメンバーで話し合って決めていくというのが企画の趣旨。
見切り発車でもいい。
先ずは、街に出るのだ。

ゼンリンの住宅地図の砂山町に該当する箇所を図書館でコピーした。
希望者にはそれを渡し、それぞれカケラ探しをする。
カケラとは何だろう。
いったい何を探せばいいのだろう。
それは参加者に委ねられる。

芝居作りを列車旅行に例えると、通常の芝居作りは、列車に乗る同行者は多くが同じであるが、今回は、各駅で乗り込む人が変わる感じだった。
一度きりだったり、降りた人がまた乗ってくるとか。

また、当初想定していなかった意味合いも生まれてきた。
最終地点である、砂山劇場2018の上演に参加はしないが、列車には同行して、自分たちは自分たちで表現する。
それはとても面白いと思った。

月2回の集まる日は、都度決めた。
本番まであらかじめ日程を決めて、参加者たちがそれに合わせるというのが、効率的であると思うが、メンバーが決まっていないので、それは無理な話だった。
都合を合わせながら、多くが参加できそうな日時を選んだ。

各自で砂山町を歩くこともあれば、全員で揃って歩くこともある。
砂山町内にある喫茶店でお茶をしながら、カケラ集めの成果を披露しあう。
砂山町に詳しい人に話を聞く機会を設ける。
砂山銀座サザンクロス商店街の朝市に絡もうとする。
そうして、月2回、律義に、街歩きと称した活動は続いた。

街歩きから台本作りに進み、芝居作りをするという行程を描いていたが、そのタイミングがなかなか計れなかった。
毎回メンバーが変わり、時には参加者が数えるほどだったりする。
このまま街歩きを重ねても、果たして、上演にたどり着けるのだろうか。

2018年となり、台本作りに着手できないまま、3月も終盤にかかろうとしていた。
そこで、4月末を台本作成の期限とした。
残り1カ月で、本番に向けて芝居作りをする。
目論見としては、台本を共同作業で書き上げようとしたが、それは実行できなかった。

ここからは、通常の芝居作りと変わらなかったように思う。
僕が台本をまとめ、足りないキャストを集め、日程調整をして稽古をした。
2018年6月3日、砂山銀座サザンクロス商店街において、大学生及び社会人や主婦たち12人のメンバーで、「サザンクロスで待ち合わせ」というタイトルの作品を上演し、砂山劇場2018は終わりを遂げた。

静岡県西部演劇連絡会会報8月5日号より

写真は浜松写真連絡協議会様より






 

「寿歌」を観に行った

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■「寿歌」を観に行った                  
               フィールド  寺田景一 


先週3月25日、愛知県芸術劇場で、SPACとの共同企画「寿歌」を観た。
僕が以前いた劇団「踊ら木偶」の元メンバーらと行った。
「寿歌」は、名古屋を中心に活動する北村想により、1979年12月に初演された作品。
踊ら木偶は、北村想の戯曲の上演を3作行っている。
「機械仕掛けの林檎」、「ダックソープ」、「想稿・銀河鉄道の夜」である。
また、北村想の作品は、学生やアマチュア劇団が、頻繁に上演されていた。
今の話ではない。
この作品での岸田國士戯曲賞の受賞は惜しくも逃したが、「寿歌」誕生以後のことである。

僕が東京で大学生活を送っていた時は、バブルの前夜だった。
全共闘時代の学生のように夢中になるオモチャを失い、しらけ世代を経て、
そして、テニスとスキーを謳歌するレジャーサークルが大所帯のサークルとして幅をきかせる時代。
今はないが、僕もポパイやホットドッグプレスを《中途半端に》愛読していた。
就職するのを、全共闘世代が負け犬として、葛藤するのなら、
就職を受け入れながら、その前に遊び倒してやろうと開き直る。

北村想の作品は、どこかその中に入り切れない人たちの気分を表していたように思う。
「寿歌」は核戦争後の世界を舞台にしている。
まわりは瓦礫の山である。
自動操作によりオペレータのいない残った核兵器がまるで花火のように時々飛び交っている。
放射能がまるで蛍のように光っている。
つまり、一度、今あるものが、すべてチャラになった世界。
これは、潜在的な破壊願望も内包している。

人が誰もいないと思われる場所にリヤカーを引っ張ったゲサクとキョウコという男女の旅芸人が現れる。
2人が芸を見せる相手は誰もいない。
そこに、一人の男が現れる。
ヤソと名乗るが、ヤスオと聞き間違えられる。
ヤソとは言うまでもなく、キリストのことを表す。

そこで語られるのは、どこまでも軽い、即興漫才のような会話である。
軽薄短小という言葉があるが、自ら選びとったというよりも、重厚長大の世界から逃げてきた、と言い換えてもいいだろう。
重く語るのを避ける。
軽く語ることにより、真実へ届く場合もある。
跳躍力が増すのである。

このスタイルも、何か表現したい人にとって受け入れやすかったのではないか。
経験の少ないアマチュアや学生にもむしろとっつきやすかったと思う。
それは実は、難しさもはらんでいる。
入りやすそうに見えて、思ったよりも難しかった。
でも戯曲は最後まで書かれているので、とりあえず上演にはこぎつける。
そんな上演もきっと多かったと思う。

今回演出の宮城聡さんは、北村想の作品のことをあまり知らないようなことを言っていた。
以前、唐十郎や野田秀樹の作品をやったことがあるが、この2人は好きで、影響されていることを公言している。
このことを僕はむしろ面白いと思った。
愛知県芸術劇場とSPACの共同企画ということで実現した題材なのかもしれない。
但し制作者との関係のなさが、新たなものを生むことになることは、珍しくはないだろう。

静岡県西部連絡会会報4月1日号より









 

砂山劇場2018の始まり

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■砂山劇場2018の始まり             フィールド  寺田景一

路上演劇祭Japan in 浜松が2017と2018の2年連続、砂山銀座サザンクロス商店街で行われる。
エントリーの条件は2年連続で参加するということであった。
僕は「砂山劇場」という名でエントリーすることを決めた。
砂山劇場2017はひとまず6月、上演を終えた。

「砂山劇場」とは何だろう?
浜松市中区砂山町を題材に演劇を作る。
とはいえ、僕は砂山町とそう関係があるわけではない。
かつて砂山町に好きだった人がいたとか、特別思い入れがあるというわけでもない。
そして、ひとりで上演するつもりはないので、
僕と同じように砂山町とそう関係のない人たちを、何とか仲間に引き入れようとしている。

通常、表現をするときは、先ずは自分に興味関心があることを行う。
演劇の場合も同様だ。
オリジナル戯曲なら、作者の興味が作品に反映する。
既成戯曲の場合も、個人または総意で、今演じるべき戯曲を選択する。
参加する人もその劇団や作品に自分の興味関心が合致するから参加する。

「砂山劇場」は、ただそこに砂山町という町の名前があるだけである。
町を構成するものは何だろう?
住んでいる人、商売をやっている人、勤務する人、通りがかる人、
かつて住んでいた人、住宅、店、工場、かつて住んでいた家、道路、川、看板・・・。
今現在だけでなく、歴史というのもあるだろう。
未来、将来というのもあるだろう。
当然、様々な要素で構成されている。

ひとつの表現作品も様々な要素で構成されている。
決して作者の頭の中だけで作られたのではない。
それを同様に様々な要素で構成されている人たちが観客として観る。
それらが響き合って感想が生まれる。
共感だったり、不満だったり、わからなさだったりする。

「砂山劇場」も全く同様で、
砂山町を題材に構成する様々な要素を(ここではカケラという)カケラを集め、
一本の演劇を作っていく。
これを一人の手ではなく、より多くの手で行われるといいと思う。
様々な感受性があった方がいいと思う。

カケラを集める方法は、
自分の目で見ることの他に知らないことを聞いたり、調べたりすることも必要だろう。
これは一人の作家が作品を書き上げる時も同様の過程をたどると思う。
執筆の最中は頭の中で書いたにしても、今まで見聞きしたことが反映されているのは間違いない。

砂山劇場2018のつくり方としては、先ずは砂山町を歩くことから始まる。
今は月2回集まって、街歩きをしている。
参加者は基本的には優先順位として「砂山劇場」が1位ではないので、
バラバラなスタートのように見える。
しかしこれも、決まったメンバーがいてのスタートではないので、当然のこととも言える。

今回の題材の「砂山町」は決して参加者にとって特別な街ではない。
でも、だからこそ誰にとっても関係がある場所に成り得る可能性があると思う。
その作業が演劇作りの過程であると考えている。
そして、街歩きから演劇作りに作業工程は進む。

        静岡県西部演劇連絡会会報12月10日号より

※写真は砂山劇場2017より





 

劇作のきっかけ

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■劇作のきっかけ
                            フィールド 寺田景一

劇作ワークショップが、今年もこの夏行われる。
さて、僕が戯曲というものを書き始めたのはいつのことだろう。
振り返ると、多分、小学校の時のお楽しみ会の出し物で、同じクラスの何人かとごく短い演劇のようなものを発表した時ではないだろうか。
お楽しみ会とは学芸会と言われるものと同義語。

当時、家族で名古屋に旅行か何かで行ったとき、名古屋駅の近くで初めて目にした乞食に衝撃を受け、乞食を登場人物とした戯曲を僕が書いた。
浜松でもホームレスの姿を目にするのは珍しくはない。
でもその頃は、テレビなどで「右や左の旦那様あわれな乞食にお恵みを」という常套句と共に、知っていたが、実際に目の当たりにしたことはなかった。

休み時間や放課後の友達同士の会話でも乞食のネタはよく出現した。
「この乞食~!」と乞食ではない同級生を馬鹿にしたり揶揄したり。
無理に分析すれば、小学生の子供という、大人が幅をきかす人間世界でも下層の立場ながら、できるだけ目下の、さげすむことが出来る安心な対象を見つけて、日頃の鬱屈の代替行為とする。
例えば小動物や弱いものをいじめたり虐げたりと同様。

今はむしろホームレスの方々は公共の場をうまく使い、居住地を確保し、悠々と生きているようにも見える。
昔は乞食と言うものは、空き缶を目の前に置いて、金(お恵み)をねだったものだ。
物乞いという行為だ。
今はそんな姿はあまり見ない。
援助するボランティア団体が充実してきたのか、飽食の時代でコンビニや飲食店の残飯が容易にありつけるのか。
それらもあるが、街頭で空き缶を置き、みすぼらしい格好をして座っていても、よけて通るのみで、金を入れる人などいなくなったのではないだろうか。

僕が書いた戯曲は、乞食が何人か登場する。
お楽しみ会の発表は教室の一番前を少しスペースを空けて、行われる。
何人かの乞食は互いに間隔を空けて、横並びに座っている。
そして、それぞれの目の前に空き缶が置いてある。
そこに1人の通行人が通る。
何か乞食に呼びかける。
乞食は「へん」と答える。
「へん」というのはその頃クラスで流行っていた言葉で、「返事をしない」という意味の返事であった。
つまり、無視している、相手にしていない、という意思表示の言葉だ。

通行人は乞食それぞれに呼びかけるが、皆、「へん」という返事をするのみ。
クラスのみんなは大爆笑であったのであろうか。
「へん」は確実にクラスの流行り言葉であったから、ウケた確率は高い?
ずいぶん昔のことだ。
上演の場面の記憶もない。
誰とやったのかも記憶にない。
記憶にあるのはコミュニケーション不全の物語の戯曲のおぼろげな概要のみ。

小6の林間学校で、クラス毎で何かを発表したが、白雪姫をパロディにした戯曲を書いた。
魔女が白雪姫に毒リンゴを食わせるのを、なぜか屋台で毒ラーメンを食わせた。

以後、多いとは言えないが、いくつかの戯曲を書き、今に至る。
関係ないが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」は、浮浪者2人がメインの登場人物。
ちなみに「乞食」という言葉は、今では、電波媒体では放送禁止用語。
また、本来は仏教用語で「托鉢」の意味。

(2017年8月6日号静岡県西部演劇連絡会 会報より)

写真は文章の内容とは関係のない7月の終盤、仕事で南伊豆方面へ行った時、
思わず車を停めて撮った海。
この先には、伊豆七島がある。
世間の学校では夏休みが始まった頃。





 

劇団からっかぜ 春の試演会~劇団員による書きおろし三作品一挙上演

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■劇団からっかぜ 春の試演会~劇団員による書きおろし三作品一挙上演
                                             フィールド 寺田景一


はままつ演劇・人形劇フェスティバルの劇作ワークショップでは、
毎回多くの短編戯曲が生まれる。
2010年に鹿目由紀さんを講師に迎えたワークショップを皮切りに
昨年2016年の平塚直隆さんの回まで7回に渡るので、
作品数としては、かなりの数になるだろう。
講師の方によるが、ワークショップを通して書き上げたそれぞれの作品が、
最終日に発表という形式で読み上げられる。
上演される、と言いたいところだが、配役を参加者たちに依頼し、
ほぼ初見で読み上げられた作品は、
やはり、「上演された」とは言い難い。

そして、書き上げられた作品から選抜された3~4本の戯曲は、
演技ワークショップの教材となる。
1日を通して芝居作りを学ぶという行程の中で、
その戯曲は、ワークショップの最後の発表で、披露される。
とはいえ、メインは演技ワークショップ参加者たちであるので、
参加者それぞれにセリフが与えられ一つの役が重複したり、
当然、衣装、小道具など上演に必要な処置が施されているわけではない。

最後に、フェスティバルのファイナルイベントにて、
有志の演出家・演技ワークショップの参加者により、
教材となった戯曲は上演される。
上演される、とは言ってみたが、
限られた稽古時間、制作のための予算がない中での上演となる。
劇作ワークショップで生まれた戯曲の役割は、
とりあえずはここで終わる。
そのあとの処遇は、個々に委ねられる。

自らの劇団の公演で、
短編作品集の一本として上演したという話を聞いたこともある。
ただし、ほとんどは、
それぞれのPCの中、もしく原稿用紙、プリントアウトの中に残されたまま、
中には削除、廃棄処分の場合もあるかもしれない。
戯曲の行く末を特別惜しむこともないが、
それぞれの戯曲は、書いた本人に帰結する。

そして、今回、先月3月5日の日曜日、
劇団からっかぜアトリエで
「春の試演会~劇団員による書きおろし三作品一挙上演」が14時開演で開かれた。
劇団からっかぜの劇団員である、
平井新さん、渡邉純子さん、高橋佑治さんが、
それぞれ劇作ワークショップに参加した折に書かれた戯曲を上演しようという試みである。
それぞれの作品は作者もしくは劇団員たちにより演出され、
劇団員たちがキャストにつく。
劇団の稽古場でもあり、上演場所でもあるアトリエで、
日々稽古が積み重ねられ、
役にふさわしい衣装をつけ、
小道具やセットが用意され、
音響効果や照明効果も施され、
集められた観客の前で上演される。

一旦本人に帰結した戯曲が、
再び、戯曲としての役割を果たした瞬間とも言える。
戯曲は文学作品として、書店や図書館にも並ぶが、
戯曲というものは、読むものではなく、上演されてこその戯曲だなあ、
とあらためて思った。(諸説あり)
ちなみに今回上演された作品は、
平井新作「あい棒」、
渡邉純子作「バッターボックス」、
高橋佑治作「あのとき、実は・・・」である。

                            了

(静岡県西部演劇連絡会会報 2017年4月2日号より)





 

「劇突」のワークショップ

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■「劇突」のワークショップ              フィールド 寺田景一

はままつ演劇・人形劇フェスティバルの演劇部門のワークショップが今の形になったのが2010年のことなので、今年で7回目になる。
今の形とは、劇作セミナーで書きあげられた作品を題材に、演技ワークショップで地元の演出家たちとともに作品を作り、ファイナルイベントで発表する、という一連の仕組みのことを言う。
2009年のワークショップは演劇と人形劇の合同ワークショップが行われ、2010年も当初は引き続き合同ワークショップをやる計画だった。これが頓挫したところから、独自のこの形が磨かれていったとも言える。

先ずは、劇作のワークショップを行いたいということから始まった。
僕はまだ記憶している。
中区領家のカレー処ヤサカの敷地内にあった絡繰機械’Sのミーティングルームで、平日の夜、ワークショップの部会が開かれ、劇作ワークショップでの作品をファイナルイベントで発表しようというアイディアが出た。
それなら、そのための作品作りをするワークショップを演技ワークショップとして行うのはどうか。
指導するのは、複数の浜松で活動する演出家。
しかも1日で行う。
ここまで、面白いほど、とんとん拍子に進んだ。
ほぼ今の形は出来上がったと思う。
その後、高校演劇とつながりを深めたいということで、開誠館高校の体育館で、演技ワークショップを行うことになった。

自主公演も終わった冬のとある日、広い体育館のフロアには8人の演出家と、多くの参加者が揃うことになる。
僕はと言えば、進行役を担っていたが、最初と最後くらいしか出番はなく、途中は、各演出家の元、それぞれの手法で行われる演技指導を兼ねた芝居作りの様子を見学していた。
全体を見渡したその壮観な光景は忘れることができない。

ワークショップ部会担当である松本俊一氏が、提案書に『演技ワークショップの目的』としてこう記されている。

1、複数の芝居を、複数の演出によって、芝居作りをすることにより、脚本、演出、役者の関係を掘り下げ、芝居作りの研究、発展を図る。
2、募集した、参加者と既存の演出家、役者とのコミュニケーションを取ることにより、浜松の社会人演劇の存在をアピールする。
3、将来的に、大きなプロジェクト、例えば、複数の劇団の合同公演や、一般市民を募集してのプロデュース公演を成功させるための試金石としたい。
4、一般市民を募集することにより、地域劇団あるいは演出家の演劇的知識、方法論、技術等を還元する。また、私たちも新鮮な才能に接することにより、新たな発展の糧としたい。
5、未知のワークショップ形態にお互いの知恵を出し合い、挑戦することにより、参加者、演出、劇団の新しい可能性を発見する。

どうだろう。
3の複数の劇団の合同公演や一般市民を募集してのプロデュース公演以外は、成果を上げているのではないか。

劇作セミナーでは、書き上げた参加者分の新作短編戯曲が生まれている。
書くという動機はもちろん人それぞれなので、ここで1本書き上げたからと言って、次につながるかはわからない。
短編戯曲を書いたことをきっかけに、長編戯曲を書き上げ、しかも上演しました、という話は頻繁には聞かない。
実際に上演に至るには別の回路が必要となる。
もしかしたら、意思を同じくする仲間が集うことかもしれない。
もしかしたら、根回しに長けた制作者の存在かもしれない。
もしかしたら、上演を渇望する人たちの需要かもしれない。

2015年の劇作セミナーの講師であった、はせひろいちさんは、戯曲のことを「未完成の文学」と称していた。
また、三谷幸喜さんは自らの戯曲を上演のためのあくまで台本と称し、特例を除き(『オケピ』で岸田國士戯曲賞を受賞し、主催の白水社より出版)、出版を認めない。
上演されてこその戯曲、という意味であると理解する。
そして、上演するとなれば、役者は?演出は?会場は?集客は?宣伝は?照明は?音響は?美術は?衣装は?小道具は?稽古場は?日程は?となるのである。

では、なぜ合同公演や一般市民を募集してのプロデュース公演の話が出てこないのだろうか。
各劇団は自分たちの劇団がやりたいことを実現するために活動している。
その枠を超えるとなると、また別の回路が必要になる。

一番の理由は、目的を共有することが難しいからではないだろうか。
自治体が音頭を取るにしても、プロデューサー的な立場の企画者が旗を振るにしても、何のために行うのかという共通認識が必要になる。
そこから、戯曲や演出者が決まってくる。参加する役者やスタッフが決まってくる。
チケット販売も協力して行うことになる。
むしろ商業的な成功が目的である公演の場合は、割り切りがしやすいかもしれない。
言い方を変えれば、合同公演を実現させる必然性も、それを求める声もそんなにないということかもしれない。
どうだろうか。
                    


静岡県西部演劇連絡会会報 2016年12月18日号より

写真は2010年の時の演技ワークショップの様子。




 

ランチ海岸のこと

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■ランチ海岸                フィールド 寺田景一   

僕が写った2003年に撮影された写真がネット上に流出した。
と言っても、フェイスブックで、一緒に芝居を作った仲間(以後彼という)が、昔の写真をアップしたという話。
2003年にフィールドで「ランチ海岸」という芝居を作ったのだが、チラシを作成するにあたり、ちょうど台風が去った後の海岸に写真を撮りに行った。
その為の撮影とは別に、彼は個人用にピンナップをデジカメに収めていた。
彼は上演に至るまでの過程を撮り続け、僕は終了後に彼から写真データを収めたCDを受け取った。
「ランチ海岸」は実際に上演された脚本と、当初書かれた脚本とは異なる。
最初は上演のあてもなく、書いた。
フィールド旗揚げの以前である。
僕は劇団に所属していなかった。
この最初に書かれた「ランチ海岸」は人に読ませると「何を言いたいかわからない」などと言われ(今でも言われるが)、フィールド2作目として上演する際は、書き直した。
だから、最初に書かれた脚本は個人的に言えば、上演されていない。
こう始まる。

   明るくなる。 
   昼の日差し。
   レストラン“ブラジル”の扉の前、キナ子が立っている。
   犬男と猫彦が先を争いながら入ってくる。

犬男「あれ?」
猫彦「あれ?(2人、キナ子の周りを横歩き)」
キナ子「どうぞ(一歩さがる)」
犬男「いや、いや、どうぞ、どうぞ(詰める)」
キナ子「あの」
猫彦「いい天気ですか?」
キナ子「は、(空を見て)はい」
猫彦「こんな日はどうしましょう」

   犬男、ポケットからタバコを取り出し、火をつけ、座る。 
   そして喫う。

猫彦「海が近いですからね」
キナ子「・・・」
猫彦「何やったって問題ないでしょう。海ってのはそんな何でも許してくれる懐の深さを持っている」
犬男「ねえ、座らない?」
猫彦「そうだね(座る)」

   ひとり立っているキナ子。

猫彦「あなたも座れば?」
キナ子「でも、もう」
犬男「気にしないでだいじょうぶ。(猫彦に)な」
猫彦「な」
犬男「店開くのずっとあとだから」
キナ子「ずっとあと?」
猫彦「そうだよ。ずっと、ずーっとあと」

   犬男、立ち上がり引っ込む。
   見ているキナ子と猫彦。

キナ子「ずっとあとって?」
猫彦「ね、座りましょうよ」
キナ子「えーと・・・お先どうぞ(その場を行こうとする)」
猫彦「いやいや、どうぞどうぞ(座ったまま場所ゆずる)」
キナ子「いえ、私、帰りますので(歩いていこうとする)」
猫彦「ちょっと待って」

   猫彦、行き先はばむ。
   もつれて倒れる2人。
   キナコ立ち上がり、行こうとする。

猫彦「(立ち上がり、キナ子の肩に手をやり)さ、お先どうぞ」

   犬男が流木を持ってくる。

犬男「座ろうよ(扉の前におく)」

流木に猫彦と肩を抱かれたキナ子、座る。

犬男「あれ?(座る場所がなくひとり立つ犬男)」
猫彦「ね、君んちの家族構成は?」

   キナ子、肩の手を振り解き、立ち上がる。

キナ子「やめてください(手が犬男にあたる)」
犬男「アタ」
キナ子「すみません。だいじょうぶですか?」
猫彦「ね、お父さんは元気?」
犬男「さ、座ろうか(肩に手をやり座ろうとする)」

   いきなり扉が開く。

マスターの声「いらっしゃいませ」

   マスター、顔を出す。

猫彦「マスター、今日は早いんだね」
犬男「さ、入ろうか(手を出した先に、キナ子の手を越え、猫彦の手)」
猫彦「うん」
犬男「あれ?」
猫彦「あ~あ」

   2人、店に入っていく。
   キナ子も空をちらりと見て入っていく。

マスターの声「いらっしゃいませ」

   扉が閉められる。

以後場面は店内に移り続くが、この冒頭動きの指定が多く、実際やってみると難しい。
彼のフェイスブックへの投稿は少し影響をもたらした。
僕は懐かしい思いをしたし、他の一緒に芝居を作った仲間がコメントや「いいね!」で反応した。
僕もコメントで反応した。

                静岡県西部演劇連絡会会報4月3日号より




 

第39回静岡県高等学校演劇研究大会へ行った

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■平成27年度静岡県高等学校総合文化祭演劇部門第39回静岡県高等学校演劇研究大会へ行った                          
                                            フィールド 寺田景一  


タイトルは長いが、パンフレットには、そう明記されていた。
ちなみに、高校野球では、夏は、第97回全国高等学校野球選手権大会。
通称「甲子園」。春は、第87回選抜高等学校野球大会。
通称「甲子園」。
浜松では、第61回浜松芸術祭はままつ演劇・人形劇フェスティバル2015。
通称「劇突」(いずれも回数は直近のもの)。
平成27年度静岡県高等学校総合文化祭演劇部門第39回静岡県高等学校演劇研究大会は、通称「県大会」なのだろうか?
「県大会」(以降そう呼ぶ)は初めて観る。
ここにコマを進める前の大会である「西部地区大会」は何度か観たことがある。
一番初めは、東京の学校を卒業して、浜松に戻ってきた年に今ZAZACITY西館、旧西武百貨店8FにあったCITY8(シティエイト)という小さな
ホールである。
その際は、ふと、観ようと思った。
そこで、僕は野田秀樹の戯曲を使用した演劇を初めて観た。
タイトルは野獣降臨(のけものきたりて)。アポロ11号だのアポロ獣一だのヒューストンだのあばら骨がどうのと、種々言葉が無軌道に照射され、当然のように僕には意味は不明で、へえ~と思いながら、ただただ舞台を眺めていた記憶がある。
その日、次いて観た高校は、同様既成台本であったが、いわゆる当時流行っていたような台本ではない。
おそらく、顧問の先生が選んだんだろうな~という印象。
演技は、感情表現をやろうとしているなと思いながらも、方法が少々画一的な感じで、あ~、先生やらせてるな~という感じ。
こなれる手前だったかもしれない。
どちらも高校名は覚えていない。
女子ばかりだったので女子高か?
他も観たかもしれないが、この2本が好対照だったためずいぶん前のことだが、記憶に残っている。
それから、ふと観ようと思うことはなく、(というより、CITY8は商業施設なので、情報をふと見る機会もあり、公共施設での開催の場合、よっぽど意識していないと、高校の部活動の一環の演劇公演が開かれることなど、気が付かないだろう)何年も過ぎる。
以前所属した劇団で一緒だった榊原さん(のちにフリーランサーという小劇場を呼ぶグループをお立ち上げる)という方が、頻繁に高校演劇を観ているというのを聞き、あいホール(中区幸)に一度観に行ったことがある。
失礼ながら、高校名も内容も覚えていない。
ちなみにフリーランサーは全国大会最優秀賞の高校を浜松に招聘して公演を行ったことがある。
その後は、ここ最近である。「劇突」で、高校演劇と関わりを持つようになってからだろう。
それでも、観るのは、「西部地区大会」。
今回は、以前、「劇突」にも企画で関わっていた加藤さんが、現在伊東高校の演劇部顧問を務めていて、一本の電話をいただいたことに端を発する。
「浜北文化センター大ホールで行われる県大会に出ます」。
11月21日の教えてもらった伊東高校の開演時間は、静岡文芸大での演劇公演「MASK」を予定に入れていたので、残念ながら行くことは出来なかった。
「県大会」は翌22日も行われ、静岡高校、富士高校、開誠館高校の三本を観て、二日間を通じての講評、審査を聞いた。
審査では、伊東高校が、最優秀賞に選出され、全国大会の手前の関東地区大会に進む。
講評、審査を聞いたのは、静岡県西部演劇連絡会が受け持っている「劇突」の高校演劇選抜公演の講評、審査の参考になれば、と思ったこともある。


静岡県西部演劇連絡会会報12月6日号より






 

バーテンダーマン

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■バーテンダーマン                  フィールド  寺田景一

別段、日々、戯曲を書いているというわけではないが、僕が上演を前提の戯曲を書くようになったのにはきっかけがある。
仲間たちと演劇をやろうということで集まったが、何をやるかは決まっていない。
当初は既成の戯曲を読んだりした。
チャンスがあれば提案したかったのだろう。
「路上をめぐるオム二バス演劇~仮題(なだらかに世は明けて)」と題した、路上を舞台にした4本の短編を書き、仲間に読んでもらった。
この4本は通すと1本の芝居としてつながっている。

そして、当時領家町にあったスペースCOAでの「ユニットライブ」での上演に結びつく。
ただし、舞台転換含め1時間を上演時間とする決まりだったため、1本にまとめあげ、「なだらかに世は明けて」と言うタイトルで上演した。
「路上」「オムニバス」のキーワードが、関わっている「路上演劇祭」や、参加する「はままつ演劇オムニバス」とダブるのは偶然であろう。
ここで、提案した4本の内の1本目、「バーテンダーマン」を紹介させてもらう。
本当は、11月8日のオムニバス公演のことを優先して考えるべきであろうが。

バーテンダーマン

   路上に、バーカウンターを腰に装着した男、バーテンダーマン(以下バーテン)が立っている。
   バーカウンターに突っ伏している客、西野。

バーテン「もしもし・・・もしもし・・・もう3月ですよ」
西野「(ムクリと起き上がり)3月?」
バーテン「間違えました。もう3時ですよ」
西野「3月と3時と間違えるか?」
バーテン「あんまり眠っているお姿が熊に似ているので、冬眠中の熊を起こす気分になってしまいましたよ」
西野「何だよそれ。熊起こしたことあるのか?まだ3時か。もう1杯ちょうだい」
バーテン「すみません。看板なんです」
西野「看板?誰が決めたんだ。もう1杯出せって言うの」
バーテン「残念ながら、お酒切らしてしまって」
西野「何だ、そんなんでバーがつとまるのかよ。バーボンとかさ、スコッチとかさ、琥珀色でさそのままクッと飲むとカーッとこのあたり(顔のあたり示す)熱くなる液体ないの?出せよ」
バーテン「この通り、何もないですよ」

    西野、手元のグラスを逆さにするがカラッポ。

西野「(時計を見て)3時か。終電もとっくに出ちゃってるな」

   バーテン片づけ、テーブルを拭く。

西野「何もなくなっちゃったな。ホラ、この時間になると人もほとんどいない。繁華街も名ばかり。これでさ、あんたが店閉めちゃうと、オレここにひとりっきりだよ」
バーテン「仕方ないでしょう。どの店も開店時間があり、閉店時間がある。近頃は24時間営業の店が増えちゃって関係ないところも多いんだけど」
西野「ああ、24時間営業っておかしいよ。1日は24時間だろ。てことは全く休みなしってことだろ」
バーテン「同じ人が24時間働いているわけじゃないでしょう。アルバイトとか雇ったりして、交代で休んでいるんでしょう」
西野「当たり前のこと言ってないで、さっさと酒だせよ」
バーテン「お客さんもそろそろお帰りになったほうがいいんじゃないんですか?」
西野「いいんだよ。俺の帰り心配してくれなくても。今俺は飲みたいんだから・・・ね」
バーテン「・・・はい」
西野「もしさ、あんたの奥さん、いや彼女でもいい。カレーライスをあんたのために作ってくれる。食卓のあんたの前に皿に盛られたお手製のカレーライスが置かれる。でもいつもその上にはソースがかけられている。・・・それって許せる?」
バーテン「わたしはカレーにソースかけますから大丈夫ですけど」
西野「俺もかけるときもあるんだ。でもかけたくない時もある。ソースは皿の横に別に置いといてくれればいいと思わないか?・・・」
バーテン「・・・まあ、そうですね」
西野「いつもかけるあんたは、かければいいさ」
バーテン「ええ、かけますね」
西野「でも自由にさせてもらいたい時もあるだろう」
バーテン「わたしはいいんですが、別の方がよろしいのなら、そのように言えばいいんじゃないですか」
西野「そうだな。言えばいいんだ。でもカレーだけじゃないんだ。ゆで卵にはマヨネーズがつけられている。イチゴには練乳がたっぷり。ウインナーいためればいつもタコさん。チキンライスには旗が立っている。どうしてミソラーメンと言えばサッポロ一番ばかりなんだ・・・」
バーテン「閉めますよ。他の店のネオンも消えてきました。またいらっしゃってください」
西野「また?あしたもここにいるのかい?」
バーテン「・・・さあ」
西野「また来るよ」
バーテン「ここにいるかどうかわかりませんよ」
西野「でもまた来るよ」

   西野、去っていく。                

   おわり


2015年8月2日号 静岡県西部演劇連絡会会報原稿より



 

浜松で演劇を始める

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■浜松で演劇を始める                  フィールド 寺田景一


東京での学生生活を終え、地元である浜松に就職のため戻ってきた。
一年位は仕事やその周辺の付き合いなどで過ごしていたが、演劇をやりたいと言う気持ちはあったようで、何となく、それに類する情報を探していた。

近ごろなら、迷わず「演劇 浜松」とかで検索するところだが、当時はコンピューターもインターネットも一般向けではなく、情報の入手は自然アナログとなる。
サークルのメンバー募集記事が、タウン誌などに掲載されていて、先ずはそれらを手に取った。

演劇関係の募集でよく見る名前に、「劇団テクノポリス」があった。
また、劇団の主宰者が、タウン誌にコラムを書かれたりしていた。僕は、その募集記事を何度か目にしながらも、連絡をとることもなく、やりすごしていた。

「劇団テクノポリス」がどんな演劇をやっているのか、あまり知らずに、僕は劇団の門を叩くことになる。
普通に電話をかけて、問い合わせればいいものを、僕はよりアナログな手紙を書いてコンタクトを取る。
これは考えてみれば、少しずるい。

思いを一方的に伝えて、相手からの返事を待つ。
今なら、電子メールという方法がある。投げておいて、戻って来るのを待つ、というのは同じだが、手紙は時間と手間が余分にかかる。
切手代もかかる。

主宰者は丁寧に、稽古スケジュールが同封された手紙を返してくれた。
僕は、浜松に戻ってきて、演劇を始めることになる。
「劇団テクノポリス」は元々織物工場であった建物を自前で借りて、稽古場にしていた。

上演は劇団員全員でひとつの芝居に取り組むというのではなく、いくつかのグループに分かれて、行っていた。
例えば、「演劇班」があり「ミュージカル班」もあるとか。僕が指定されたグループは、上演を控えていなかった。
野田秀樹の「走れメルス」の冒頭をテキストに、読み合わせの稽古をやった。

何日か稽古に顔を出したが、そこに物足りなさを感じたのは、僕に理由がある。
まだ何も始まっていないのに、自分で勝手に判断してしまったのだ。
いつの間にか、稽古場に行かなくなり、再びあてもなく、情報誌のサークルメンバー募集欄をめくることになる。

ある日、図書館で、浜松市他のサークル一覧が掲載された冊子を見つけ、演劇関係のサークルを探した。
そこに「劇団踊ら木偶」という当時の浜北市に本拠を持つ劇団があった。
聞き慣れぬ言葉の劇団名を持つ劇団に、やはり少しずるい手紙を送るという方法で連絡をした僕は入団し、何年か在籍する。

すぐに辞めなかったのは、理由を考える余裕を与えられなかったからと言える。
稽古場に顔を出した時、本番を想定した稽古の真っ最中で、入ってまもなく行われた合宿で、役を与えられる。
逃げたくても逃げれない状況に置かれたとも言える。
時期はちょうど今頃。
合宿が行われたのはゴールデンウイークの休み中であった。

(4月5日号 静岡県西部演劇連絡会会報より)






 

演劇をする理由

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■演劇をする理由                   フィールド   寺田景一

12月6日、劇団からっかぜ公演「ドリームエクスプレスAT」があった。
閉幕後のあいさつで、創立60周年であることに触れていた。
戦後69年、劇団からっかぜ60年。この比較に特に意味はないが、過程に思いをはせる事は決して意味がないことではない。
今回の作品はさまざまな世代、立場の人たちが、深夜高速バスに運命共同体のように乗り込み、体験する一夜の話であった。
60年の過程の中では、直近からの関わりであろう若い役者たちが奮闘していた。
3名の黒子の人力によるターンを繰り返すバスで、現出されるシーンは、社会の縮図というか、浜松の演劇シーンとも重なる気がした。
(無理やりですが・・・)

はままつ演劇・人形劇フェスティバル2014の自主公演参加の劇団についてのみ触れる。
浪漫座は55歳以上であることが条件の劇団である。
劇団からっかぜが創立した頃に生まれ、初めて演劇の門を叩いた人もいるだろう。
MUNA-POCKET COFFEEHOUSE は、創立時若者ばかりだった集団が、時を経て、今も形を変えながら活動を続けている。
雪解カンガルーは女性ばかり3名の劇団である。
座☆がくらくは主に静岡文化芸術大学の学生たちが舞台に立っている。

はままつ演劇オムニバスは1時間と言う持ち時間で、さまざまな事情の公演が実現したと思う。
23日に行われる高校演劇選抜公演に思いをはせると、高校時代、演劇という選択肢がなかった僕からみて、彼ら彼女らが演劇部の門を叩くこと自体、趣深く感じる。
春に行われる路上演劇祭JAPAN in 浜松もさまざまな人たちがエントリーする。

演劇する理由はそれぞれだ。
なぜ演劇をしているのか、じっくり聞いたことがないので詳しくは知らない。
でも活動を見ていると、何となく透けて見えてくる。

執筆している本日7日の朝、「ボクらの時代」というテレビ番組で小日向文世、浅野和之、川平慈英がクロストークしていたが、(この番組はたまに演劇畑の人が登場して演劇に関する話をする)
小日向、浅野が70歳、川平が62歳になった時に、一緒に芝居をしよう、という話で最後をまとめていた。
また、浅野が、若者たちと芝居をやった時、予定調和でない方法でくるので、面白かったと言っていた。
小日向が、今後も役者を続けて行きたいけど、セリフを覚えれなくなっても出来る役があるといいと言っていた。

演劇を始める人もいれば、やめる人もいる。
共同作業であり、本番当日に集まらなければ始まらない舞台芸術のため、合わせる時間など、物理的な理由が大きく影響したりする。
でも演劇をする理由があるのなら、何らかの形で続けれるといいと思う。

(12月7日号 静岡県西部演劇連絡会会報より)

 




 

85%

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■85%                       フィールド  寺田景一

ある日、新聞を読んでいたら、次の記事が目に飛び込んできた。
新聞の見出しは、『日本の砂浜「85%消失」』。
記事を追う。
「地球温暖化が日本の自然や暮らしに与える影響についての予測結果を発表した。
今世紀末には日本の平均気温は最大6.4度上昇。
日本の砂浜は最大85%消失し、洪水や高潮による被害額は年間7000億円以上になると指摘した」

環境省が研究機関に依頼して、調査してまとめた予測結果の記事だった。
路上演劇祭のエントリー締め切りの時期と重なっていた。
新聞のどの記事も、まわりまわれば自分と関係がないことはないのだろうが、自らの興味や、直接的に影響することから、目に留める。瞬間的に、この記事を元に、路上演劇祭にエントリーしようと思いついた。
といっても、日本の、いや世界の将来のことを思えば、深刻ならざる得ない内容と別に、気になったのが、85%という数字と単位だった。「85%消失」って、どういうことだろう?
85%と言えば、多い数字だが、15%は残るということは、どういうことか?

≪彼女≫は浜松まつりが大好きだけど、就職したのが土日祝仕事のサービス業。
この仕事を続ける限りは浜松まつりに参加できそうもない。
そんな≪彼女≫が直面する「今世紀末には砂浜が85%消失」のニュース。
≪彼女≫の頭に浮かんできたのは、「浜松まつりどうなるんだろう?」

凧揚げ合戦は中田島砂丘でやっているのではなく、隣接する遠州海浜公園内の芝生の上。
中田島砂丘の砂浜が85%消失することが、実際、浜松まつりにどう影響するかは、定かではないが、先ずは砂浜消失と≪彼女≫が結びついた。今世紀末に日本の砂浜の85%が消失・・・。

今世紀末まであと何年だろう。
今年が2014年だから22世紀になる手前、2099年まで、2099引く2014は85。
今世紀末まで85年か。
85年で85%の砂浜が消失する。
1年で1%か・・・。
1年に1%ずつ消失を食い止めれば、砂浜は現状を維持できる!
85年後の今世紀末までに一体≪彼女≫は浜松まつりを守ることが出来るのか!!

 というように実際の上演に結びついたかどうかは別にして、「砂浜の消失85%」というごく短い戯曲が出来上がった。
そして、「85%」という数字と単位だけを頼りに、「85%」という作品名を路上演劇祭のエントリーシートに記入し、提出した。
「砂浜の消失85%」のほかにも5編のごく短い85%にまつわる戯曲を書きあげ、5月25日の路上演劇祭当日、観客にいきなり読んでもらうという乱暴な方法で、無事上演した。

(静岡県西部演劇連絡会会報 8月4日号より)








 

ニューウェルサンピア沼津に泊って思ったこと       

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■ニューウェルサンピア沼津に泊って思ったこと       
                                             フィールド  寺田景一


つい最近、仕事で東部地域に2日通して行く機会があり、沼津にあるニューウェルサンピア沼津という施設に宿泊した。
滞在先が不確定だったので、当日、出先からネットの宿泊サイトで予約した。
探すキーワードは価格が安いということ。街中からは多少離れているが、車なので、広い無料駐車場はありがたい。
風呂は温泉。そんな理由で決めた。

ここはかつて、社会保険庁が厚生年金加入者の健康増進を目的として、全国各地にグリーンピアとかサンピアとかウェルサンピアとかの名称でつくられた各施設のひとつ。
それら施設のほとんどが大きな赤字だったため、すべての施設を売却、廃止されることとなり、民間や、自治体に権利は移り、さまざまな形に変わっている(例えば大江戸温泉物語とか)。
僕が泊ったニューウェルサンピア沼津もウェルサンピア沼津からニューがつき、民間会社により経営されている。

ただし、建設時、巨額の金が投入されただけあり、広々とした敷地に、宿泊施設、会議室、温泉、レストラン、テニスコート、プールなど充実した設備はそのまま利用されている。
愛鷹山のふもと小高い場所にあり、チェックアウト後、ながめたら、駿河湾とともに伊豆半島が一望できた。金をかけるってすごいなあ、と思った。

部屋に布団を敷きに来た従業員の方に、「ご年配の方が多いですね」と施設内で感じたまま伝えたら、「いろんな方がいらっしゃいます。今までは学生さん、これからは会社関係が多いですよ」という返答。
今までは大学のゼミやサークルの合宿、これからは新入社員の研修に使われるのだなと、すぐに理解した。

合宿といえば、僕がかつて在籍した劇団では、よく合宿を行った。
僕が入団したのはゴールデンウイークの少し前だったが、直後のゴールデンウイーク中の3日間、春野で合宿が行われるということだった。
いきなり合宿というのもなあ、と思ったが、演劇をやるつもりで入ったのだし、参加しない理由もなく、当然のように参加した。

合宿はいくつかの場所で行われたが、よく使用したのは、奥山半僧坊(方広寺)にある研修施設である。
ずいぶん過去の話であるが、大広間など畳敷きの部屋がたくさんあった記憶がある。
印象的なのは大広間。調べたら今も115畳の部屋があるようだ。

合宿の目的は、もちろん、演劇の稽古である。
座禅はしない。

僕は、この合宿がけっこう好きだった。僕は主に役者だったが、普段の稽古では、演出家のダメ出しに対し、修正して演技をするのだが、なかなかいい方向にもっていけないことが多かった。
やればやるほどダメになるってやつである。
平日の仕事終わりや、休みの日でも時間は限られているので、やってもやってもどうにもこうにもうまくいかないまま、時間切れということになる。

ところが合宿だと、時間があるので、いったんそのシーンはお預けにして、他の人のシーンに移り、時間を置いて、再度チャレンジということができる。
そして、最後に全体のおさらいで通したりする。
そうこうして、時間を使っている内に、何かがこなれてくる感じがする。
役が自分の中で一本、線が通ったというか。

それまで自分を勝手に縛っていた自意識が一挙に解き放たれた感じ。
今まで受けたダメ出しが、今、血となり肉となり、この場で再現された感じ。
役が自分のものになり、共演者や、脚本とも調和し、まさにその役が今を生きている感じ・・・となっていたかどうかはわからない。
長い時間同じような稽古をやった疲れもあるかもしれない。
判断基準も鈍っているのかもしれない。
寝食を共にし、同じ時間を過ごした慣れ合いもあるかもしれない。自分たちだけそう思っているのかもしれない。

でも、そう錯覚でもしてしまうような瞬間が、合宿では必ず訪れる。
よし、これでいつでも本番OKだ、と心強い気持ちで、合宿先を後にする。

といいながら、合宿後のいつもの稽古では、また同じようなダメ出しをくらい、変わってないなあ、と思ったりするのだが。
 
そういえば浜松にもサンピアがあり、何度か風呂に入りにいったなあ、と思い出し、少し調べたら、すでに閉鎖されていた。

 (4月6日号西部演劇連絡会会報より)

写真は朝、ニューウェルサンピア内で撮った。