判子

カテゴリー │ブログで演劇

路上演劇祭Japan in 浜松2020→2021の
WEB配信内で読み合わせをした台本。
なぜ判子?
それは有楽街にハンコ屋さんがあるからだ!



判子
                     
                    寺田景一



登場人物

半沢判子(二十五歳) 博之の娘。健太と結婚予定。
半沢博之(五十五歳) 判子の父。ハンコ屋『半沢判子』の店主。
鎧塚健太(二十八歳) 判子と結婚予定。
子供たちの声

  


判子 わたしの名前は半沢判子。半沢直樹は言われなくなったけど、判子という名前では、いろいろ言われてきた。子供のころから。
子供たち (囃す声)ハンコ屋判子~。ハンコ屋判子~。
判子 父はハンコ屋を経営している。店の名前は『半沢判子』。私が生まれた時はハンコ屋じゃなかったって言うんだけど、普通自分の娘につける? 判子って。
博之 だってハンコが好きだったんだもん。
判子 そのあと修業していた店を独立して、始めたハンコ屋の屋号に娘の名前つける? 『半沢判子』って。
博之 だってさあ・・・。

   商店街の一角にあるハンコ屋さん『半沢判子』。
   店主である博之が注文のハンコを手彫りで彫っている。
   誰かが店にやってくる。

博之 いらっしゃ・・・判子。珍しいな。店に来るのは。

   博之は、ハンコを彫り続けている。

博之 いや、勝手に家を出て行って、家に寄り付きもしない。母さんが寂しがってるぞ。
判子 お母さんとは会ってる。
博之 どこで!?
判子 うちで。
博之 何だ!? 俺がいない時に来てるのか!?
判子 必要なもの取りに来てるだけだよ。この前は、春着るブラウスとか。
博之 全部持っていったらどうだ。いらんなら、全部捨てるぞ。
判子 そんな。
博之 母さんもひどいな。水臭い。
判子 お母さんは(言いかけるが仕事の様子を見て)よかった。忙しそう。
博之 よかった? いつも暇みたいじゃないか。
判子 そういうわけじゃ。
博之 お前も思ってるんじゃないか? 脱ハンコの時代にお父さんの仕事大丈夫? って。
判子 そんなこと、全然思ってないよ。
博之 いや、思ってる。政治家やマスコミの奴らの口車に乗っかって。
判子 (つぶやき)政治家やマスコミの人にもいろいろいるよ。(転じて)あ、ごめん。仕事中に。

   父、博之のハンコを彫る手はいつのまにか止まっていた。

博之 いいんだ。急ぎはしない。いつまででも待ってくれる古いお得意さんの仕事だ。
判子 今の時代、お得意さんだからこそ。(手が止まっている父を見て)仕事続けて。
博之 ほお。俺の仕事に意見するのか。
判子 そんなつもりじゃ。
博之 さあ、俺は仕事中だ。邪魔するんなら、出て行ってくれ。
判子 仕事続けて。私は見てる。
博之 馬鹿なことを言うな。何の意味があるんだ。
判子 ・・・さあ。わかんない。お父さんの仕事している姿見るの、久しぶり。
博之 ・・・店は狭いんだ。お客さんが来たら何だと思う。

   判子は入口の方を見る。

判子 誰も来ないじゃない。
博之 うるさい。帰れ。
判子 帰らない。お父さんの仕事を見たいから。
博之 何か用があって来たんじゃないのか。
判子 ああ。うん。ハンコ作ろうと思って。
博之 ハンコ?
判子 だって、ここ、ハンコ屋さんでしょ? (強めに)は・ん・ざ・わ・は・ん・こ。
博之 ・・・おまえのか?
判子 作るわけないじゃん。お父さん、高校卒業して、就職するとき、作ってくれたじゃない。
博之 ふん。なくしたんじゃないかと。
判子 なくすわけないじゃん。すごい立派なの。立派すぎて、銀行行くとき、かなり恥ずかしかった。
博之 何が恥ずかしいんだ。高校卒業すりゃあ、立派な大人だ。大人にふさわしいハンコを作ってやった。それに、ハンコ屋の娘じゃないか。
判子 ・・・自分に自信がなかっただけ。どんな風に生きていくのか。
博之 いい加減な気持ちで就職先決めたからだ。入ってすぐやめやがって。
判子 三年続いたよ。
博之 たった三年だ。
判子 いいじゃない。今は、好きだと思える仕事見つけたんだから。
博之 じゃあ、誰のハンコを作るっていうんだ。
判子 今、外にいる。

   博之は店の外を見るが、誰もいない。

判子 お父さんと一緒で、シャイなの。恥ずかしがりやさん。
博之 一緒にするな。俺は今まで生きてきて、恥ずかしいと思ったことは一度たりとない。
判子 あ~あ。立派な人生だね。
博之 ふん。どこのどいつと会わせようとしてるんだ。
判子 結婚しようと思ってる人。
博之 結婚~!?
判子 私たちの婚姻届に押すハンコを。
博之 それは母さんは知ってるのか。
判子 知ってるよ。うちで話した。
博之 こそこそしやがって。俺のいない時に。
判子 しょうがないじゃない。だって、お父さんいつも。
博之 そいつは自分のハンコも持っていないのか?
判子 持ってるよ。だけど。
博之 だけど?
判子 呼んでくる。
博之 だけど、何なんだ!
判子 100均で買ったのしかないんだって。
博之 100均? 100均~? 実印もか? 銀行印もか? 印鑑証明もそんなんですましてるのか? 100均~?
判子 だからこれじゃ恥ずかしいから、お父さんのところでいいハンコ作るって。

   判子、外へ出ようとする。
   そこに、男が入ってくる。

判子 健太! どこにいたのよ。
健太 洋裁店さがしてるおばあちゃんがいて、一緒にさがしてたら。
判子 この辺知ってんの?
健太 全然。わかんないから、あちこち聞きながら。でも安心して。見つかった。洋裁店。みんなやさしいねえ。商店街の人たち。俺、ここ住みたいよ。
判子 (あきれて)はいはい。でも今日は。
健太 だっておばあちゃん困っていたからさあ。
判子 それでも。
健太 (博之に)あ、お父さん、初めまして。鎧塚健太と言います。

   鎧塚健太と名乗る男は、深々と頭を下げる。
   博之はそちらを見もしない。

健太 あの、ハンコ作ろうと思いまして。
博之 あんたのために作るハンコはない。
判子 お父さん。
博之 出てってくれ。(娘に)判子、おまえも。
健太 判子さんを僕にください!
判子 いきなり?

   博之は答えず、印刀を手にする。

判子 お父さん、刃物はやめて!
博之 バカなことを言うな。これで人は彫らん。

   博之はハンコを彫り始める。
   健太はその姿をじっと見ている。

博之 何を見ている。
健太 ハンコ、彫るところ見たいなと思って。
博之 見せもんじゃない。ただの仕事だ。
健太 でも、何かかっこいい。
博之 100均男に何がわかる。
健太 僕、100均男? 悪くない。100均、便利ですよ。安いし。何でもあるし。
博之 何の仕事をしている。
健太 え?
博之 おまえの仕事は何だと聞いてるんだ。
判子 お父さん、おまえって。
健太 いいんだ。お父さんだし。
博之 俺はおまえの親じゃない!
判子 彼はⅠT企業。名前を聞けば誰でも知ってる会社。お父さんも。
博之 俺はITさえ意味がわからん。イットって読んでた。なあ。イット企業?
判子 無理やり・・・。洋楽好きで、英語得意なくせに。
博之 (そこそこ流ちょうに)information technology?
判子 (つぶやき)バカ・・・恥ずかしい。
博之 ITじゃ、ハンコは使わんか。
健太 使いますよ。僕以外はみんないいハンコ持ってますよ。
博之 いや、100均だっていいんだ。本人がそれでよけりゃ。ハンコが必要ないなら、そりゃそれでいい。江戸時代の刀鍛冶屋が、時代が変わって武士がいなくなり、刀を打つ機会がないって嘆いても仕方がない。
判子 (つぶやき)何の話を?
健太 僕には、ハンコが必要なんです。
判子 ん? 今の、わたし? それとも、押すハンコ?
健太 どっちもだよ。判子。
判子 今のは?
健太 ハンコに呼びかけるわけないだろ?
判子 今のは?
健太 もう紛らわしい。君がずっと家(いえ)のこと話さないから。
判子 だから?
健太 ハンコと判子、うまく使い分けられないんだよ。
判子 それ理由?
健太 もう少しだけ待ってくれ。ハンコと判子、使い分けられるようになるから。
判子 そんなの待てない。その程度? だって、私の名前でしょ?
健太 君がハンコで、こっちが判子。あれ? どっちだっけ? 君は? ハンコであって判子じゃない。ん?
判子 もういいっ!
博之 使い分ける必要はない。よろいづかさん、君はうちとは関係のない男なんだから。
健太 いえ、関係あります。
博之 まったく関係ない。うちの娘の名を呼ぶこともない。
健太 聞いてください。
博之 娘と知り合う前に戻るだけだ。君は、この、押すハンコだって必要ないんだろ? この世から、”ハンコ“という言葉がなくなったって何の問題もないんだろ?
健太 いやだ。”ハンコ“のない世界。
判子 健太・・・。
健太 判子のいない世界。
判子 健太・・・。
健太 そんなの、いやだ。判子のいない世界なんて。
判子 健太。わたしはいるよ。ここに。
健太 判子。
判子 ここにいるよ。わたしはここにいるよ。
健太 判子・・・。
博之 すまんが、帰ってくれないか。仕事をしなければならない。お得意さんはいつまでも待ってくれるが、なるべくなら早く納めたいと思う。
健太 いいえ、僕は、ハンコを作りに来たんです。
博之 ハンコは100均のでも十分だと思う。
健太 いいえ、僕は。
博之 役所で何かの申請が通らないわけじゃない。
健太 いいえ、僕は。
博之 これからの時代、何でもサインで通るようになるって話だ。(タカアンドトシの古いギャグで)欧米か! (自虐的に突然笑う)ワハハハハ。・・・その通り。俺は古い男だ。
健太 いいえ、僕は。
博之 紙もなくなる。ハンコどころかペンも必要ない。
健太 いいえ、僕は。
博之 この店だって。俺が店に立てなくなれば。
健太 店は僕が継ぐ。
博之 何をバカなことを。
健太 僕は。
博之 いい加減なことを言うな。
健太 僕は、判子を愛しているんです。
博之 ・・・。
判子 ・・・。
健太 え?
博之 判子。
判子 何?
博之 ハンコと判子、どっちを愛してると言ってるんだ。
判子 さあ?
健太 え~!?
博之 ハンコを作りたいと言ったな。
健太 ええ・・・。
博之 今どきは、ハンコはほとんど機械で彫る。
健太 僕は、お父さんの手で彫ってほしい。その手で。
判子 健太・・・。
博之 よろいづか。
健太 戦う時の鎧に、こんもりと盛り上がった塚。
博之 画数が多いな。
健太 はい? 画数多いと、値段高くなるんですか?
博之 いやあ。ずいぶんと彫りがいがあるなあと思って。ま、たやすいもんだがな。憂鬱って苗字があっても、見事に彫れる。
判子 お父さん!
博之 何だ?
判子 ありがとう!

   判子は父、博之に飛びつく。
   博之は印刀を手にし、仕事を始めようとしていた。

博之 あぶなっ。
判子 ごめん。大丈夫?
博之 俺はいい。判子、お前は嫁入り前の大事な体だ。大丈夫か?
判子 うん。お父さん・・・このハンコ。

   判子は、高校卒業の時、父にもらった立派なハンコを取り出す。

判子 (ハンコの印面を読む)半沢・・・あ~あ。何か、さみしくなってきた。
博之 どうした。
判子 結婚して苗字が変わると、このハンコ使えなくなるんだなあって。
博之 判子。
判子 え?
博之 安心しろ。これは俺が預かってやる。そして・・・すぐにでも戻ってこい。俺のところへ。
健太 え~!? お父さん~!?




おわり







 

オペラとシネマ

カテゴリー │いろいろ見た

7月10日(土)14時~
アクトシティ浜松大ホールで藤原歌劇団「蝶々夫人」を観た。



7月18日(日)15時40分~
シネマe~raで「戦場のメリークリスマス」を観た。






 

路上演劇祭Japan in 浜松2020→2021 WEB配信について

カテゴリー │路上演劇祭

路上演劇祭Japan in 浜松2020→2021はWEB配信にての実施となった。

エントリーの14作品、introduction、番外編の計16本は以下のチャンネルから。

YouTubeチャンネル
「路上演劇祭Japan in 浜松」
https://www.youtube.com/channel/UCds_vF3PN87CsSiUk8NNuhA/


僕は有楽街商店街にある、寛永堂さんというはんこ屋さんに話を聞き、
短い戯曲を書き、有楽街で読み合わせをした様子を撮影し、それを作品とした。
コロナ禍であることを考慮したやり方だが、
この動画だけを見ても何のためにやっているのか理解しにくいかもしれない。

【判子】寺田景一



全体の導入動画はこちら。

introduction







 

穂の国とよはし芸術劇場PLATでイキウメ「外の道」を観た

カテゴリー │演劇

7月3日(土)13時~

イキウメとは、作・演出の前川和大さんを主宰とする劇団。
2003年に旗揚げされ、話題作を上演し続けているが、
イキウメとしての豊橋での上演は初めてだという。

作・演出作品は何本か上演されている。
僕も子供も対象にした毎年夏休みの時期にやる公演を観た。

今回の作品は本来昨年2020年に上演されるはずだったが、
やはりコロナの影響で中止となり、いくつかの過程を経て、
今年の上演となった。

その過程の中で、台本も書き換えられたようだ。
東京での会場であった世田谷パブリックシアターのHPの
公演案内に掲載されている2020年のストーリーラインよりとある
説明文を読むと、登場人物などはダブるが内容が異なるのがわかる。
1本につながっていた話を2本にエピソードを分けた感じだ。

観終わって、ずいぶん哲学的な話だったな、と思った。
話が終わり、時間を経た後に、そういえば、哲学的な話だったかも、とうっすら気が付く、
というより、言いたいことを直接的に訴えかけようとしている気がしたのだ。

これは望まない1年の時を経ざるを得なかった影響かもしれないと思った。
1年は、長いと取るか短いと取るか、
1年は、考えてみればいい経験と取るか取り戻すことが出来ないロスと取るか。

作者は1年の遅れを取り戻すかのように、結論を急がせたのではないだろうか。

偶然同じ町に住んでいることを知った過去に同級生だった(小中だったかなあ?高校だったかなあ?)
男(寺泊)と女(山鳥)が、喫茶店で会う。
とはいえ、お互いに社交的でない性格で、共通する話題はすぐに尽きてしまう。
そこで、互いに近頃経験した出来事を語り始める。
演劇を構成するのはその回想になる。

舞台には椅子が何脚か(数は忘れた)距離を置いて並べられている。
背後は向こう側(外)が見えないすりガラスで覆われていて、扉があり、閉じた部屋であるが
そこそこの広さはある。

登場人物たちは順番に舞台に登場し、その後は引っ込むことはなく、
役柄以外の役割も兼任しながら、2人の回想を再現する。

寺泊は、喫茶店店主の手品の種明かしから
世の中のからくりを全て理解し、
今までの価値観が反転していき、
宅配会社の社員として長年積み上げてきた宅配の仕事を
「誤配は最高」という価値観に行きつき、結果仕事を失う。

山鳥は、“無”と書かれた荷物が届くことから
“無”が世界を食い尽くすという抽象的な世界が、現実に起き、
産んだ覚えのない子供が「お母さん」と言って現れたり、
母親が過去を失ったかのように「17歳だ」と言って現れたりする。

それらは非現実的な話が、
実際に送る生活の中の現実と符合し、
現実と非現実の狭間をすり替わる。
ここではそれを夢あるお伽話としては描かない。
実際的には実損を被ったりして、不安と絶望に陥っていく。

2人を結ぶ共通点がまた世間的な内容だ。
昔同級生だった時の思い出話ならお伽話にもなっただろうが、
寺泊の妻が通うスポーツクラブのインストラクターである
山鳥の弟と不倫の関係にあるのではないかという。

ありえない世界が
決して唐突に現れるのでなく、
実は理由があり、例えば人の心の問題であるとか
そういうことから、別の世界が現れると提示している。
それをタイトルから言えば、「外の道」という。

「外の道」というタイトルから、外道という言葉を連想した。
人の道から外れた者、不良、半端者、アウトロー・・・。

調べてみたら、
外道とは仏教の言葉で、
反対の意味の、内道とは仏教のこと。
仏教以外の教えは、外道という。
つまり世の中に内道と外道しかない。

仏教から言えば、外道と呼ばれるが、
仏教以外から言えば、それは内道と言える。
立場が違えば、まったく逆の呼び名となる。

外の道の反対が内の道なら
内の道にとっての外の道が
外の道にとっては内の道。

どちらの道が正しいことなのかは本来わからない。
また、それがどちらが幸せでどちらが不幸なことなのかも
本来わからない。
それは正しいことや幸せを判断したり、作るのは自分次第だともいえる。

時折、不穏な音が空から鳴る。
閉じ込められた人々は一斉にふりかえり、その方向を
見えないすりガラスから見る。
観客たちも思わず見る。
数度、劇場内は意図的に時間の長い完全暗転(暗闇)となる。
これらは皆に当てはまることなのだという
わかりやすいメッセージ。






 

穂の国とよはし芸術劇場PLATで「未練の幽霊と怪物『挫波』『敦賀』」を観た

カテゴリー │演劇

6月29日(火)19時~

作・演出はチェルフィッチュ主宰の岡田利規さん。

休憩15分をはさんだ2本立てで上演された。
面白いと思ったのは、
劇場内にポスターの下に貼られたスケジュールには
どちらの作品もちょうど55分の上演時間だった。
気になって、上演が終わる度に時間を確認したら、
ほぼ予定通りだった。
ああ、これは意図していたことではないだろうかと思った。

この作品は、600年を越える歴史を誇る日本の伝統芸能である能が持つ様式を
律儀なほど忠実に取り入れている。
そんなことも、どちらも55分の上演時間にそろえたのだなと思った理由。

岡田さんが能に出会ったのは、2016年に発行された
『池澤夏樹 個人編集 日本文学全集10』にて現代語訳を依頼されたのがきっかけだそうだ。

その後、ドイツの劇場のレパートリーとして、ドイツ人俳優たちと
能「六本木」、能「都庁前」、そして間狂言として「ガートルード」という作品を
つくりあげたということなので、
その流れの先に今回の公演があるのかもしれない。

能の様式を使っているが、
内容はまさに現代。
本来昨年6月に上演を予定していて、
中止となり、その後一部をオンラインで映像作品として公開され、
1年後の6月~7月にかけて横浜、豊橋、兵庫で上演。

同様、東京オリンピック・パラリンピックも1年後の開催がまさに今直前だ。
2本の内の『挫波』は
オリンピックと関連した題材をモチーフにしている。
ところが、1年の先送りになったこともあるかもしれないが、
モチーフとされている出来事、いや人物の話題はずいぶん過去の話に思う。

『挫波』とは、オリンピックに向け新たに建てなおすことになった
国立競技場のデザインコンペで
一度は採用されたが後に撤回されたイラク人の女性建築家ザハ・ハディドさんのこと。

国際デザインコンペで2012年に採用され、
2015年10月着工を前に、7月16日に建築費がかかりすぎるというのが
主な理由で白紙撤回される。
採用時の見積もりが約1300億、基本設計時1625億、
着工時の総工費2520億、年間維持費約41億という数字を見れば、
そりゃそうだろ、という意見も成り立つ。
ただし、あくまでもこれは税金から賄われるという
公共事業としての経済観念が理由だ。

2520億がムダか?という意見も相対的な判断で、
必要な物なら堂々と作るべきだという意見も成り立つ。
それだけ、デザインコンペで披露されたデザインが、
国民を代表する審査員の心をとらえ、
決定の判断をする政治家のGOを勝ち取ったのだろう。

従来にない曲線的なデザインで、何本かのスロープは
首都高や線路をまたぐスケールだったと言う。
白紙撤回に至ったということは
反対意見が世論の趨勢だったのだろう。

ザハさんはもちろん被害者であるが、
じゃあなぜ当初の予算を2倍近くもオーバーするのかと問われると、
こういう規模のものはチームで行われるものであるので、
ロマンとお財布の内、現実的な財布の部分を冷徹に見つめる部分がおろそかになっていたのは確かだろう。
「大切な血税を食い物にする」外国人として、ダーティーなイメージでとらえられたことは否めない。

岡田さんはこの作品で、白紙撤回になったことの是非について表現しているわけではない。
2015年7月16日の白紙撤回後、工期や予算を勘案した条件で、
9月1日には再コンペのための公募が開始される。

再コンペに応募の2案から、隈研吾さんを中心とした共同企業体のデザインが採用される。
ちなみに建設費は1569億とある。
これはもう調整された金額だろう。

その後、2016年3月31日、ザハさんは65歳で突然、病で生涯を閉じる。
白紙撤回と病による死は直接関係ないだろう。
ただし、事象として、ひとりの人間の時系列の中で2つは関係があるように見える。

岡田さんは、先ずはザハさんの建築デザインに着目した。
デザインに罪はない。
それは建築家という芸術家の魂なのだから。
現実としては掛かる費用が大きく立ちはだかるが、
それは魂とは関係ない。

もうひとつの作品「敦賀」は福井県敦賀市のMOX燃料(プルトニウムとウランの混合化合物)を使い、
消費した量以上の燃料を生み出す高速増殖炉「もんじゅ」を題材とする。
燃料の未来を実現する研究用原子炉として1983年に着工されたが、
重なった事故(隠ぺいも含む)により、再稼働が予定されるも、実現せず、
2016年12月に廃炉が決定する。
東北大震災後、停止したのち、再開されない原子力発電所も同様の運命をたどるかもしれない、

これも、廃炉が正しかった正しくなかったを言及しているわけではない。
原子爆弾のように兵器とした開発されたものではない。
人類の豊かな未来に貢献するために(地元の人の経済に貢献したかもしれないが)
科学技術の粋を集めて開発された産物である。
国の施策であるが、そこに関わる会社があり、従業員やそのひとたちの家族もいる。

ここでもただ単に、科学技術に宿る魂について着目している。
夢見たものが達せず、33年の時を費やし、幕を閉じた。
そういう事象を舞台の上に差し出している。

観劇後、しばらく日が経ったのち、購読している静岡新聞に珍しく劇評が載り、
それがこの作品についてだった。
使われている能の様式について解説されていて知識の乏しい僕にとり、ずいぶん助かった。
もうそのまま書いてしまおう。

『2作は夢幻能の形式にのっとり、ワキ(シテの相手役)が時と場所などを語ったところに
シテ(主役)がやってきて、その場所にまつわる物語を聞かせる。
その後、アイ(狂言の演者)とワキによるやりとりがあって、超現実的存在としての後シテが
登場し、クライマックスへ向かう構造だ。』

死んだ者・物(ここでは未練の幽霊と怪物と言っているが)がクライマックスで
能の舞に代わり、シテがコンテンポラリーダンスの手法で踊る姿に僕たちが何を思うかはまったくの自由だ。

2作とも扱っている題材は違うが、構造はまったく同じなのだ。
また能では笛、小鼓、大鼓で構成される囃子方は、内橋和久さんを中心とした3人による不思議な電子楽器の演奏、
そして、地謡はシンガーソングライターである七尾旅人さん。
これらも几帳面なほど忠実に能に倣う。

『挫波』配役 シテ:森山未來 ワキ:太田省吾 アイ:片桐はいり
『敦賀』配役 シテ:石橋静河 ワキ:栗原類  アイ:片桐はいり

どちらも55分という上演時間と同様、
几帳面なほど、配役も考え抜かれていたと思う。





 

駿府城公園東御門前広場特設会場で「野外劇 三文オペラ」を観た

カテゴリー │演劇

4月24日(土)18時~

「野外劇 三文オペラ」を観てから2ヶ月以上経ってしまった。

作者はベルトルト・ブレヒト、台本とした戯曲の訳者は大岡淳氏。
2018年10月に東京芸術祭2018にて、池袋西口公園でやはり、野外劇として上演された。

例年なら海外からの劇団招聘もあり行われる
ふじのくに⇆せかい演劇祭がコロナの影響で
「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」「アンティゴネ」と共に国内組のラインアップとなった。
3演目とも、野外での上演。
これは、換気の問題が主な理由だろう。

イタリア人演出家のジョルジオ・バルべリオ・コルセッティ氏はリモートで演出。
イタリアから日本への渡航がままならないことが理由だろう。

会場である特設広場は、客席こそ立派な仮設スタンドを組んでいたが、
舞台は茫漠とした空き地に見えた。
背景には広々とした公園の樹木とその向こうには
いかにも中都市の中心街ビル群がみえる。
何より目立つひときわ高いビルの屋上には物々しい通信基地のような黒い物体が乗っかっている。
(これ、あとから調べたら、静岡県庁の別館で、地上21階、
県危機管理部、危機管理センター、警察本部、通信指令本部などが入居していて、
屋上には警察、消防、防災など危機管理に関するアンテナが林立している、とWikipediaにあった。
富士山も望める無料展望台があり、ずいぶん前に登ったことを思い出した)

4月の終わりとは言え、日が暮れる時間になると、冷え込んでくる。
昼間は半袖の人も見かけたはずなのに、
やってきた観客たちは皆準備よく、
冬物のコートやジャンバーを着込んでいる。
マフラーを首に巻いている人もいる。

入場するには当然のように、検温、消毒、名前と電話番号の登録が必要で、
入場証明のように手首にテープの輪っかが巻かれる。
案内するスタッフはしきりに「奥の方空いてますよ」と下手側に行くように叫んでいた。
僕は、手前(上手)も空いてるのになあ、と観客席をながめ、
少し天邪鬼な気持ちも働いて、上手側の比較的上の方に座った。
「何だよ、いい席じゃないか」と心でつぶやきながら。

「三文オペラ」は、誤解を恐れず言えば、
「三密」が似合う芝居だ。
つまり、密閉、密着、密接。

訳者は違うが手元にある岩波文庫の戯曲「三文オペラ」(千田是也訳)から引こう。
こう始まる。

『ソホーの市場

乞食は乞食をし、泥棒は泥棒をし、淫売は淫売をしている。
殺人物語の歌手は殺人物語を歌う。』

そして第一幕の舞台は、貧者たちを集めて、より憐れみを誘うような扮装をさせ、
恵んでもらった金をピンハネして商売をしている「乞食の友社」と呼ばれる会社。

そのオーナーの可愛い可愛い一人娘が、ギャング団の頭で、何人も人を殺し、
何人もの女をはべらしている主人公である「刃のマッキー」と呼ばれるヤバい男と結婚する、と言う。
その上、取り締まるべき警察のトップと戦友のよしみで癒着関係にある。

う~ん。凄い設定だ。

この戯曲が掲載されている本の面白いところは
戯曲のほかに、作者ブレヒトが書いた「三文オペラ」のための註、
という俳優や観客のための指示書が併載されていることだ。
以下その中から引用。

『「三文オペラ」は、その表現する内容ばかりかその表現方法の点でも、
市民的な物の考え方と密接に結びついている。
それは劇場の観客がこの人生について見たいと望んでいるものについての一種の講演である。
だが、同時に観客は、自分の見たくないものもいくらか見せられる。
つまり、自分の希望が実現されるのを見るだけでなく、
それが批判されるのも見る。
したがって、原則的には、演劇にある新しい機能を与えるようになる。』

そして、「三文オペラ」のような劇文学に対し絶対的に優位な立場にある劇場を
変革しようとする戯曲を、観客が自分で読むこと(劇場に対する不信の念から読むこと)は
大いに良いことだと言っている。

劇場の事情は、1928年8月のベルリン・シッフバウェル劇場の開場にあたり戯曲が書かれた頃と
時が経った現在とは異なる部分もあるだろうが、どうやら劇場という権威にも反発したかったらしい。
今回はその意図もあったかどうか知らないが、本来劇場ではない野外。
コロナ禍だからだけではないだろう。
新型ウイルスと関係なかった2018年の池袋も野外だったのだから。

「三文オペラ」のための註には、各場面のタイトルが映写されるスクリーンについても記されていて、
実際戯曲のト書きにも反映されている。
演劇の文書化の最初のスタートであり、
例えば観客も芝居のみに没頭するのではなくて、複合的にみる練習をしなければならないというわけだ。
時折入る歌も同様の意味だろう。

しかしながら、その目的を達するにはまずは芝居に没頭させることが必須になる。
そのうえで、スクリーンのタイトルだったり、歌という別のジャンルが挟み込まれて
観客は複合的にみる練習をするべく資格を得ることができる。

1928年当時のスクリーンはどういうものだったか知らないが、
今は、電器メーカーの巨大モニターだ。
巨大とかいたが、この茫漠とした空き地にしてはスケールが足りない気がした。
しかも、上手側の端に1台のみ。
確かに両側だと仰々しい。
予算もあるだろう。
もっと大きなモニター。
これも予算に関係する。
劇場ならプロジェクターが使えた、いや、これは言うまい。

舞台が始まり、さっそくスクリーンのお出ましだった。
刃のメッキ―がいかに悪い奴か知らしめる歌が
茫漠とした空き地の観客席側にわらわらと出演者たちが集まりだし、
歌われるが、モニターに歌詞が映し出されているようだ。
“ようだ”と記したのは、俳優たちを見ていると、
方角的にモニターは見えなかった。

モニターの文字を注視すると、俳優たちは見えない。
そこで思いだした。
入場時、盛んに下手の席に誘導するスタッフの姿を。
真実はわからない。
いや、本当に下手の方が空いていたのだろう。
でも、ちょっと思った。
言葉に素直に従えばよかった・・・。

俳優たちは皆口元を隠すマスクをしていた。
デザインなどでギャングはギャングっぽく見える効果もあるが、
娼婦もしていると、コロナ禍であることを意識せざるを得ない。
それは、上演を実現するにあたり、
考え抜かれた判断だったのだろう。
ただし、口元が隠れても有利に見せる演劇もあるだろうが、
表情に口元は重要なんだなとあらためて思った。

演技もソーシャルディスタンスに気を配っている様子がうかがえた。
これも距離を有利に使う演技方法もあるだろうが、
コロナ以前の演出が基盤になっているだろうから、
根幹から変えることは無理だろう。

ああ。
これは、ブレヒトさんが言うように、
複合的にみる練習をしているのかもしれない。

元々そういう場所だったのか、
それとも土を捲いたのかわからないが、
俳優たちが立つ茫漠とした空き地は
土ぼこりが巻き上がりそうだった。

むしろ俳優は観客の方に土ぼこりが行かないように
例えば地面を蹴っ散らかすような演技の際配慮しているように感じたが、
その上を人間の稼働能力を挽回するかのように各種車両が、駆け回った。
トラック、ワゴン車、ショベルカー、あれ?バイクはあったかなあ?
自転車はあった。

実際に感じたのだが、
普段見慣れている車が、エンジン音をたてて演劇の舞台上を走るとドキッとする。
燃費のいい国産車なので、エンジン音はうるさくないし、
スピードだって公道走るより出ていないのかもしれないが、
2本足で立つ人間の存在がやけに小さく見えるのだ。

すでに日は暮れている。
観客席とも適切な距離をとる
大切なセリフを発する口元を覆い隠した俳優たちが
身振り手振りを駆使して、93年前に
はるかドイツで書かれた作品を演じている。

遠く、地方都市のビルの夜景。
この夜景の下で暮らしている人たちは
この演劇と関係あるのだろうか?
思いを巡らす。
目の前ではストップウォッチのない演劇が
台本におおむね沿って時を順調に進めている。
複合的にみる練習をしすぎたせいか、
すでに頭の中は混乱気味だ。

マスクをしている俳優たちを見ながら思った。
この演劇は「野外劇 三文オペラ」というタイトルに異論はないが、
「荒野の三文オペラ」というタイトルも悪くない。
クリント・イーストウッドのマカロニウエスタンを連想したからだが、
マカロニウエスタンで登場人物たちが
口を布で覆っているかは不明。
悪役はそんなイメージがあるのだが。