浜松城公演中央芝生広場で劇団どくんご「愛より速く FINAL」を観た その2

カテゴリー │演劇

新宿梁山泊は今年の6月、新宿花園神社境内で、紫テントによる公演を行っている。
それでもかつてのように、テントを携えて、全国転々と、というわけではないだろう。
ひとつのシンボルとして、テント芝居が選択される。

テント公演を1988年に始めてから、
テント公演を続けている劇団どくんご。
略歴には2015年に旅・芝居の新しい展開を求めて1年間の休演、
とあったが、展開は新しくなったのだろうか。
予想だが、特別変わっていないような気がする。
以前と同じ旅を続けることが出来ると思ったから再開したのではないか。

どくんごの上演形態は、
旅を続けることが出来る条件を備えている。
先ずは、その1でも書いた、全国に呼ぶ人たちがいること。

そして、テント芝居の先輩である紅テントや黒テントとも異なること。
その日観たどくんごの公演は、
全員が楽器を演奏しながらの歌から始まった。
そして、ひとりの役者はこう言う。
「お話はありません。こういうのがずっと続きます」

その時思ったのが、サーカス団みたいだ、ということだった。
また、旅芸人一座のようだ、とも言えるかもしれない。
この形態は、旅を続けるにはいい条件である。

上演時間をめいっぱい使って1本の芝居をすると
なかなか再生するのは難しい。
人を揃える問題もあるし、
新作をやる場合、毎回イチから準備しなければならない。

ところがサーカス団や旅芸人一座の上演形態だと、
それぞれレパートリーの積み重ねで構成されているので、
時を経ると、そのレパートリーが積みあがっていくことになる。

演じる人は変わっても、作品は残っているので、
別の人が演じる場合もあるだろう。

自ら犬小屋と呼ぶテントはとても簡素なつくりに見える。
でも、その簡素さが力を発揮する。
数々のレパートリーが展開する中、
絵が描かれたカーテンが背景として使用され、
次々と変わる。

劇団員たちで描いているそうだが、
描きたいと手伝ってくれる人もいるそうである。
このカーテン絵の枚数が
劇団の歴史とも言える。
その時の旅で演じるレパートリーに合わせて
カーテン絵を積み込んで旅に出る。

カーテンが取り外されると、
観客の視線の先は、
背後に広がる実際の風景になる。
ビル街で行われれば、
その風景は立ち並ぶビルになる。

今回は
芝生が植わった広場が続いていた。
テントの中だけだった演技範囲は広がり、
風景の中に役者たちは溶け込んでいく。

暗闇に飛び込んでいく役者の行方は
用意された照明が照らされ、
準備の周到さがうかがえる。

どこかノスタルジックなオリジナル曲も相まって、
観客たちはそのままどこかへ連れていかれそうになる。

それはどこだろうか。
もしかしたら、次のテントの行き先にでも
一緒に連れていかれる錯覚かもしれない。

役者たちは風変わりな衣装を着、
道化風のメイクを施し、
体の動きも声の出し方もあえて日常を外している。

ノンストップで複数の演目が積み重ねられ、
公演が終了すると、
カーテンコールで、
知っている人がいる人もいない人も打ち上げに参加するよう
促される。

でもここでハタと気が付く。
夜が明けると翌日は月曜日なのだ。
日常に戻らなければならない。

酔っぱらって、
芝生広場で寝るのは心地いいにしても
すでに9月も終盤で夜は冷えるし、
ここには幻のようなテントが立っているだけ。
起きたらまるごと消えていたなんてこともあり得る。

駐車場から車を出し、
家へ向かうと
意外と日常に戻るのは早かった。





 

浜松城公演中央芝生広場で劇団どくんご「愛より速く FINAL」を観た その1

カテゴリー │演劇

9月24日(日)19時~

劇団どくんごの公演チラシは豊橋に行った時、
何回か見かけたことがある。
豊橋で公演を行っていたのである。

テント芝居かあ。
どくんご?
どくって、毒か?
毒って名がつく劇団って。
でもひらがなだし。
ソフトな毒なのだろうか。

僕は、テント芝居だから
観に行きたい、
という志向が特別あるわけではない。

テント芝居は1960年代後半から
状況劇場の紅テント、
黒テントの黒テント、
新宿梁山泊の紫テント
など旅するテント芝居はあった。
他にもあっただろう。

それぞれテント芝居である必要があったのだと思う。
紅テントは、唐十郎の有り余る創造性が、
従来の枠組みでは捉え切れない独自の創作方法を選ばせたのかもしれない。

黒テントは、運動の演劇として、従来の劇場を拒否し、
自らの力ですべて準備し、客に会いに行く手段を取らせたのかもしれない。

紫テントは、主宰者らが状況劇場出身で、
唐十郎の影響を強く受けたのかもしれない。

その中では唯一唐十郎の後継者たちにより、
唐組芝居が、テント芝居を継続している。
そのほかは、さまざまな事情でテント芝居をやめている。
テント芝居だから、何か意味があるという時代は終わった。
演劇の上演手段は広がり、
どこで上演されようとそうそう驚かない。
前衛やアングラという言葉も何周かは廻っている。

そんな時代になぜテント芝居なのだろう。
劇団どくんごのことを全く知らなかった僕は、
頭の中ではどこかいぶかしげだった。

テント芝居は今も昔も変わらない特徴がある。
既成の劇場で行う場合、
プロモーターともいうべき興行主がいる。
自治体であったり、テレビ局であったり、
イベンターであったり。

しかしながら、テント芝居は
劇場とつながっていないので、
個人を主体とした招へい先とつながりを持つことで
上演が行われる。

つまりその劇団を呼ぼうという人たちが
公演場所の選定、
宣伝PR、
チケットの販売・集客、
入りから当日までのスタッフ
などをまかなう。

テント芝居は、
呼ぶ人たちの存在なしでは成り立たない。
僕が浜松で演劇を始めた時にいた劇団は
自分たちの公演の他、黒テントの招へいを行っていた。
僕は、鴨江観音で上演した「三文オペラ」の招へいを手伝った。
この後、テントの老朽化を理由に黒テントのテント芝居は幕を閉じる。

もう一度、黒テントを招へいした際も関わったが、
その時はテント芝居をやめ、劇場で上演する1作目だった。
Uホールで「ハザマとスミちゃん」という芝居が上演された。

それ以前、浜松では紅テントの状況劇場を招聘する人たちもいた。
また、紫テントの新宿梁山泊を招聘する人たちもいた。

劇団どくんごは1988年の初のテント公演以来テント芝居を続けている。
30年近くたつのか。
僕が知らなかっただけなのだ。
僕が知らない間、
全国の呼ぶ人たちに支えられて、
テント芝居を行ってきたのである。

浜松での公演は今回、初めてということだ。
浜松で呼ぶ人が誕生したということである。

僕は、劇団どくんごに関し、チラシ以上の情報を得ぬまま、
会場である浜松城公園へ向かった。

公演初日前日の22日に雨が降る中、
チラシの挟み込みの依頼に行き、
芝生広場に設置されたテントと楽屋を見たが、
そこに特別の感慨は抱くことはなかった。

まだ上演前なのだ。
彼らはこれからリハや準備が始まるが、
僕は僕の生活をしなければならない。

これだけは思った。
24日は雨がやんでいるといいなあ。





 

長久手文化の家 風のホールで劇王Ⅺ~アジア大会~を観た

カテゴリー │演劇

9月17日(日)14時~
劇王とは
3人以内の登場人物、20分の上演時間、舞台転換数分という条件で上演される
短編戯曲の勝ち抜き大会。
A・B・Cの3つのプログラムに全国で選ばれた地域代表と
韓国、シンガポール、香港からの代表がそれぞれ4組ずつ振り分けられる。

15日、16日と各プログラムごとに上演され、
観客と審査員の投票により、得票が最も多い
劇作家の作品が決勝戦に進む。

そして、勝ち抜いた3組と第9代劇王の平塚直隆さんとで
17日に決勝戦が開催された。
その決勝戦を観た。

上演されたのは以下の4作品。

「アツモリ」遠藤雄史さん
「前兆とか」亀尾佳宏さん
「言いにくいコトは・・・」上田龍成さん
「救急車を呼びました」平塚直隆さん

韓国、シンガポール、香港からの代表の作品を観てみたいと考えていたが、
すでに決勝戦には残っていなかった。

観客は1人1票を持ち、
観客の総票数と同じ票数が審査員の総票数と同じになる。
審査員ひとりの票数は多いのだが、
勝ち抜くためには観客票が大きな影響を持つ。

今回は、観客の笑いの量が結果に反映したように思う。
笑いを主にした作品が優れているという意味ではない。
笑うということは心に影響を受けるということだから、
投票の際、心を動かした自分に正直になろうと思う人は多いだろう。

それは、面白かった、という満足感である。
でも、何が面白かったのか、ということに意識を及ばせるのは
また別の作業である。

時間を置いて考えてみると
評価が変わっている場合もあるだろう。

でも、劇王は
すべての演目が終わり次第、
投票することがルールになっている。
終わるとすみやかにスタッフが投票用紙を回収に回ってくる。

劇王の好きなところは、
審査員の方々の講評を聞くことである。
投じた票の詳細は観客にも明らかにされ、
そこには審査員の演劇感もにじみ出る。

講評にはさらに現れ、
審査員同士の考え方もずいぶん違うなという事がよくわかる。

決勝戦は4組の参加者に
5名の審査員が講評を言うので、
時間のことを考え
1組につき3名ずつと司会者が言ったにもかかわらず、
どうしても言いたい人はどうぞ、という言葉に甘え、
結果5名全員が講評を言う、というのも面白かった。

どうせなら全員講評を言って、
なおかつ意見が違ったら
討議してくれとまで願った。

が、大人の対応で、
予定通りの時間に終了した。
劇王Ⅺの劇王に輝いたのは
平塚直隆さんである。
さすがの展開。
もはや安定感さえある。





 

ワークピア磐田でFox Works Produce「姫が愛したダニ小僧」を観た

カテゴリー │演劇

9月10日(日)17時30分~

ダニ小僧とは何か?ということを考えることにそんなに意味はない。
ダニって、あのちっぽけな害虫か?今ならマダニが話題となっているし・・・。
そんなダニのような男の話なのだろうか。
観る前はタイトルのみを見て、勝手に想像を飛ばした。

ダニ小僧とは、劇中で使われるアイルランド民謡「ダニーボーイ」から来ている。
「ダニーボーイ」をダニ小僧に直訳した。
世界中の多くの人も好きであろうが、
作者である後藤ひろひとさんが好きな曲なのだろう。
この曲が醸し出す
懐かしい、愛しい、そんな思いを芝居にしようと思ったのだろう。

「ダニーボーイ」をダニ小僧に直訳する乱暴さが、
この芝居のストーリーの展開の特長である。
介護施設に入っているおばあさんはおそらく認知症であろう。
認知症の症状である妄想が、
自らをすみれ姫と名乗らせ、
世話をする介護職員は、姫の欲求をじゃまする敵となる。
理事長までもが立ちはだかる。

認知症という通常では悲劇的とされる要素を活用する
ある種の不謹慎さは、
その目的のロマンティックさにより許される。

つまり、昔恋した男にもう一度会うこと。
彼女の「ダニーボーイ」の思い出は、認知症の症状ともあいまって、
ダニ小僧と直訳させる。
その乱暴さに後押しされて、
乱暴な設定の登場人物たちが
恋した男に会いに行く旅のお供となっていく。

乱暴ついでに
目的に達する過程も
相当乱暴である。

ダニ小僧の行方を知るという島じじいには、
抜擢された観客のひとりが祭り上げられるという始末だ。

最終的には
願いをひとつだけ叶えるという自動販売機が登場し、
姫の目的を解決してしまう。

冒頭より、ある男が、自殺願望の男に寄り添い、
結果自殺を阻止する話が並行して語られているが、
こちらと突然結びつく。
そしてエンディングに向かう。

話の流れと関係なくいきなり歌いだすのも演劇の特長だが、
カーテンコールでは、
ロック調にアレンジされた日本語の歌詞が入った
「ダニーボーイ」が出演者たちにより歌われる。

乱暴といえば乱暴だが、
この芝居はやはり「ダニーボーイ」だったのだなと
一方安心する。

今回の公演は、浜松で活動する劇団が、
磐田の会場で、
西は愛知の蒲郡、東は藤枝の役者たちを集めて行われた。
当然ながら、演劇は稽古に通えるメンバーたちにより作られる。

そう言えば、近頃東京では
2回目の通し稽古に参加するしないで、行き違いがあったようだ。

どうだろう。
会社の会議や学校の講義なども
遠隔地同士を結ぶネットでも可能な時代、
WEB稽古は成り立つのだろうか。

それでも、今のところ
演劇を作る際、稽古に通える仲間たち、
というのは成り立たせる条件であろう。

いささか乱暴にも思える座組には
乱暴を特長とする脚本が合っていたのかもしれない。

この公演のきっかけとしては
当日配られたリーフレットにも記述されているように演出者の
この作品への思いが反映されていたと思う。

既成の脚本を上演する場合、
やり方は、乱暴に二つに分けると、
忠実にやるのと、壊してやるのとのどちらかである。

後藤ひろひとさんは、
「ダニーボーイ」を壊して芝居にしたと言える。(曲ではあるが)
但し、元々壊れたところが持ち味の脚本を
それ以上壊すのは難しいことかもしれない。
また、愛しすぎると壊せないというのもある。

ビートルズのコピーバンドの多くは
ビートルズの曲を換骨奪胎させようとはあまり考えてはいないだろう。
(換骨奪胎とは、ネットで意味を引くと、
先人の着想・形式を使って、新味を加えて独自の作品にすること)

当然ながら、本当は既成の脚本を上演するやり方を
忠実にやるのと、壊してやるのとのどちらか一方に
なんて分けることはできない。

どちらも混じり合って作るのだろう。
世界中で過去の作品は様々な座組により
繰り返し演じられている。
ハムレットしかり。三人姉妹しかり。





 

樂土舎でダンスユニット素我螺部ライブパフォーマンス「タイトル―未定」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

9月2日(土)18時30分~
会場である樂土舎は袋井市のまわりは茶畑が見受けられるところにある。

場所自体がアート作品のようなところで、
総称として、楽土の森アートプロジェクトと呼んでいる。
敷地の中には工房、茶室、焼き物を作る場所、舞台などがあり、
数々のオブジェが点在している。

1996年に、ブルーベリーを植栽したのを皮切りに、
「初源的な発想をもって、あらたな創造空間を」をコンセプトに、
ものつくりの実験の場として、変化を続けている。舞踏や音楽など、
この場所を利用しての公演も定期的に開いている。

今回は、ダンスユニット素我螺部を中心に10人の子供たちと樂土舎内で行った
1泊2日のワークショップを経て、作品にした。
ワークショップは「ふじのくに子ども芸術大学」という静岡県のワークショップ事業の一環である。

「タイトル―未定」としたのは、8月11日、12日に行われたワークショップに参加した子供たちとの
共同制作の過程の中で決めるということだったが、
終演後のあいさつの中で、
生まれたばかりのまだタイトルがない頃をイメージして、
「タイトル―未定」のままにした、ということだった。

ここでダンスのワークショップを行う意図はいろいろあったはずだ。
先ずは自然に親しむこと、
人と触れ合うこと、
自分の目と耳で何かを発見すること。
そこからダンスパフォーマンスにつなげたはずなのだ。
ワークショップ初日の11日は袋井の花火大会だった。
ここから見えたとしたらさぞかし特別な花火になったことだろう。

登場はダンサーを乗せた軽トラがエンジン音とともに現れる。
ボレロを弾くギター音が鳴りひびく。
そして、敷地内を移動しながらいくつかの作品が演じられる。
音楽の他、映像も組み合わされる。
最後は、パワーショベルも稼働して、
表現に組み込まれた。

素我螺部のメンバーは3名のダンサーと1名のギタリストから成る。
そこに、1名の科学者が参入し、実験を織り交ぜたパフォーマンスを行っていると
プロフィールには書いてあった。
(何だろう?実験って)