静岡市美術館で「起点としての80年代」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

2月17日(日)

静岡市へ行くには2つの選択肢がある。
車か電車かである。
金銭的な理由が主だが、
高速や新幹線はほぼ使わない。
もっぱらバイパスと在来線だ。

この日は久しぶりに電車で行った。
電車で行くとき、もくろむことがある。
車内で揺られながら、
何か一アイディアひねり出せないか。
たとえば傑作戯曲につながるモチーフとか。

そんな都合のいいことを考えながら
電車に乗り込む。
と言いながら、
ボーっとしたまま静岡駅に着いたりするのだが、
この日は読書がはかどった。
それもまた良し。

静岡市美術館は北口を出て、すぐにあるビルの3階にある。
「起点としての80年代」という企画展が行われていた。
“80年代は「インスタレーション」や「メディア・アート」など
今日の美術につながる動向が生まれた時代”とチラシに
記されている。

僕には美術の歴史を時系列で語れる知識は全くないが、
とりあえず80年代はまるまる経験している。
「アート」と言う言葉が「美術」という言葉に変わり
よく使われるようになった時代ともチラシにある。
ふ~ん。

日比野克彦さんのコーナーには
数点の段ボールを材料にした作品の他、
「ロックミュージカル・時代はサーカスに乗って ’84」に
舞台美術兼出演者として参加した時の写真パネルが貼られていた。

会場を出ると同時開催で
「アーカイブ/1980年代-静岡」という
静岡県内で80年代に行われたアートイベントが紹介されていた。

気になったのは
1980年~1987年に開かれた浜松野外美術展。
今切海岸や中田島砂丘で行われている。
僕が東京で学生時代を過ごしていたのとも重なり、
存在は全く知らなかった。
思わずパンフレットを購入した。
300円だったし。






 

路上演劇祭の街歩き

カテゴリー │路上演劇祭

2月16日(土)14時に、たけし文化センター連尺町に集合し、
路上演劇祭を開催する場所をさがすための“街歩き”をした。
目安は連尺町あたりその周辺である。

たけし文化センター連尺町は
昨年11月1日、NPO法人クリエイティブサポートレッツにより、
浜松の中心街に様々な人たちの集う文化発信基地としてオープン。

僕たちは、施設と直接関係するわけではないが、
“様々な人たち”の内の一員として、
集合場所に使わせていただいた。

しばらく、入所者の日常と共存。
僕自身は初めての来所でもあり、
うまく共存できたとは言えないが、
すぐに答えが出るものでもない。

街歩きの参加見込み者がそろったところで外に出て、
近くのお寺とかお琴屋さんとか乾物屋さんとか絵画教室だとか、
見えない糸を手繰り寄せながらうろうろ。
こちらもすぐに見えない糸が見えてくるわけでもない。

お金を出せば借りれる場所は意外とたくさんある。
しかし、毎年続ける中で、
なぜその場所でやるのかは考えざるを得ない。
いまどき、演劇は屋内(ホール等)でやるものなのだ。

路上演劇祭たりえる“路上”をさがして、
街を歩き、話を聞く。

休憩場所は肴町の「BENI」である。
BGMは「カーペンターズ・ベスト」一本。
店内をエンドレスで流れる。

理由は省くが、個人的にその中の
「雨の日と月曜日は」には思い入れがある。
その証拠に数日後、
原曲の作者であるポール・ウイリアムズのベストを
購入してしまった。
海外から送られてくるので
投稿時はまだ届いていない。

次回は3月9日(土)青少年の家で実行委員会。
机上で話し合い。





 

雄踏文化センターでFOX WORKS Produce「疾走れ!!小五郎」を観た

カテゴリー │演劇

2月3日(日)14時~

「幕末純情伝」というつかこうへいさんの作品がある。
元々は小説として書かれた。
のちに戯曲化され、自身の演出により上演された。
つかさんが亡くなられた後も、
他の演出家により、上演され続けている。
映画化もされ、小説版や映画版と演劇版は
ずいぶん異なる部分も多い。
ここでは演劇版の出版されている戯曲の内容を元に話をする。

「沖田総司は女だった!!」という大胆な設定で、
同じ新選組の副長土方歳三と討幕派坂本龍馬との間で揺れる
三角関係を交え、幕末を舞台に志士たちの“青春”を描いている。

登場人物には勝海舟、岡田以蔵、桂小五郎、近藤勇という実在の人物もいるが、
新選組の組員の中には、
山崎、高野、木下、聖子、酒井という現代名が出てくる。

彼らは新しい時代になったら、
割烹やるだの、結婚して写真館やるだの、教師になるだの、床屋やるだの
現代の若者がみる夢のようなことを言う。
それは時代劇にも関わらず、
登場人物の視点は今なので、未来を知っている。
まるで預言者のように。

幕末を彩った実在の人物たちも
同じように未来を知っている。
沖田も坂本も死なねばならぬ。
だからこそ虚構を遊ぶ。
そしてそれが観る者の心に一層哀切を生む。

そして、それは観客の今と接点を持つ。
マイクを持ってカラオケが入ろうが、
史実がないまぜになろうが、
演劇の持つ自由さが、
歴史という壁をすり抜ける。

だから、幕末純情伝の舞台写真や映像を観る限り、
服装は着物でなく、ほぼ現代だし、(というか体操着)
武家屋敷だの遊郭だののセットや書割もない
素舞台である。
役者の身体とセリフのみで
見せてやるとでもいうように。
観客は時代劇を観ながら現代劇を観ている。

「疾風れ!小五郎」のチラシのキャッチコピーにこうある。
“桂小五郎 全速力の青春”。
描こうとしたメッセージには共通点があったのではないだろうか。
こちらは幕末の時代に即した着物姿で演じていた。
つまりそこで時代が固定される。
今の時代に逃げるのを制限される。
もちろん時代劇にとってはこちらがまっとうだ。
幕末純情伝の方が異端だろう。

その代わり、
その中の桂や坂本や西郷や勝らは、
所作や語りなど時代劇を演じるための技術を要求される。
実在の人物故、人によってはハードルが高く感じるだろう。
いくら自分なりの〇〇をと思っても、
大河ドラマでは〇〇がこの役をやってるし、
映画やその他時代劇でも〇〇が・・・。
観客たちの頭の中についているイメージが邪魔するのである。

歌舞伎でも大衆演劇でも北島三郎ショーの芝居コーナーでも
固定された時代に観客の心を誘導するために
趣向を凝らせる。
書割だったり舞台セットであったり小道具であったり。

それらがなくて成り立たせるものはなんだろう。
講談や落語などの一人芸であろう。
こちらは語りのみで、
観客の頭にその時代を浮かび上がらせる。

昨年、はままつ演劇フェスティバルのオムニバス公演で
今回の脚本を担当し、吉田松陰役を演じた
狐野トシノリさんが一人芝居で演じた「花しずか」は
戦時下、時代にそぐわないと禁じられた落語にまつわる話等、
やはり時代の節目を舞台としていたが、
こちらは語りと芝居のみで
固定された時代を浮かび上がらせていた。

まぎれもなく現代に生きる現代人が
過去の時代を演じる。
それが時代物の醍醐味であろう。

正当な時代劇を演じ終えた
「疾風れ!小五郎」の出演者たちは何を思うだろう。
当日配布されたリーフレットに記された出演者の言葉を読んでも
その一端は伺える。
もちろんそれ自体がまぎれもなく青春であることは間違いないが。