七ツ寺共同スタジオでオイスターズ「うちやまつり」を観た

カテゴリー │演劇

23日(日)15時~
名古屋の大須観音のそばにある
七ツ寺共同スタジオで観た。

たまたま観る前に入った食堂は
引退報道の関連でテレビで紹介されていた
いつも注文していたら名付けられたという
「真央ちゃんチャーハン」の店だった。

「うちやまつり」という戯曲の作者は深津篤史さんという。
今回の上演は、
2014年7月に亡くなられた深津さんの戯曲を集めた
「深津篤史コレクション」の発刊に伴い開催された
「深津演劇祭~深津篤史コレクション舞台編」の12本の内の1本である。
岸田國士戯曲賞を受賞した「うちやまつり」を
平塚直隆さんが主宰するオイスターズにより上演された。

「うちやまつり」とは一体どういう意味だろう。
作者は、タイトルをつけるには何らかの理由がある。

時は正月である。
正月とはいえ、戯曲を読むと1月3日14時とあるので、
元旦とは異なり、正月気分も落ち着いた頃だ。

場所は空き家が多いらしい団地である。
「こやまさんのにわ」と呼ばれる空き地には
人が行き来し、時候の挨拶「あけましておめでとうございます」と交わされるが、
関係性が希薄なのか、言い口にめでたさは薄い。

不法のゴミ捨て場となっていて、自転車や、その後明らかになるが大量のカセットテープが捨てられている。
さらに、そのカセットテープには盗聴された内容が録音され、
どうやら、浮気の現場が録られている。
ご丁寧に、使用できるカセットデッキまで、置かれている。

「こやまさんのにわ」には小山さんが埋めたという死んだインコの他、
誰かは、猿のマリオを埋め、さらに誰かは死体を埋めたようなのだ。

その上、この団地では、ここ最近、3人の殺人事件が起こっている。
犯人と疑われ、取り調べを受けたが、証拠が見つからず釈放されたが、
周りからはまだ疑われている人がいたりする。

「うちやまつり」はそんな状況を描いている。
劇中何か事件が起こるわけではない。
事件は、劇で上演される時間の前に十分起きている。

作者は注意深くそれらが表面に出てこないように配慮している。
エスカレートするのを手前で巧妙に止めている。
一見何も問題はないかのように、
人が行き交い、
会話が交わされ、
時間が過ぎていく。
平穏無事を装っている。

ここで「うちやまつり」というタイトルに戻る。
「まつり」を「祭り」の意味だとしたら、
対極のように思える。
「うちや」とは「内や」だろうか。
外に向かう開放的な祭りに対し、
内に向かう閉鎖的な祭り。

この一見すると相反する
タイトルの付け方には作者の態度が如実に表れている。
物事に対する距離感とも言える。
それは近くではない。
かといって遠いのとも違う。
事実をよく見るのに適した距離であろう。

演出した平塚さんは不条理劇の劇作家として知られる。
対して「うちやまつり」は不条理劇ではない。
嘘ごとでまるでファンタジーのように登場人物から語られたりするが
すべて、事実であろうことにのっとっている。
リアリズム劇と言えるのか。

平塚さんにとって、やりやすかったのだろうか
それとも、やりにくかったのだろうか。





 

路上演劇祭Japan in 浜松2017-2018の出演者たち

カテゴリー │路上演劇祭

砂山を舞台にした 1年がかりの演劇祭
今年6月 1幕目が開く

2017年6月3日(土) 雨天決行(アーケードがあります)
時間:13時~18時頃
場所:砂山銀座サザンクロス商店街

観覧無料

エントリーは以下の通り。
(エントリー順)


ひらのあきひろ

・雨ニモ負ケズ

・砂山劇場2017

・URARA

・障害福祉サービス事業所アルス・ノヴァ

・里見のぞみ

・加藤解放区

・TRIBUFU

上演後、とっても気軽な
「しんぽじうむ」があります。

タイムスケジュールは決まりましたら
「路上演劇祭Japan in 浜松」のブログにて発表。
アドレスはこちら。

http://rojo-hamamatsu.blogspot.jp/

ぜひお越しください!!





 

22日(土)17時から路上演劇祭の実行委員会があった。

カテゴリー │路上演劇祭

22日(土)17時~19時 青少年の家にて
路上演劇祭Japan in 浜松2017-2018の実行委員会が開かれた。

開催日は2017年6月3日(土)
場所は、
浜松駅南口から歩いて約3分の所にある
砂山銀座サザンクロス商店街。
雨天決行。(アーケードがあるので)
時間は13時~18時頃。

2017年の今年に続き、来年の2018年も
同じ場所で行うので、2017-2018としている。

チラシができあがり、会議の席に持って行った。
これから手分けして、あちこちで配布する。

ここからPR。
チラシの表面をアップいたします!
ぜひお越しください。
入場無料です。

スタッフも募集しています。
ぜひお問い合わせを。

出演者が紹介された裏面はまた。



過去の上演写真は浜松写真連絡協議会さんに撮影していただいた写真等を掲載させていただいています。


 

からっかぜアトリエで演劇ユニット マッカラン・ウェルブ「偏路」を観た

カテゴリー │演劇

16日(日)14時~
岸田國士戯曲賞の受賞者でもあり、芥川賞受賞者でもある
本谷有希子さんの戯曲を上演。

お遍路で有名な四国地方から女優になる夢を抱き、
上京するが、芽が出ず、本人曰く都落ち、つまり故郷に帰ることになる、
若月という女性が主人公。

ところがまず帰る場所は、
お遍路をしている若月の父親が立ち寄っている
親戚の家。
そして、その家では、お遍路をしている人たちに対し、
「お接待」と呼ばれる、食べ物や、ことによればお賽銭を差し出したり、
宿として提供したりしてる。

「お接待」とは、他人のために捧げる行為である。
他人のことを考える。
他人に干渉する。

自分のことばかり考える若月にとって、
そのように関わられることが非常につらい。
うざい。重い。
出来れば放っておいてほしい。
そっとしておいてほしい。

それは、ひとえに、若月が自分のことだけを考えているからだ。
父親に、大見得を切って飛び出した故郷に
帰るのが恥ずかしい。
父親やそのほかの人たちに合わせる顔がないのである。

そんな若月の気持ちは、
チラシのキャッチコピーにも使われている、
「ひとんち くさい」
というセリフに現れている。
親類の家の玄関先で感じる
他人の違和感に、
置かれていた消臭スプレーを吹きかける。
自分以外はみなくさいのだ。

でも、それは、
ほんとうは自分にすごくかまってほしいという欲求の現われでもある。
ほんとうはたまらなくお接待されたいのだ。
頭をなぜていい子いい子されたいのだ。

それは、若月が自分とは別の人たちと思っていた
この家にいる親類縁者たちも、そうは変わらない。
みなそれぞれドロドロを抱え、
接待する側でなく、接待されたい側として、
ここにいる。
接待されたい同士で、寄り添っている。
甘え合っている。

若月のどうしようもなく感じた違和感は
ここにある。
肯定できない自分と、同じような立場の人たちがいるのだ。

若月の登場で、
この状況は変化を見せる。
自分で抱えていたドロドロを先ずは
みなにあからさまにすることにより、
共有し、次へ進もうとするのである。

若月が泣く場面が2度ある。
若月が妬む、人生が始まってもいないし、終わってもいない
生まれたての赤ん坊のように。
恥も外聞もなく、
周りのことなど気にせず、
遠慮もなく。

1度だけでは足りなかった。
2度泣くことで、舞台は終幕を迎える。

若月は、他人も自分とそう変わらないことを知る。
他人とくささを共有する象徴である炬燵に
父と一緒に入る。
若月は、故郷を受け入れる。

と思いきや、
若月は再び、東京に出るなどと言って幕を閉じる。
でも、もちろん本当に行くかどうかはわからない。





 

鴨江アートセンターでsons wo:「シティⅢ」を観た

カテゴリー │演劇

8日(土)19時~
第2土曜日なので、所属しているいわた表現の会からころの月1回の定例会が14時からあった。
2011年の震災の年に第7回公演を行ってから、
新たな公演を行っていないのだが、
毎月定例会は開かれ、
各自持ちよった題材を元に、表現活動を続けている。
今回は、「あらしのよるに」という絵本を題材に
とりあえず継続的に作品作りをしていくことになった。

第2土曜の夜の観劇は
おのずと定例会の場所である西貝公民館から向かうことになる。
雨が降っている。

sons wo:の「シティⅢ」は3部作の最終章である。
残念ながら、「シティⅠ」は未見であるが、
昨年夏、ライブハウスで行われた「シティⅡ」に続いて、観る。

sons wo:は有楽街で開かれた路上演劇祭で「めいしゃ」という作品で出会って以来、
数度拝見したが、演出は毎回方法が異なるように思う。
ただし、方向性は変わらない。

演出は通常、話の筋を滞りなく、効果的に伝えるために
つまり、ある意味観客に奉仕する形で行われる。

ところが、sons wo:は、それをどこか拒否しているように見える。
例えば、動きが変だ。
しゃべり方が変だ。
それはあえて負荷や障害をを生じさせている。
滞りなく動かさない。
滞りなくしゃべらせない。

これは実はリアリティがある。
僕たちは普段、そんなに滞りなく動いたり、しゃべったりしているわけではないからだ。

昨年見た「シティⅡ」では、
何らかの理由で多くの必要だったものを失った人々の状態を表していた。
大切な物も人も街も・・・。
その状況に人々はどう対処するかということが表現されていたように思う。
イメージは「荒野」である。
西部劇風の音楽が似合っていた。

「シティⅢ」ではさらに時を経たその先を描いている。
人々は、多少物を持ち、食料を手に入れ、仕事さえしている。
ただし、手に入れたそれらはすべて危うい。
消費社会の中で、磨き上げられた高品質で見栄えもよくなおかつ安全安心な物ではない。
栄養価も高くおいしい食べ物でもないし、
やりがいがありなおかつ家族を養いまわりにも還元できるような仕事でもない。

男女二人組の旅芸人が出てくる。
旅をする中で、出会った人たちに自分たちの芸を見せることで、金を得る。
フーテンの寅さんが行商先で物を売るのと変わらないのでまっとうのように思うが、
やっている芸はまともには見えない。
それでも芸は観客を満足させ、成立する。

僕たちはひとつ価値観が変換されていたことを知る。
文明が失われる以前と。
また同じようにその後は進むのだろうか。





 

劇団からっかぜ 春の試演会~劇団員による書きおろし三作品一挙上演

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■劇団からっかぜ 春の試演会~劇団員による書きおろし三作品一挙上演
                                             フィールド 寺田景一


はままつ演劇・人形劇フェスティバルの劇作ワークショップでは、
毎回多くの短編戯曲が生まれる。
2010年に鹿目由紀さんを講師に迎えたワークショップを皮切りに
昨年2016年の平塚直隆さんの回まで7回に渡るので、
作品数としては、かなりの数になるだろう。
講師の方によるが、ワークショップを通して書き上げたそれぞれの作品が、
最終日に発表という形式で読み上げられる。
上演される、と言いたいところだが、配役を参加者たちに依頼し、
ほぼ初見で読み上げられた作品は、
やはり、「上演された」とは言い難い。

そして、書き上げられた作品から選抜された3~4本の戯曲は、
演技ワークショップの教材となる。
1日を通して芝居作りを学ぶという行程の中で、
その戯曲は、ワークショップの最後の発表で、披露される。
とはいえ、メインは演技ワークショップ参加者たちであるので、
参加者それぞれにセリフが与えられ一つの役が重複したり、
当然、衣装、小道具など上演に必要な処置が施されているわけではない。

最後に、フェスティバルのファイナルイベントにて、
有志の演出家・演技ワークショップの参加者により、
教材となった戯曲は上演される。
上演される、とは言ってみたが、
限られた稽古時間、制作のための予算がない中での上演となる。
劇作ワークショップで生まれた戯曲の役割は、
とりあえずはここで終わる。
そのあとの処遇は、個々に委ねられる。

自らの劇団の公演で、
短編作品集の一本として上演したという話を聞いたこともある。
ただし、ほとんどは、
それぞれのPCの中、もしく原稿用紙、プリントアウトの中に残されたまま、
中には削除、廃棄処分の場合もあるかもしれない。
戯曲の行く末を特別惜しむこともないが、
それぞれの戯曲は、書いた本人に帰結する。

そして、今回、先月3月5日の日曜日、
劇団からっかぜアトリエで
「春の試演会~劇団員による書きおろし三作品一挙上演」が14時開演で開かれた。
劇団からっかぜの劇団員である、
平井新さん、渡邉純子さん、高橋佑治さんが、
それぞれ劇作ワークショップに参加した折に書かれた戯曲を上演しようという試みである。
それぞれの作品は作者もしくは劇団員たちにより演出され、
劇団員たちがキャストにつく。
劇団の稽古場でもあり、上演場所でもあるアトリエで、
日々稽古が積み重ねられ、
役にふさわしい衣装をつけ、
小道具やセットが用意され、
音響効果や照明効果も施され、
集められた観客の前で上演される。

一旦本人に帰結した戯曲が、
再び、戯曲としての役割を果たした瞬間とも言える。
戯曲は文学作品として、書店や図書館にも並ぶが、
戯曲というものは、読むものではなく、上演されてこその戯曲だなあ、
とあらためて思った。(諸説あり)
ちなみに今回上演された作品は、
平井新作「あい棒」、
渡邉純子作「バッターボックス」、
高橋佑治作「あのとき、実は・・・」である。

                            了

(静岡県西部演劇連絡会会報 2017年4月2日号より)