静岡芸術劇場でNoizm「ラ・バヤデールー幻の国」を観た

カテゴリー │演劇いろいろ見た

24日(日)16時30分~

Noismとは、新潟市のりゅーとぴあと言う劇場を本拠とする舞踊団である。
今回の作品は、劇的舞踊vol3と銘打ち、
舞踊の要素と演劇の要素を組み合わせた公演となる。

「ラ・バヤデール」というバレエ作品を平田オリザさんが翻案し、脚本を書き、
Noizmの舞踊家の他、SPACの俳優3名も参加している。
この時点で圧倒的な肉体の違いが舞台上に共存することになる。

演出の金森穣さんも参加したアフタートークで語られた言葉を借りれば、
「発話する身体」を持つ俳優と「非言語の身体」を持つ舞踊家という
異なる身体が同じ物語を演じるのだ。

突然だが、リオオリンピックが8月5日に始まる。
同じ陸上競技場で短中長距離などのトラック競技、
跳躍や投擲などフィールド競技が行われる。
同じ陸上競技でも種目が違えば、重なることはない。
早く走るのが目標の競技と
遠くへ飛ばすのが目標の競技が同じ舞台に立つことはない。

そのように違うものが今回はひとつの舞台に立つ、というと言い過ぎだろうか。
それくらい、まったく違う身体なのだ。
俳優と舞踏家は。

舞踏家が俳優をやることはあるだろう。
例えばバレエダンサーである草刈民代さんが映画「Shall We Dance?」に出るとか。
でも、映画でバレエを踊るわけではなく、普通にセリフを発する。

チラシにNoism 劇的舞踊vol.3とある。
演劇と融合させる理由はなぜだろうか。
これもアフタートークで語られていたことだが、
作品の「社会性」ということを考えていて、
平田オリザさんに脚本を依頼したということだった。

演劇の持つ、俳優が言葉を発すると言う手段を必要としたのだ。
舞踊にとって、音楽はある意味セリフであると言う話があった。
ということはその音楽とともに、言葉としてのセリフが今回は加わる。
言葉は、物語を推進し、直接のメッセージを伝える。

そこで語られる言葉は強度のある言葉を必要としたのであろう。
そういう観点で、今回のSPACの俳優が選択されたと思う。

「ムラカミ」という病院に入院していると思われる老人の回想から
民族間の争いの中、引き離される男女の悲恋を描いているが、
「ムラカミ」という名は、
日本で一番有名な村上(上演前のロビー解説で言っていた)
村上春樹氏をイメージしているそうだが、観劇だけでそれをわかる人は
いるのだろうか、と思った。

だが、飼い猫をさがし井戸に降りていくことから、過去に回想を及ぼし、
太平洋戦争をイメージした戦争などを経た年代記を語る、
村上春樹氏の小説「ねじまき鳥クロニクル」の
手法へのオマージュもあったのかもしれない。
そして、物語によって、社会性を語るという心意気が
金森さんと平田さんに共通してあったのだろう。

そして、この美しい舞台が生まれた。





 

ライブハウスKIRCHHERRでSONS WO:「シティⅡ」を観た

カテゴリー │演劇

23日(土)19時~
ライブハウスであるKIRCHERRは、田町のKAGIYAビルの地下1階にある。

その日は浜松駅南にあるサッポロ街
(とはいえ、有名ビール会社の営業の一環で名付けられた看板上の名前だそうで、
札幌出身の人たちが、いろいろあって浜松にたどり着き・・・などというドラマはないようだ)
で17時に待ち合わせをし、次回の路上演劇祭の実行委員会。

その後、駅北に向かい、SONS WO:「シティⅡ」の観劇。
ライブハウスなので、1ドリンクつく。
エビスビールを注文する。
「あ、サッポロビールの銘柄だ・・・」
とその時は思わず、今書きながら、そう思った。

浜松出身のカゲヤマ気象台さんによるSONS WO:の公演は
2012年に有楽街で行われた路上演劇祭、
そして、万年橋で行われた単独公演を観た。

今回は、台本を用意しない所から始めたということだった。
そして、昨年11月に公演された「シティ」の続編ということだ。
僕は僕の公演と時期が重なり、観劇できなかった。

「ロッキー2」を「ロッキー」を観なくても問題なく観れるように、
前作の「シティ」を観ていないが、「シティⅡ」のみで語らせていただく。

北村想氏が書いた「寿歌」と言う作品がある。
核戦争後の瓦礫と化した町を舞台にしている。
遠くで、残ったミサイルを打ち上げているようだが、
人の気配はない。
そこに男女2人が現われ、のちに現れた男1人と出会い、別れる話である。
命をつないでいるのを示すように、干しイモを食す。
何もない中、何がしか人間が行動し、語るさまがこの芝居である。

「シティ」と似ているかも。

僕が観た「シティⅡ」は、海辺と思われる場所に途方に暮れた男2人と女1人がいる。
客席と舞台の境界に並べられた物たちは、瓦礫か、海から打ち上げられた廃棄物か。
食パンとカップ麺は、命をつなぐ物の存在の象徴か。
10年前に何事か町(シティ)を壊滅させる何事かが起こったようだ。
基本的に何もないところにたった3人の人間が放り出される。

そんなプリミティブな状況の中、
役者たちは用意された台本「言葉」も頼りにできない負荷を負っているように見える。
やっと絞り出されるセリフはなぜか英語。
言葉が頼りにならないなら、
役者はどう感情を発すればいいか、
どう身体を動かせばいいか腐心する。

とうぜん、役者はてんで自分勝手にやっているのではなく、
演出家の周到な計算が働いている。
その計算が、ここでは言語となる。
観客である僕はそれを読み取ろうとする。
言葉で発せられた台詞と同じように。

途中それまでDJブース的な場所で、音を入れていた作・演出家が
パンを持って舞台に躊躇なく入り、3人の役者たちに手渡す。
命をつなぐ食料としてのパンを。

「シティⅡ」は3部作で、2017年には「シティⅢ」を予定しているそうだ。
チラシに書かれた言葉によると、「未来」をテーマにしているようだ。
終演後、作・演出者のカゲヤマ気象台さんに聞いたが、
「シティ」は10年前を回想する話だったそうだ。

「寿歌」に続いて、「寿歌・Ⅱ」があるが、
こちらは、時代をさかのぼって、核戦争の少し前を舞台にしている。
つまり1作目の「寿歌」が最終章となる。

「シティⅢ」はどのように最終章を迎えるだろうか。





 

浜松市浜北文化センター大ホールで「ミュージカル 南太平洋」を観た

カテゴリー │演劇

16日(土)18時~
掛川で観た東京乾電池「ただの自転車屋」を観劇後、
はしご観劇。
ホールのキャパシティは1208席であるがほぼ満席に思えた。
女性多し。
休憩時のトイレの混雑を予測。
予測通り。
男性であることを喜ぶのは失礼な言い分か。

「南太平洋」は、ブロードウェイのスタンダードな演目で、初演は1949年4月7日ということだ。
何と、1,925ステージだって。

日本における第2次世界大戦の終戦記念日が1945年8月15日だから、
4年も経っていない。
もちろんアメリカにとっても同様終戦後4年も経っていない。

「南太平洋物語」という、アメリカ海軍に所属し南太平洋戦線にいたジェームズ・ミッチェナーが
書いた短編集から、ミュージカル台本をおこした。

話の本筋は恋愛ロマンである。
戦時下の南太平洋にある島が舞台である。
現地に住む人たちの思惑と関係なく、
アメリカ軍が駐屯している。
伴い、設営部隊や従軍看護婦たちもいる。
戦時下、許されぬ愛の成就がテーマとなる。
それは同時に戦争と言うものが生み出す
絶対的な悲劇が横たわっているのは言うまでもない。

そして闘っている相手は日本軍である。
それをにおわせる言葉はもちろん出てこない。
舞台の上ではアメリカ人や現地の人の役をやる日本の役者さんたちが
歌ったり踊ったり演じたりしている。
日本語で。

開演の10分前くらいに会場に入ったが、
いつもの浜北文化センターの備えつけの幕ではなく、
「South Pacific」と原題が書かれ、
ヤシの木がそびえるはるか頭上に
数機の戦闘機が飛んでいる
そんな絵が描かれた幕に差し変わっていた。

ああ、あの戦闘機は日本軍の戦闘機かな、などと思い、
すでに多くの観客で埋まっている会場で、自分の席を探した。

もっともそのことは僕の観劇に支障はない。
外国語で歌われた曲を積極的に聞くように
外国産の芝居を日本語で行う事にまったく違和感はない。

僕は目の前で繰り広げられる
歌に踊りに、ドラマに堪能する。

もちろん藤原紀香さんや別所哲也さんや太川陽介さんら
出演者に堪能する。
地域でで演劇をやっているとないがしろにされそうな時もあるが、
役者は、芝居のとても大きな要素である。

カーテンコールで多くが立ち上がった客席に向かい
感謝の意を伝える姿はさすが。





 

掛川市生涯学習センターホールで劇団東京乾電池「ただの自転車屋」を観た

カテゴリー │演劇

16日(土)13時30分~

作者である北村想氏の2010年10月のブログに
ただ、自転車が組み立てられていくだけの芝居を書いてみようと思う、
という内容の記事が書かれている。
ときどき、ぼそぼそ、ぽつりとせりふが入るだけ。
自転車が組み立てあがったら、おしまい。
タイトルは「ただの自転車屋」。・・・柄本さん、やらないかな。
と締められている。

僕は劇団東京乾電池の40周年記念公演のチラシを見かけ、
掛川市で公演があることを知り、作者が北村想氏であることも知り、
タイトルの「ただの自転車屋」を検索をかけてみたら、
この記事に行きあたった。
この公演に至る端緒を見つけた気がして、うれしかった。

以来、観劇するまで、この記事のような芝居ではないか、とどこかで思っていたが、
チラシに書かれた文章とか読むと、やはり違うのかもしれない、などとも思い、
まあ、どんな内容であるか、気にしながら開演を待った。

観劇後、結論から言うと
ただ、自転車が組み立てられていくだけの芝居ではなかった。

こちらがタイトル通りの、ただの自転車屋の話とすると、
実際に上演された芝居は、ただの自転車屋ではない、という話であった。
そして、ぼそぼそ、ぽつりではなく、せりふもたくさんあった。

柄本明さん演じる自転車屋は綾田俊樹さん演じる映画監督、ベンガルさん演じる脚本家、山地健仁さん演じる俳優が
いる鹿児島県の離島の旅館の部屋のエアコンが壊れたのを直しに来ている。

暑くてたまらない。
自称自転車屋が直そうとするエアコンは直らない。
なぜかいる俳優はひとりだけスーツを着込み、暑がらない。
それが実はミソなのだが、相当後半になってそのわけに気が付く。
そんな仕組みのミステリー仕立て。

でも観客の僕はその仕組みに相当後半にくるまで気が付かなかった。
その相当後半に至るまでが、
創設メンバーである有名人柄本明さん・綾田俊樹さん・ベンガルさんの
40周年ならではの時間である。

演技の出し入れと言うか、
間合いと言うか、
ずれ具合と言うか
たたずまいというか、
抜き加減と言うか、
つまり、40周年の歴史である。
これは、残酷ではあるが、
40年に満たない役者は参加できない。

「そういった時間」に思えた。

東京・下北沢にある本多劇場でも上演されたが
その観客と今回の地方公演である掛川の観客は
全く違うと思う。

下北沢を常連客とすると掛川は一見客。
下北沢を40周年と言うことが意味合いを持つとすると
掛川はそのことにそんなに意味がない。
はじめてみる東京乾電池!
ということで観に来る客がほとんどだろう。

「そういった時間」を共有する観客としてのワザも必要かなと
ちょっと思った。

相当後半、予告されていた台風がやぅてきて雨が強まると、
話は突然展開する。
いい意味で予定調和的展開を楽しみ、呑気に構えていた観客は
いきなり突き放されるのだ。

これはもしかしたら外部者北村想氏の40周年への挑戦なのかもしれない。
と思った。
もちろん、愛あふれる挑戦である。





 

静岡文化芸術大学 総合演習室で劇部コーヒーメーカー&劇団TIPS夏季合同公演を観た

カテゴリー │演劇

14日(木)18時30分~
1本目は静岡大学浜松キャンパスの大学生による劇団TIPS「Bank Bang(!)Lesson バンク・バン・レッスン」。
バンク・バン・レッスンは、劇団ショーマの高橋いさを氏作の1984年に上演された作品である。

とある銀行で行われる銀行強盗を想定した防犯訓練をひたすらごっこ化することがこの物語の骨子である。
これのみで成立するというシンプルさが、書かれて30年以上たつ今も、
全国のどこかで上演され続けている要因ではないか。

本物の銀行強盗から始まると、強盗した犯人の事情が入り込み、そこから完全に自由にはなれない。
その点、ごっこ遊びであれば展開はどこまでも自由になれる。
だって、何をやっても、何があっても「ごっこ」なのだから。
その自由さを裏付けに、登場人物を演じる役者たちも羽を伸ばして、話の展開に身を任せることができる。

その勢いを借りて、例えば「好き」とか、普段は言えない本音が言えるようになるのも、「ごっこ」の効用である。
拳銃を手にした銀行強盗が現われるという究極な状況が、より活かされる。
ただし、どんな状況に陥っても、「ごっこ」なのだから、本当に危機に陥るわけではない。
私たち観客はそんな安心感の中、「ごっこ」であることを知りながら発展してく展開を楽しむ。
巻き起こった悲劇もすべてが肯定的に転嫁され、ごっこ遊び(つまり防犯訓練)が終わることで、
この芝居は幕を閉じる。

演じた大学生たちの演劇経験は短いように思えた。
ただし、演劇ならではのごっこ心にあふれた演目は、
稽古の過程も含め、とてもふさわしいように思えた。
純粋に演じる様は、観客にも届いたようだ。

2本目は静岡文化芸術大学の大学生による劇部 コーヒーメーカー「イきたがり」。
こちらは、オリジナル作品。
朝、布団から出ようとしないボクの元に
4人の「イきたがり」が現われて、ボクをどうにかしようとする。

物語とは、簡単に言えば、主人公が何かをする話なので、
朝になっても布団から出ようとしないし、何もしたくない、という主人公が設定されると、
これはまわりがどうにかしないと、話は始まらない。

そこに、主人公をどうにか行動させようとするのが、
順番に現れる4人の「イきたがり」。
読み方同じで、字と意味が違う、というのが登場してくる者たちの特徴。
それぞれの意味の違いが、セリフや動きに表れ、主人公に影響をもたらす。

4人の「イきたがり」とは「行きたがり」「逝きたがり」「生きたがり」「息たがり」である。
それぞれの意味はそれぞれ作者のメッセージであろう。
「行く」のか「逝く」のか「生きる」のか「息する」のか。

若く、これからの選択肢が広がっている時期に
このような問いかけをすることは意味のあることだと思う。
その思いは舞台上だけでなく、
観客席にも共有を求める。
演じる役者たちはひんぱんに観客たちに呼び掛ける。

「あなたは何を選びますか?」





 

静岡文化芸術大学西ギャラリーでSUAC演劇実験室演劇企画「銀河鉄道の夜への旅」を観た

カテゴリー │演劇

11日(月)18時30分~
「銀河鉄道の夜」は岩手県生まれの宮沢賢治の作品である。
今回演劇作品として上演された「銀河鉄道の夜への旅」は
静岡文化芸術大学(SUAC)の学生たちにより演じられた。

企画及び演出者は宮沢賢治と同じ岩手県生まれである。
なぜ知っているかと言うと、
昨年5月に行われた路上演劇祭JAPAN in 浜松で
「はとまとまとつ」というグループで一緒に芝居を作った時に聞いたからだ。

僕以外は若者6名が参加してくれたが、
一応その時みんなが居た場所、「浜松」をテーマにしていたので、
みんなの生まれた場所を聞き、芝居に少し取り入れた。

日本列島を北から南に向け、順に辿ると

北海道新篠津村
岩手県西和賀町
静岡県島田市
静岡県磐田市
静岡県浜松市
愛知県大府市
京都府綾部市

僕だけ浜松市生まれ。
今回の演出者の生まれは岩手県西和賀町。
ネットでわかったのだが、
「銀河鉄道の夜への旅」の脚本を書いた川村光夫氏は
同じく岩手県西和賀町に住み、地域で演劇活動をおこなっていたようである。
戯曲集を出版されていたようだが、多くの人が知る劇作家ではないだろう。
2012年の記事であるが、
「宮沢賢治の劇世界」という本を書き、当時90歳だそうだ。

岩手県西和賀町生まれの彼だからこそ選んだ戯曲であることは
間違いない。
岩手県生まれの作家の原作を元に岩手県生まれの劇作家による戯曲を
岩手県生まれの演出家により
浜松の大学で出会った人たちにより、演じられる。

役者たちはみな衣装は同じような上下黒を基本にしている。
それは匿名性を担保する。
役を表すワンポイントで、差別化されるが、(例えば、車掌なら、そのような帽子を被ること)
同じ衣装であるということに意味があると思った。
それは、私たちはひとりひとり違うけど、同じであるということ。
大雑把に言うが、これは「宮沢賢治の世界」も表している。

普段はガラス張りのギャラリーの壁の幕が閉じられ、
そこに、照明があてられた役者の影が映し出されるのも印象的だった。





 

木下惠介記念館アートホールで迷子の遊園地「心地よく、冷たくて‐ツナガレシモノ‐」を観た

カテゴリー │演劇

3日(日)13時~
「迷子の遊園地」は、来年旗揚げ20周年を迎えるのだそうだ。
今回の作品は10年前に上演された作品の再演である。
僕も当時観た。
加筆されているということだが、ずいぶん変わった印象がある。

主人公のマヒルが、ハミングで「翼をください」を何度かつぶやくが、
そこで、10年前の記憶がよみがえった。
と言っても、10年前の記憶。
まるで初めて観るかのように、今回の作品を観る。

昔観たことのある映画を、再度観る時も、まるで初めて観るかのように観る。
小説もそうだ。
まるで初めて読んだかのように読む。
そのように記憶はあてにならないものでもある。
でも、初めてのように観れるのだから、忘れると言うことも悪くはないのかもしれない。

とてもわかりやすい芝居に思えた。
これはほめ言葉である。
登場人物たちの感情がよくわかる気がした。

衣裳も真っ白と真っ黒の2つに分かれる。
白はこれまた真っ白なベッドから動こうとしない主人公で、
黒はその他の人たちである。
白は常に板付きの固定で、
その他の人たちは片側から出入りする。
片側はきっと部屋にあるひとつの扉である。
そこから、部屋にいる主人公に影響を与える
いろいろな人たちが、現われては去っていく。
「映画を観に行こう」と誘う女性がいるが、
彼女も、今、どこでどんな映画をやっているかなど知りもしなかったりする。

役者たちが演技するスペースと客席は同じ高さである。
からっぽの部屋の真ん中付近に演技スペースがあり、両端に幕が張ってあり、
幕の上に舞台スペースを照らす照明が数個ずつ設置されている。
舞台スペースをはさんで、両側に客席がある。
片側は1列の桟敷席と1列の椅子席。
もう片側は2列の椅子席。

言葉で説明するとこんな感じ。
観客として座っている心に少し動揺が走る。
つまり、演技を観ているとその向こうに
自分と同じように、演技を観ている観客がいるのだ。
僕も向こう側の観客を観ている。
ということは向こう側の観客も僕を観ている・・・かもしれない。
まあ、観てはいないだろう。
だって芝居を観に来たのだから。
向こう側の観客が観えてしまうが、
できるだけ観ようとしないだろう。
それが大人の作法である。

でも、芝居を観ながら気が付く。
この観ようとすれば観える向こう側の観客の存在も含めて、
この芝居を観ることなのだと。
それは演出者の意図に思えた。
感情の移ろいを見せるこの芝居にふさわしい舞台構成として。

登場人物の感情の動きに乗じ、
観客の感情も何かしら動く。
その動きはそれは人それぞれであろうが。
向こう側の観客たちとどこか共犯関係が結ばれる。

観客だからと安心してはいられない。
うかつに居眠りなどできない、とも言える。
でも、そんな安心しきって座っていられない観客席も悪くはない。





 

Pops倶楽部で「ソシテ、マタ、ナツガキタ」を聴いた

カテゴリー │音楽

2日(土)18時30分~
Pops倶楽部は新川モール沿いのビル6Fにある。
ライブハウスである。
今回は、いくつかのミュージシャンが出演するイベント。
案内をもらった時、 たぶん音楽性が違うであろう出演者たちの構成に戸惑った。
知る限りのライブハウスはそれぞれ色があり、
単独でなく、何組かが出演する場合、
ある程度同じような色合の組み合わせが多い。

大雑把に言うが 例えば、
フォーク系統が並んだり、
ハードロック系統が並んだり
パンク系統が並んだり、
アイドル系統が並んだり。
そして、客層も趣味が似通った人たちが集まる。
しかし、今回はチラシを見て、思ったこと。
「ジャンルが違う」

このことは行くまでは心配な面が大きかった。
そして当日。
やはり心配なまま、会場に向かった。
「土曜日の夜」である。
トム・ウェイツの曲に同名の曲がある。
「Saturday Night」である。
ベイ・シティ・ローラーズの曲に同名の曲がある。

ライブハウスは基本ドリンクを飲みながらライブを聴ける。
1ドリンク付きなので、入場の際に渡されたドリンク券を 好みのドリンクと交換できる。
それをカウンターの向こうで担当しているのがオーナーと思われるが
今回はオーナーらしき人も出演者のひとりである。

今回の出演は5組。
いや、今回の特徴はバンド形式の組もあったが、
基本 ソロで活動している人たちが集まったということ。
5組と言うより、5人と言うのがふさわしいかもしれない。
もうひとつの特徴は オリジナル曲を中心にした構成であること。

「ジャンルが違う」と思っていたのが ひとつにつながった。
僕は、聴きながら、
5人それぞれのひとり芝居を観ているような錯覚を覚えた。
作・演出・出演兼任の。
しかも演奏までして。

ビールのお代わりをしようと思ったが
出演はもちろんPAも担当するオーナーらしき人が 忙しそうだったので、
少しきっかけを逸した。
もちろんこれは嫌なことではない。
時間をおいて、ビールを受け取り、
ビールを飲むにはふさわしくないかもしれないが、
ちびちび飲む。

ライブは続き、
終わったら、
開始より4時間以上過ぎていた。