木下惠介記念館アートホールで迷子の遊園地「心地よく、冷たくて‐ツナガレシモノ‐」を観た

カテゴリー │演劇

3日(日)13時~
「迷子の遊園地」は、来年旗揚げ20周年を迎えるのだそうだ。
今回の作品は10年前に上演された作品の再演である。
僕も当時観た。
加筆されているということだが、ずいぶん変わった印象がある。

主人公のマヒルが、ハミングで「翼をください」を何度かつぶやくが、
そこで、10年前の記憶がよみがえった。
と言っても、10年前の記憶。
まるで初めて観るかのように、今回の作品を観る。

昔観たことのある映画を、再度観る時も、まるで初めて観るかのように観る。
小説もそうだ。
まるで初めて読んだかのように読む。
そのように記憶はあてにならないものでもある。
でも、初めてのように観れるのだから、忘れると言うことも悪くはないのかもしれない。

とてもわかりやすい芝居に思えた。
これはほめ言葉である。
登場人物たちの感情がよくわかる気がした。

衣裳も真っ白と真っ黒の2つに分かれる。
白はこれまた真っ白なベッドから動こうとしない主人公で、
黒はその他の人たちである。
白は常に板付きの固定で、
その他の人たちは片側から出入りする。
片側はきっと部屋にあるひとつの扉である。
そこから、部屋にいる主人公に影響を与える
いろいろな人たちが、現われては去っていく。
「映画を観に行こう」と誘う女性がいるが、
彼女も、今、どこでどんな映画をやっているかなど知りもしなかったりする。

役者たちが演技するスペースと客席は同じ高さである。
からっぽの部屋の真ん中付近に演技スペースがあり、両端に幕が張ってあり、
幕の上に舞台スペースを照らす照明が数個ずつ設置されている。
舞台スペースをはさんで、両側に客席がある。
片側は1列の桟敷席と1列の椅子席。
もう片側は2列の椅子席。

言葉で説明するとこんな感じ。
観客として座っている心に少し動揺が走る。
つまり、演技を観ているとその向こうに
自分と同じように、演技を観ている観客がいるのだ。
僕も向こう側の観客を観ている。
ということは向こう側の観客も僕を観ている・・・かもしれない。
まあ、観てはいないだろう。
だって芝居を観に来たのだから。
向こう側の観客が観えてしまうが、
できるだけ観ようとしないだろう。
それが大人の作法である。

でも、芝居を観ながら気が付く。
この観ようとすれば観える向こう側の観客の存在も含めて、
この芝居を観ることなのだと。
それは演出者の意図に思えた。
感情の移ろいを見せるこの芝居にふさわしい舞台構成として。

登場人物の感情の動きに乗じ、
観客の感情も何かしら動く。
その動きはそれは人それぞれであろうが。
向こう側の観客たちとどこか共犯関係が結ばれる。

観客だからと安心してはいられない。
うかつに居眠りなどできない、とも言える。
でも、そんな安心しきって座っていられない観客席も悪くはない。

木下惠介記念館アートホールで迷子の遊園地「心地よく、冷たくて‐ツナガレシモノ‐」を観た


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