劇団からっかぜアトリエでルービロ・ポッサ「トランス」を観た

カテゴリー │演劇

28日(土)19時~
先日亡くなった蜷川幸雄さんが、追悼番組中、過去のインタビューで語っていた。
「脚本のセリフは一字一句変えない」
これは脚本家を尊重するとともに、
簡単に変えてしまうのは自分たちの怠慢であるかのように言っていた。
それはそれで、とても蜷川さんらしい。

鴻上尚史作の「トランス」はそれが当てはまらないかもしれない。
「トランス」だけでなく、鴻上さんはむしろちょっと変えてもらうのを楽しみにしている。
鴻上さんは出版されている戯曲の前書きやあとがきで思いを少し伝える。
親切なのは、例えば高校生が演じる場合、高校演劇の大会に出場するのに
1時間に収めると言う規定があるのだが、
そのことを気使いし、1時間に収める手段を伝授してくれたりする。

「トランス」などは、いろいろなところで演じられるのを願い、書いたと言う。
登場人物である役者3人で、稽古を始められることを想定して書いたという。
そして、1993年に書かれた脚本が2016年に浜松で演じられる。

登場人物3人の関係は高校の同級生である。
会わないまま日は過ぎ、互いに仕事に就いている。
精神科医になった女の元を作家となった男が患者として訪れる。
作家の男が訪れたぼったくりバーにはおかまになった男がいた。
おかまになった男が訪れていた作家の男の家に、
精神科医の女が通院を促しに訪れ、3人は再会する。

浜松での上演は
それぞれで活動している人たちが公演のために集まった
ルービロ・ポッサという演劇ユニットにより行われた。
鴻上さんはこうも期待している。
本来の年齢設定は30歳前後だが、
高校生や大学生の上演はもちろんOKだし、
(中学生は真実を知るのは早すぎると言っている)
中年の人や70歳同士の上演で演じられるのを見てみたい。
むしろいろんな顔が表れてくるはずだ、と言っている。

公演のパンフレットに、
20年前に役者のみで作りかけたが、
断念したエピソードが触れられていた。

ずっと「やり残し」感のあった作品の
20年を経ての上演は
その時の延長と言うわけではない。
メンバーもたぶん異なる。
同級生と言う役にふさわしくなく、
それぞれの年齢も違う。
ただし、鴻上さんが言うように
それは全く問題ではない。

役者たちは
セリフを一言一句変えない、
ということなどせず、
むしろ喜んで、セリフを変えていた。
これも鴻上さんの教えを尊重した
正しい上演方法である。

メインテーマの使用曲がザ・ブルーハーツの「夕暮れ」であることを
これまた丁寧に鴻上さんは教えてくれているが
今回はまったく違う曲だった。





 

机上演劇祭2016が終わった

カテゴリー │路上演劇祭

5月15日(日)14時から鴨江アートセンター101~103
朝9時から準備のため会場に入る。

長机や椅子などは備え付けでなく、自分たちで保管場所から運ぶ。
朝一番で人が揃ってなく、長机10台を3階からほぼ2人で運び、いきなり大変。

そして僕は映像を流すプロジェクターの準備。
ただし準備のメインは展示物の設営。
担当は3人なので、他の実行委員は13時頃の集合。

早めに来る人もいて、白壁に映し出される映像を見たりしながら、まったりと準備の時間を過ごす。
14時になり、机上演劇祭開始。
誰が参加するのか不明のため、進行スケジュールはざっくりとしか決めていない。
ほとんどが状況に合わせて、
トーク、映像、またトーク、また映像。
そして上演。
FOX WORKSのひとり芝居。

今までの参加者が来てくれた。
これから参加したい人も来てくれた。
今まで観てくれたお客さんも。
地元のタウン誌の記者も。
コミュニティ新聞を発行している人も。
地元で演劇活動をしている人も。
東京で演劇活動をしている人も。

そのような人たちが集まって、
しゃべったりして、
予定の17時をいくぶん越えて、終了。
18時完全撤収なので、
速やかに片付け。

「今までの路上演劇祭を振り返り、次回につなげる」
と言う目的で企画した今回の机上演劇祭。

予定通り、次回に続くつもり。





 

「路上と演劇」ツアーに参加した

カテゴリー │路上演劇祭

14日(土)14時に浜松駅南口噴水前に集合。
浜松街中で行われた路上演劇祭の開催場所を
歩いてめぐる。
2001年、2009年に路上演劇祭が開かれたサザンクロスへ。
西へ抜けた先のサッポロ街と看板があるアーケードへ向かう。

そして、2015年の浜松駅北口百貨店前
2010年の旧松菱前、2011年のモール街、
2014年のザザシティ、2012年の有楽街を回る。

喫茶店beniでお茶。
BGMは不動のカーペンターズベスト。
普段はあまり頼まないコーヒーフロート。
他の人が頼んだのを聞き、
アイスクリームが乗っているのが頭に浮かび
すかさず頼む。
まるで自分の意志で頼んだかのように。
実際は影響されたのだが。

2013年の新川モール、雨天のため幻に終わった2009年の予定していたアクアモールへ。
そして、17時までの予定をオーバーして18時近くに終了。
参加者は大人14人、子供1人の計15人。
遠方から近場から。
演劇やってない人やってる人。
社会人も学生も。
最初から参加した人から
遅れて合流した人から
途中ではぐれた人から。

それぞれの場所で、気になるところに立ち止まり、見る。
うろつく。
そして町の人に声をかける。
こんな感じで。



まるで僕たちは野良犬か野良猫か。



 

14日は「路上と演劇」ツアー、15日は机上演劇祭2016へぜひ!!

カテゴリー │路上演劇祭

以前ご案内しましたが、
明日14日は「路上と演劇」ツアー
15日は机上演劇祭2016が浜松市内で行われます。
どちらも参加費無料です。
ぜひご参加ください。

詳細は以下。

◎「路上と演劇」ツアー
5月14日(土)14時~17時
浜松街中で開かれた今までの路上演劇祭の開催場所を歩いてめぐります。
事前申し込みはいりません。集合場所にお越しください。
演劇的なるものを見つけに。カメラ持参。
ツアーコンダクター 里見のぞみ 
浜松駅南口 噴水前 14時集合 

◎机上演劇祭2016
5月15日(日)14時~17時
展示、映像、座談会などで今までの路上演劇祭をふりかえり次へつなげていきます。
パフォーマンスもあります。
事前申し込みはいりません。直接会場にお越しください。
開催場所 鴨江アートセンター101~103号室(浜松市中区鴨江町1番地) 





 

舞台芸術公園野外劇場「有度」でオリヴィエ・ピィのグリム童話「少女と悪魔と風車小屋」を観た

カテゴリー │演劇

5月7日(日)18時30分~
静岡芸術劇場での「火傷するほど独り」を観た後、
予約していなかったが、思い立って観に行った。

親子でみよう!演劇祭、とあり、
小学生以下のこどもといっしょだと間近で見られる
「おやこ席」が用意されている。

そのことは後ほどチラシを見て知ったが、
会場に入った時は、やけに子供が多いな、といつもと違う様子に
意識が高い親が多いんだな、と思った。
まあ、この「おやこ席」が大きな理由だろうが、
これは運営側のひとつの試みとして興味深い。
裏を返せば、上演中に泣いてぐずる、ということも考えられる。

フランス人の役者たちによるフランス語での上演である。
字幕はあるが、漢字まじりで、ふりがなはない。
僕は演じる俳優の姿も追ったが、
話のすじにおいて行かれないように、映し出される字幕も懸命に追った。

だが、言葉はほとんどわからなく、
難しい漢字も多い字幕も追っているはずがない
子供たちは、オトナ以上に反応していた。
笑い、叫んでいた。
たまには静かになり、暗くなると怖がった。

それは、役者の演技が主な要因だ。
言葉以上に、「わかる」演技をする。
とうぜん、そういう演出をしている。

小道具の使い方や場面転換の仕方も
「わかる」使い方だ。
そこに歌が入り、演奏が入る。
それらも実によく「わかる」。

むしろ観ていて、話の筋などまあいいか、
という気分にさえさせられる。

エンディングの演奏でスティックを見事に放り投げながら
まるで舞うようにトライアングルと太鼓を鳴らしていた女優が
最後の立ち位置を間違え、他の役者の指摘で無事終了し、
また、カーテンコールで入場の際、セットのバーにぶつかって倒れそうになっても
観客は完全に許容してしまうあたたかさで、
拍手を送っていた。

女優の心の内をさぐると
異国の地日本での公演初日の
よき高揚感の故であったと思う。





 

静岡芸術劇場でワジディ・ムアワッド作・演出・出演「火傷するほど独り」を観た

カテゴリー │演劇

5月7日(土)15時~
ひとり芝居である。
上演時間は120分である。
作・演出・出演はレバノンで生まれ、子供の頃、フランスへ家族とともに亡命、その後カナダ・ケベック州に移住し、演劇活動を行っているワジディ・ムアワッド。

スタッフに名が連なる役割は以下である。
ドラマトゥルク博士論文内容執筆、アーティスティックアドバイザー、演出助手、舞台美術、照明デザイン、衣裳、音響デザイン、音楽、映像、アーティスティックアシスタント、舞台監督、音響操作、照明操作、映像操作、プロデューサーおよびツアーマネージャー。
ひとり芝居とは言え、このようなメンバーとともに1本の演劇は作られている。

ワジディ演じるカルワンは演劇家ロベール・ルパージュについての論文を書いている。
書き進めようとしているが、なかなか書けない。
他者とのやりとりはひとり住む部屋での電話で行われる。
論文の提出をせかされるし、戦争体験者である父との関係もうまくいかない。

カルワンには葛藤にさいなまれている。
社会の中に組み込まれない自分に対し、
長きにわたり放蕩する者と断じ、
自らを認めない。

いかに満足して生きるか。
人は自分を満足させることが苦手だ。
カルワンも世界中の多くの人と同様、
自分に満足できないでいる。

その葛藤は、上手くいけば、何だそんなことで悩んでいたのか、
とやり過ごすことができるが、ここではそうは行かない。
絶望的な状況に陥る。

カルワンはそのことを自ら知ってしまう。
本来は本人が知りえるかどうかもわからないこと。
その心の内が観客の眼前にさらされる。

その手法はいわゆる「演劇」と思われているものではないかもしれない。
ただし僕は演劇的に思えた。
その結末は、チラシに掲載されている舞台写真に現れている。





 

3日、駿府城公園へシンポジウム「演劇の力ってなんだろう?」を聞きに行った

カテゴリー │演劇

ふじのくに⇔せかい演劇祭の一環で
「まちは劇場」プロジェクト ストレンジシードが駿府城公園他で行われている。

演劇?ダンス?パントマイム?サーカス?
今までの常識や領域を超えた気鋭のアーティストたちが静岡のまちに
新しい風を吹かせます。 ~これはチラシの言葉。

3日、数本観た。
時間とタイミングが合った作品のみであるが。

そのあと、16時から行われるシンポジウム「演劇の力っててなんだろう?」を
駿府城公園内フェスティバルgardenに行く。
司会は中井美穂さん、
パネリストは平田オリザさん、オン・ケンセンさん、宮城聰さん。

「がつんと来た観劇体験を」と中井さんが問いかけた。
さすがメジャーな司会者である中井さん。
なかなか聞きにくいけどみんなが聞きたいことを聞く。
ちなみに中井さんは読売新聞の演劇大賞の審査員も務めていたりする。

宮城さんは小中一貫校に在学時に
中学生の時、高校生の先輩が上演した
別役実作「門」を観た経験をあげていた。
その際、身体的コンプレックスが逆転し、
君はそこにいていいんだよ、と世界から許容されている気がしたそうである。
それは言い方を変えれば、自分を疎外した世界への復讐である、とも。

平田さんは小6で観たつかこうへい作「熱海殺人事件」をあげていた。
演劇ってこんなに自由なんだ、と思ったそうである。
17か18歳の時、野田秀樹さんの作品を観たのが、
実際に演劇を始めるきっかけになったということ。
16歳で自転車で世界を回り、ルポをまとめた本を出していた
平田さんは人のことを気にしてしまうルポの仕事より
演劇は全部自分であり、自らに合っていると思ったそうである。

オンさんは子供の頃、寺院で行っていた中国歌劇を観た経験をあげていた。
大人も子供も夢中になって観ていた。
日本では、太田省吾さんの作品や大野一雄さんの舞踊が印象に残っているそうである。

自分ががつんと来た演劇ってなんだろう?
そんなことも考えた。





 

静岡芸術劇場でオン・ケンセン演出「三代目、りちゃあど」を観た

カテゴリー │演劇

4月29日(祝)16時30分~

この日はふじのくに⇔せかい演劇祭の開幕日である。
開幕式が行われ、上演される「三代目、りちゃあど」のプレトークが行われ、
そして、上演となる。

台本は野田秀樹作で、1990年に夢の遊眠社にて上演されたものである。
演出はシンガポール人のオン・ケンセン。
歌舞伎役者、狂言役者、小劇場系俳優、宝塚出身者、SPACの俳優、
バリの影絵芝居俳優、インドネシアやシンガポールの俳優が出演。
役者はそれぞれの母国語を喋るので日本語、英語、インドネシア語がまじりあう。
そこにあえて、現代的な電子音楽と映像をこれでもかとかぶせる。

演劇的出自がそれぞれ違う人たちを集めたのは
もちろん今回の上演の目的だろう。
違う人たちがひとつの戯曲を演じるために同じ舞台に立つ。
それは演劇が実現できる魅力であろう。

スポーツならどうだろう。
野球選手、陸上選手、水泳選手、バスケットボール選手、体操選手、フィギュアスケート選手、
卓球選手、スキー選手、馬術選手、アーチェリー選手、柔道選手・・・。
それら異なるスポーツの選手たちを集めて、何かひとつの競技をするとする。
そんなこと成り立つだろうか・・・。

演劇は、意外とできる。
そんな試みだったと思う。
しかしながら、違うものたちを混ぜ合わせることが演劇の表現ではない。
それもまたあくまでも手段であって、
その先、観客に与え得るものが表現であると思う。

個人的には、英語のセリフが理解できない僕は
前の方の席で、字幕がよく見えず、途中字幕を追うのをやめた。
目の前で演技している俳優たちから目を離すわけにはいかない気持ちになったのだ。

語られていた内容に関しては、出版されている戯曲を読んで、目にしてきたことについて考えている。
野田秀樹の戯曲の原案はもちろんシェイクスピアの「リチャード三世」。
これも読まないといけないかなあ。

そうか。
やはり言葉の問題か。





 

舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」でティム・ワッツ「It’s Dark Outside おうちへかえろう」

カテゴリー │演劇

29日(祝)13:30~ 舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」

開演前、ブルース・スプリングスティーンの「ダンシング・イン・ザ・ダーク」が流れていた。
舞台の手前にはこれからパフォーマンスをするであろうの外国人の男性2年が
観客たちを迎えるように立っていた。

人のよさそうな外国人のお兄さんの1人は、音楽に合わせ、
ゆらゆら体を動かしている。
まるで踊っているようだ。
観客たちはそれを気にするわけではない。
自由席であるため、整理番号順に好みの席を確保し、
あくまでも開演前のそれぞれの時間を過ごしている。

僕は「ああ、ブルース・スプリングスティーンだなあ。オーストラリア人のおそらく若いこの人も聴くんだなあ。
まあ、英語圏だから、自然のことだよなあ。日本語圏の日本人である僕も聴くんだからなあ」
と、どうでもいいことを思う。

ブルース・スプリングスティーンは、アップテンポで、活動的な曲でファンを増やしたが、
内省的な曲も多い。
ダンシング・イン・ザ・ダークも直訳すれば、暗闇で踊る、である。

「It’s Dark Outside おうちへかえろう」は
出演者の実体験を元にしている。
というのは出演者のご身内が、アルツハイマー型痴ほう症を患われたということだ。

この経験は多くの人に有り得る。
多くの人に有り得ることをおそらく若いオーストラリア人たちは題材にして
痴ほう症を患われて、記憶を失っていくひとりの老人(男性)の姿を映し出す。

失っていく記憶は綿という目に見えるもので表現される。
綿はちぎれたり、形を変えたりする。
言葉がない代わりに、言葉以外のいろいろな要素を介す。
映像だったり、影絵だったり、パペットだったり。
音楽を筆頭に、劇世界に影響を与えるのは
「西部劇」的世界である。

記憶を失いつつある男は、
「WANTED」と貼り紙されるお尋ね者となり、
たったひとりで、西部劇的な荒野に向かって、馬ならぬテントに乗り、
旅立つことになる。
言葉を換えれば、徘徊という呼び名の旅である。

追うものと追われるもの。
ただ、これは異なるものに見えて同一であり、
とても納得できる形で
旅は終結を迎える。

これは少し残酷であるが、
「人生は決まっている」ともいえる。
でも、暗闇で踊り続けるように、
決まっているから、生き続ける、
とも言えるのである。