クリエート浜松でFOX WORKS「フォトンの雨が降る前に~万能探偵R ~」を観た

カテゴリー │演劇

12月15日(日)17時~

チラシを見ると、
如何にも本格的なミステリーを期待してしまう。
もっとも僕がパッと頭に浮かぶのは、
名探偵コナンなのだが。

探偵もの、刑事もの、警察ものは古今東西さまざまな表現者が
映画、ドラマ、小説、漫画などで取り組んでいる。
勧善懲悪の構造、難事件を解決するという物語的爽快感、
などが人気の理由であろうか。
医療ものも
苦戦しているテレビドラマ業界で視聴率を上げているが、
こちらも、医療関係者が病や怪我を治して解決するという行為が、
手に汗握り、爽快感を感じるのだろう。

演劇では、つかこうへいさんの「熱海殺人事件」は
刑事ものと言えるが、
事件の解決に向けての展開はしない。
先ず、勧善懲悪ではない。
犯人と確定していないにも関わらず、
求める犯人像を押し付け、犯人としてでっち上げようとする。
事件解決の代わりに、
でっち上げのやりとりが話の骨子になる。
こうなると、
いいもん、わるもんの区別はどうでも良くなる。
むしろ両者は同化して行く。
そして、その過程は爽快としか言いようのないものなのである。
だから、熱狂的な人気を得た。

「フォトンの雨が降る前に〜万能探偵R」も、
当たり前の探偵ものの展開をしない。
つまり名探偵コナンのような展開ではない。
かと言って
つかさんの芝居のような逆説的な爽快感とも違う。
事件が起こり、解決しなければならない、という問題が提起されるが、
如何にも前には進まない。

解決すべき人たちが所属する事務所から
場所は移動しない。
特殊能力を持つ4名の女性の間のやりとりが続く。
主人公であるはずの万能探偵Rが
早めの時間に舞台に登場するが
奥に何やら意味ありげに座っているきりである。

劇中、プロジェクターが駆使され、
ダンス、クイズ、休憩、ぼやきなどが唐突に挟み込まれる。
このあたりの手法は
前日観たブレヒトが提唱した《異化効果》の手法である。
物語を意図的に分断する。

また、この進み方の手法は何かに似ていると思った。
サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」である。
田舎の一本道を舞台に、
ウラディミールとエストラゴンと言う浮浪者が、
延々とゴドーと言う人物を待ち続ける話だ。
その待ち方と似ている。
待てども待てども、ゴドーは現れない。
提示された目的は達せられず、
待ち続けるふたりのやりとりが表出されるのみである。

とは言え、現在では不条理劇の名作と言われ、
今でも世界中のどこかで演じられているが、
「ゴドーを待ちながら」に影響された作品は
同作の上演数以上に多い。

日本でも別役実さんは元より、
第三舞台の旗揚げ公演、
鴻上尚史さん作「朝日のような夕日をつれて」も
ゴドーをベースに書かれている。
それからもずいぶんと年月が経つ。
異化効果がなじんでくるように
不条理劇もなじんでくるのである。

結末は哲学的な収束の仕方を見せるが、
それは作者が当初から想定していたものだったのだろうか。
チラシを見た時の予測との差異に戸惑う。
“万能探偵”というタイトルはとても魅力的だが、
そこに縛られてしまったということはないだろうか。

話を書く前にタイトルをつけると
道標となる場合もあるが、
それがネックになってしまう場合もある。
抽象的なタイトルなら寄せやすいが、
絶対的な意味を持つ言葉だと・・・。

やろうとしていたことは
本当はシンプルなのだと思う。
それは4人の女性の関係性なのだと思う。
関係性を描こうとしたこと。
そこが出発点であったはずだ。
事件解決の要素は
そう重要でなかったような気がする。








 

今日と明日は、はままつ演劇フェスティバル2019「高校演劇選抜公演」へ行こう。

カテゴリー │演劇

第65回 浜松市芸術祭  はままつ演劇フェスティバル2019

静岡県西部高等学校演劇協議会
《高校演劇選抜公演》 

12月21日(土)16:00~/22日(日)13:00~

場所:浜松市勤労会館Uホール
料金:入場無料
開場:開演15分前

◎12月21日(土)  
16:00~17:00 磐田南「令和元年 吉日」 河合来実:作
17:15~18:15 浜松湖東「モノクロ天使」 亀山真一:作
18:25~18:45 講評

◎12月22日(日)
13:00~14:00 浜松湖北「白い光の中に」 ゴッチャン:作
14:15~15:15 浜北西「その人生にタイトルをつけるなら」 有賀歩美:作
15:30~16:30 開誠館「晴れるから」 福岡大吾:作
16:40~17:10 講評





 

静岡芸術劇場でSPAC『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』を観た

カテゴリー │演劇

12月14日(日)14時~

ベルナルド・ブレヒト作の「セチュアンの善人」を元に
渡辺敬彦さんが台本を書き直して演出した。

俳優である渡辺さんが舞台に立っている姿は何度か
SPACの舞台で拝見したが、
一言で言うと、飄々とされている。

飄々としているという言葉も
大雑把な言い表し方にも思うが、
まさにそうなのだから仕方がない。

常に対象とどこか距離をとっている。
熱さとも
または冷たさともまるで無縁のように。
実際は巻き込まれ、渦中にいるはずなのに
自らのいる場所をどこか確保している。
そんな雰囲気をまとっている。

それはブレヒトが提唱した《異化効果》に通じるものかもしれない。

《異化効果》について、
ネットから文章を引用させていただくと

「劇作家ブレヒトが、1930年代にその演劇理論の中心をなす用語として
使ってから一般化したことば。
当たり前と思われる事柄を、見慣れない未知のものに変える趣向をいう。
異化作用ともいい、同化作用の逆。
ブレヒトは社会を変革する視点を強調し、
観客が登場人物や物語に感情同化せず、
距離をおいて批判的に観察するこの技法を自作に適用した。」
以上 知恵蔵 扇田昭彦 演劇評論家/2007年

終演後に1階のロビーで行われたアフタートークで
SPAC芸術監督の宮城聰さんが、
戦後、日本の新劇界を《異化効果》が席巻した
ということを言っていた。

但し、今では、作り手は《異化効果》を使いこなし、
観客も《異化効果》というものに慣れてきた。
確かにそうだと思う。
途中で音楽や映像が入るのは当たり前のことだし、
観客に突然語りかけてもすんなり受け入れるし、
別の役を急に演じ始めても驚くこともない。

とは言え、ブレヒトはきっと
技術としての《異化効果》を推進したわけではないだろう。
目的があっての技術である。
戦争の時代であり、
イデオロギーの対立軸が存在していた時代。
社会に目を向ける手段としての
《異化効果》であったはずなのだ。

今と言う時代は
もう少し成熟しているのかもしれない。
経済至上主義というのは認める認めないは別にして
受け入れているはずだし、
演劇を観る際、
あえて《同化》する気持ちよさを求めて
金を出す人の方が多数だ。
かと言って、その人たちが無批判という訳ではない。
すべて承知の上で
自分にとって気持ちいい方を選択するのである。

『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』も
《異化効果》の手法に慣れてきた時代の作品である。
原作である「セチュアンの善人」をより細かく分類して、
登場人物も生身の体温のある人間から一層距離を取らせ、
より即物的に見えるように作り物の小道具や装置を駆使し、
まるで空想の世界の、おとぎ話を聴かせるように
観客に見せる。

しかし誰でもわかるように
原作のシェン・テとシュイ・タという名前を置き換えた
RITAは利他であり、RICOは利己の意味であり、
所々に、直接的などこか熱い主張がのぞく。
それは一見飄々として見える
演出者の主張であろう。

数日してから、
ザ・ビートルズの
アルバム「サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」のCDを聴いた。
劇中、その中の1曲「ラヴリー・リタ」が流れていたからである。
もちろん役名のRITAにひっかけてのものだろうが、
「ラヴリー・リタ」は、リタという女性を愛しているという単純なラブソングではない。
駐車違反を切った婦人警察官リタを愛すべき♡と皮肉った、
ポール・マッカートニーの実体験をもとにした曲なのである。
英語の歌詞がわからないと
心地よいラブソングかなあと聴きがちだが、
実際はまるで違う意味合いの歌詞という、
こんなのも渡辺さんの好みなのかもしれない。
曲が流れる中、
主人公の山本実幸さんが素のような微妙な笑顔で
振りともいえぬリズムをとっていたのが笑えた。






 

穂の国とよはし芸術劇場PLATアートスペースでPLATプロデュース「荒れ野」を観た

カテゴリー │演劇

12月13日(金)19時~

演劇公演『荒れ野』は再演である。
しかも2年前の初演時とまったく同じ俳優による。
これはなかなか珍しいことらしい。

PLATという劇場によるプロデュース作品であり、
桑原裕子さん作・演出によるこの作品は
第5回ハヤカワ「悲劇喜劇」賞、第70回読売文学賞 戯曲・シナリオ賞を受賞した。

そんな快挙を受けての再演であろうことは容易に想像できる。
僕もそんな外部的要因に押されて足を運んだことも確かだが、
豊橋市出身の俳優、PLATの初代芸術文化アドバイザー平田満さんと
奥様である井上加奈子さんによる企画プロデュース共同体、
アル☆カンパニーによる作品を一度観てみたかった。

アル☆カンパニーは、ホームページによると
劇団と言う形を問わず、
毎回劇作家、演出家、俳優が、創造的にコミュニケーションを重ね、
人間主体の演劇を目指す、
とある。

平田さんと井上さんはかつて
今は亡き、つかこうへいさんと一緒に演劇をしていた。
一緒に行っていたとは言え、
劇団名はつかこうへい事務所で
作・演出もつかさんである。
台本がなく稽古場で口立てでセリフが伝えられる
特徴的な手法で演劇作りが行われていた。
創作にとってはいい意味でのワンマンに近い
リーダーシップで一座を引っ張り、数々の名作を生み出した。
この時代の様子は
長谷川康夫さんが書いた
「つかこうへい正伝」にも記されている。

平田さんも井上さんも
つかさんとの演劇のみならず
ひとりの俳優として、
さまざまな役を演じられてきた。

2005年にアル☆カンパニーをご夫婦で立ち上げた。
1982年の劇団つかこうへい事務所の解散から20年以上が経つ。
ただし、ともに活動していたつかさんとの芝居が原点であることは
間違いないだろう。
まったくやり方は違ったとしても。
どんな思いで立ち上げたかはご夫婦のみぞ知る。

「荒れ野」はアル☆カンパニーの平田さん、井上さんの他、
青年座の増子倭文江さん、文学座の小林勝也さん、
桑原さん主宰のKAKUTAの多田香織さん、
そして、2年前の初演時俳優経験がなかったという
ミュージシャンである中尾論介さんの6名で演じられる。

僕はこんな演劇体験の背景が異なる方々の融合による
限られた人数によるアパートの一室を舞台にした一幕劇というのが、
この座組の魅力であったと思う。
僕は目の前で繰り広げられる演技を見ながら
そんな各自の背景を考えていた。

青年座と文学座ベテラン俳優たちの今、
つかこうへい事務所から時を経ての俳優たちの今、
KAKUTAという劇団に所属する俳優の今、
音楽と言う武器は持ちながらも経験の浅い演劇の舞台に立つ俳優の今、
そんな6名の今が融合する。

作者である桑原さんは、
もしかしたら主宰であるKAKUTAの公演ではこの作品は書かなかっただろう。
PLATやアル☆カンパニーからの依頼を受けて、
桑原さんは平田さんから
「今まで書いて来なかったようなものを書いてみない?」
とリクエストされたそうである。
また、女性に視点をあてた作品も希望されたそうである。
これはアル☆カンパニーが今まで男性に視点があたった作品が多かったことにもよる。

それぞれが、今までとちょっと違うことをやろうと試みたことが
新しい一面を切り開いたのではないだろうか。
といってもリクエストした方も
作家のこれまでの作品を知ったうえでのことなので、
決して無茶ぶりではない。

結果、従来の方法のみでは実現できない
組み合わせの俳優と
新たな視点の入った作品が生まれることになる。
信頼と冒険心が混じり合っている。

あ、観た感想はどうだったかって?
成り立ちに間違いがなければ、
そう間違えるものではない。

今いる場所は『荒れ野』なのだろうか?






 

事務局交代

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

■事務局交代                 フィールド 寺田景一

今年の8月の改選をもって、事務局が交代した。
創立からのメンバーではない私は、2002年に静岡県西部演劇連絡会が出来た頃のことはあまり知らないが、仲間たちとフィールドという、劇団と名乗らないが実質演劇をやる集団を立ち上げ、旗揚げ公演を行った頃、会長の見野さんから声をかけていただき、この団体の一員として参加するようになった。

最初に連絡会の例会に行ったのは、劇団テクノポリスの稽古場だった。
カレー処ヤサカの敷地内にかつてあったスペースCOAで、2003年7月の終わりに開かれたユニットライブに3劇団の内のひとつとして参加してすぐの8月の例会だったと思う。
それはちょうど翌年の2004年からそれまであった浜松市芸術祭の演劇部門を発展させ、人形劇部門と合同で、《はままつ演劇・人形劇フェスティバル》として関係各所が協力し、開催しようという時期だった。
僕にとっての連絡会の活動は最初から、フェスティバルの活動と《同義語》だった。

2カ月に1回の例会への出席率が比較的よかったからかどうかわからないが、その後、劇団からっかぜの布施さんのあとを継いで事務局の担当となった。
いつ事務局となり、どれくらい担当したのか思い出せないくらい長く担当させてもらった。
その間に辞めた人たちもいるし、一方新しく入ってきた人たちもいる。

連絡会というのはあくまでも横のつながりであり、それぞれにとっての主体とはなりえない。
当初は劇団単位の会員の集まりであった。
代表のみが参加する劇団もあれば、複数名が参加する劇団もあったが、いずれにしても劇団より連絡会の存在が上位に来ることはない。
その後、さまざまな事情で個人会員という立場の人たちも現れてきている。

現在の連絡会は、浜松市及び浜松市文化振興財団より委託を受け、はままつ演劇フェスティバルを主管することが、主な活動となっている。連絡会主体の活動をしよう、と独自のワークショップが行われたりもしたが、長く続かなかった。
近頃はそういう話も出なくなった。
そして、フェスティバルの自主公演に参加しなくなるとともに退会する劇団もあった。
しかしながら、公演を打たなくなった劇団が時とともに集まる機会が減っていくように、明確な目標がなくなると、集団は集まる理由を失っていく。
サロン的に日が合う人で会いましょうとか、年に1回忘年会も兼ねてなどとけしかけて会うくらいがオチになる。

フェスティバルも、市や財団が運営から外れ、人形劇との連携もなくなった。
しかしながら、フェスティバルは続いている。
私はそのことがすべてだと思う。
続いているということ。
自主公演中心と言う形態に変わりはない。
ワークショップの内容も固定化されてきた。
代わり映えがしないと感じる人もいるかもしれない。

但し、同じことを続けて行く中にも常に変革がある。
自主公演も新たな作品に挑むし、ワークショップも新たな人が参加する。
高校演劇は顕著だが、年度の繰上げでメンバーががらりと変わる。
変わり続けなければ現状維持も出来ないのである。
また、形を一変させることを俎上に載せて話し合う機会もあるといい。

ちなみに、同じ日、会長交代も実行された。


静岡県西部演劇連絡会会報2019年12月1日号より



 

路上演劇祭Japan in 浜松2020の為に有楽街を歩く

カテゴリー │路上演劇祭

12月8日(日)15時に有楽街の中ほどにある
松竹浜松ビルの前に集まり、
路上演劇祭Japan in 浜松2020に向けた
街歩き&実行委員会。
有楽街を歩き、喫茶店に入り打ち合わせをした。

できたばかりの告知チラシを持っていくつもりが、
うっかり忘れてしまった。
言い訳は言うまい。
ただ自分がバタバタしていたため。

チラシはこちら。




参加者およびスタッフを募集しているわけだが、
もうひとつ、ワークショップの参加者も募集している。
それは、「有楽街で演劇をつくる」というワークショップ。

「街を知る 自分を知る」というタイトルを当初つけたが、
あとから「有楽街で演劇をつくる」という言葉が出てきた。
どちらもワークショップの内容を表しているが、

有楽街で演劇をつくる
   ~街を知る 自分を知る

でどうだろうか。
前者がメインタイトルで、
後者がサブタイトル。

ただし日程など詳細は決まっていない。
3月から5月にかけて、
本番を含み、7日間のプログラムを組もうと思う。

何より参加者がいないと始まらないので、
ぜひ興味がある方はご参加を!!

演劇経験はまったく問わず。
まち作りに興味がある方
創作活動に興味がある方、
演劇作りに興味がある方、
協働作業に興味がある方、
人に興味がある方など、
どんな方でも参加可能。

また決まり次第ご報告。
お問合せは下記まで

連絡先:tetora@kyj.biglobe.ne.jp 
              (寺田)

もちろん路上演劇祭の参加者およびスタッフも募集!!

詳しくは路上演劇祭Japan in 浜松2020のブログをご覧あれ。
http://rojo-hamamatsu.blogspot.com/




 

川根本町文化会館で大駱駝艦 田村一行 舞踏公演「彼方を語る人」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

12月7日(土)14時~

浜松市の自宅から車で会場へ向かった。
川根と言えば、
お茶や温泉や
大井川鉄道のSLを思い浮かべるが、
車で行くと
南北に長いのを実感する。
南から北に向かい
川根町、中川根町、本川根町と連なっている。

会場である川根本町文化会館へ行くのは初めてである。
浜松などで見る公演チラシを見て、
ラインアップが個性的なホールだな、と常々思っていた。

もう少し暖かい季節ならもっと車も走っていたかもしれない。
会場へ向かう山道は、あまり車が走っていなかった。
果たして本当にこの先で舞踏公演が行われるのだろうか、と
不安に思わないでもなかったが、
車のナビはしっかりと川根町文化会館への道を示していた。

大駱駝艦と言えば
かつて状況劇場で唐十郎さんの
特権的肉体論を体現していたと言われていた
麿赤兒さんが率いる舞踏団。
本川根町という場所で
どんな佇まいを見せるのか
興味があった。

振付・演出・美術・出演は田村一行さん。
他に小川直哉さんと藤本梓さんが出演。
川根に伝わる昔話を題材に作品にした。
バレエが踊りと音楽だけで物語を伝えるように、
舞踏も踊りと音楽だけで物語を伝えるんだなと
感じながら見ていた。
普段の公演では珍しいようだが、
所々で演劇のようにセリフという表現手段も使用されていた。
結果、抽象性と具体性がほどよいバランスで
混じり合っていたように思う。

田村さんは作品をつくるにあたって、
「親子で楽しめる」ことを念頭に置いていたと
言っていたが、
それはよくわかった。
この日は地域のイベントがあり、
子供たちが観に来られないということだったが、
結構地域の年配のお客さんが見えられていた。
僕は子供とか年配の方とかにこそ
伝わるのではないかと思った。

まるで頭で解釈しようとしがちになるのを
たしなめるように、
鍛錬された肉体こそが雄弁に物語っていた。

しかしながらあらためて認識したこともある。
それは音楽というものの占める割合の大きさである。
バレエも同様。
また、スポーツであるがフィギアスケートを見ていても思う。
支配しているされているの関係ではなく、
お互いに補完し合っているのであろうが。

公演終了後、
2時間の舞踏のワークショップがあり、
僕も参加した。
前半は基本的な肉体練習、
後半は舞踏の型を少し教えてもらった。

最後に質問コーナーで、
参加した子供さんから
「どうして、天狗の面が取れなくなったんですか?」
という質問があった。
落ちていた天狗の面を顔にはめたら、
取れなくなったという場面があったのである。
田村さんは、本当の答えは教えなかったが
子供さんは納得しているようだった。






 

浜松市福祉交流センターホールで浪漫座「ミニミニ☆東京オズの魔法使い」を観た

カテゴリー │演劇

12月1日(日)14時~
浪漫座は55歳以上であることが入団条件であるシニア劇団。
来年でちょうど10周年になるそうだ。
今までの公演を拝見した限りでは
男性が舞台に立っていたこともあるが、
今回は全員が女性であった。
女子率100%。
この女子率の高さはなぜなのだろうか。

演劇自体をやろうと思う人の男女比がどれだけのものか
調べた資料を見た経験はないが、
例えば、はままつ演劇フェスティバルの中の
イベントである「高校演劇選抜公演」での
高校生たちの演劇公演を観る限りでは
男子がとりわけ少ないという印象はない。

浪漫座に女性たちが参加したくなる
魅力があるのだと思う。
これは予想の範囲を出ないがシミュレーションしてみた。

結婚し、子供を産み、育て、
仕事も子育てもようやく一段落し、
さあ、これから何しよう。
そこに“演劇”という選択肢があった。

どうだろう。
55歳以上と言うのが入団条件であるが、
例えば55歳の年齢であると、
仕事も現役だったり、
まだお子さんが大学生あたりで、
仕送りも必要だったりして、
余暇に演劇、などという余裕がなかったりするのではないか。

聞くところによれば、
平日の昼間に練習をされているという。
つまり、昼間みっちり仕事をしている人は参加できない時間である。
おのずと、同じような境遇の方々が
集まってくるのではないか。
そこに何を求めるかと言うと、
心置きなくいろいろなことを話すことができる仲間がいる
場所なのではないだろうか。
そうなると異性であると多少気を遣う所も出てくるが
同性であれば、まあ、そう気を使う必要もない。

練習の場所に行けば
話のネタはつきないだろう。
今までの人生のこと、
家族など身の回りのこと、
社会情勢のこと・・・。
多少時間が自由に使えるようなってきた、
と思ったのもつかの間、
親の介護という問題につきあたるかもしれない。
もちろん若くても起こる得ることだが、
ご自身の体調に気になるところも出てくるかもしれない。

その延長線上に
演劇がある。
指導者の下、声を出し、
身体を動かし、
または今まで培ってきたものを生かす場でもある。

ダンスをやってきた人、
歌を歌ってきた人、
何より特徴的なのは
衣装制作だ。
僕は“裁縫力”と名付けたいが、
第1回公演から
衣装制作には感心させられる。
年を重ねるごとにパワーアップしている印象だ。
チラシの写真を見ただけでもすぐわかる。

55歳以上でさえあればいい。
ただし上は果てしない。
そんな女性たちの欲求にマッチしたのではないだろうか。

また、前回の公演より
作者として名を連ねる
FOX WORKSの狐野トシノリさんの
脚本がメンバーの個性をよくつかんで
書かれている。

ここ数年、爆華’Sというダンスチームが参加しているが、
以前は、とってつけたようなダンスシーンだなあ、と思えたりもしたが、
物語の中で成立する活かし方をしていた。
これなどは脚本の妙である。

そのような内々のパワーの集結が
あることに結びつく。
それは集客である。
生活の延長線上の応援する人たちが集まり、
演者たちは
それらの人たちの期待に十分応える。
そこで、ひとつの公演が成り立つ。

僕は、これは地域文化の
ひとつの在り方であると思う。

演劇だけではないが、
表現というものは
それぞれ“目的”が違うと思う。
もちろん観客に伝えるという意味では同じだが、
根本の“目的”が違うということがどういうことか、
少しだけだが、考えた。






 

今之浦土地区画整理記念館でいわた表現の会からころ「KARAKORO フルーツポンチ」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

11月30日(土)13時30分~
いわた表現の会からころの第4回の朗読会。
前回まで会場だった磐田市民文化センターが移転の為閉鎖されたため、
今回は会場が変わった。
初めて聞く名前だったので勝手に新しい会場かなと思っていたら、
そうではなかった。

今之浦は、近年まで葦の生える沼地、水田で、
磐田原台地に囲まれた低湿地地域を
今之浦土地区画整理事業で整備した地域だそうだ。
1983年に自治会組織が出来たそうなので、
今之浦土地区画整理記念館は
その頃、建てられた施設かもしれない。
(磐田市自治会連合会のHP参照)

春と秋の年2回、朗読中心の公演が始まり、
今回4回目。
今まで歌や踊りをやるメンバーが入っていたが、
今回は朗読のみのプログラム。

プログラムは以下の通り。



来場者にはメンバーによる手作りの品が手渡される。