静岡芸術劇場でSPAC『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』を観た

カテゴリー │演劇

12月14日(日)14時~

ベルナルド・ブレヒト作の「セチュアンの善人」を元に
渡辺敬彦さんが台本を書き直して演出した。

俳優である渡辺さんが舞台に立っている姿は何度か
SPACの舞台で拝見したが、
一言で言うと、飄々とされている。

飄々としているという言葉も
大雑把な言い表し方にも思うが、
まさにそうなのだから仕方がない。

常に対象とどこか距離をとっている。
熱さとも
または冷たさともまるで無縁のように。
実際は巻き込まれ、渦中にいるはずなのに
自らのいる場所をどこか確保している。
そんな雰囲気をまとっている。

それはブレヒトが提唱した《異化効果》に通じるものかもしれない。

《異化効果》について、
ネットから文章を引用させていただくと

「劇作家ブレヒトが、1930年代にその演劇理論の中心をなす用語として
使ってから一般化したことば。
当たり前と思われる事柄を、見慣れない未知のものに変える趣向をいう。
異化作用ともいい、同化作用の逆。
ブレヒトは社会を変革する視点を強調し、
観客が登場人物や物語に感情同化せず、
距離をおいて批判的に観察するこの技法を自作に適用した。」
以上 知恵蔵 扇田昭彦 演劇評論家/2007年

終演後に1階のロビーで行われたアフタートークで
SPAC芸術監督の宮城聰さんが、
戦後、日本の新劇界を《異化効果》が席巻した
ということを言っていた。

但し、今では、作り手は《異化効果》を使いこなし、
観客も《異化効果》というものに慣れてきた。
確かにそうだと思う。
途中で音楽や映像が入るのは当たり前のことだし、
観客に突然語りかけてもすんなり受け入れるし、
別の役を急に演じ始めても驚くこともない。

とは言え、ブレヒトはきっと
技術としての《異化効果》を推進したわけではないだろう。
目的があっての技術である。
戦争の時代であり、
イデオロギーの対立軸が存在していた時代。
社会に目を向ける手段としての
《異化効果》であったはずなのだ。

今と言う時代は
もう少し成熟しているのかもしれない。
経済至上主義というのは認める認めないは別にして
受け入れているはずだし、
演劇を観る際、
あえて《同化》する気持ちよさを求めて
金を出す人の方が多数だ。
かと言って、その人たちが無批判という訳ではない。
すべて承知の上で
自分にとって気持ちいい方を選択するのである。

『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』も
《異化効果》の手法に慣れてきた時代の作品である。
原作である「セチュアンの善人」をより細かく分類して、
登場人物も生身の体温のある人間から一層距離を取らせ、
より即物的に見えるように作り物の小道具や装置を駆使し、
まるで空想の世界の、おとぎ話を聴かせるように
観客に見せる。

しかし誰でもわかるように
原作のシェン・テとシュイ・タという名前を置き換えた
RITAは利他であり、RICOは利己の意味であり、
所々に、直接的などこか熱い主張がのぞく。
それは一見飄々として見える
演出者の主張であろう。

数日してから、
ザ・ビートルズの
アルバム「サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」のCDを聴いた。
劇中、その中の1曲「ラヴリー・リタ」が流れていたからである。
もちろん役名のRITAにひっかけてのものだろうが、
「ラヴリー・リタ」は、リタという女性を愛しているという単純なラブソングではない。
駐車違反を切った婦人警察官リタを愛すべき♡と皮肉った、
ポール・マッカートニーの実体験をもとにした曲なのである。
英語の歌詞がわからないと
心地よいラブソングかなあと聴きがちだが、
実際はまるで違う意味合いの歌詞という、
こんなのも渡辺さんの好みなのかもしれない。
曲が流れる中、
主人公の山本実幸さんが素のような微妙な笑顔で
振りともいえぬリズムをとっていたのが笑えた。

静岡芸術劇場でSPAC『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』を観た



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