2019年12月20日07:29
静岡芸術劇場でSPAC『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』を観た≫
カテゴリー │演劇
12月14日(日)14時~
ベルナルド・ブレヒト作の「セチュアンの善人」を元に
渡辺敬彦さんが台本を書き直して演出した。
俳優である渡辺さんが舞台に立っている姿は何度か
SPACの舞台で拝見したが、
一言で言うと、飄々とされている。
飄々としているという言葉も
大雑把な言い表し方にも思うが、
まさにそうなのだから仕方がない。
常に対象とどこか距離をとっている。
熱さとも
または冷たさともまるで無縁のように。
実際は巻き込まれ、渦中にいるはずなのに
自らのいる場所をどこか確保している。
そんな雰囲気をまとっている。
それはブレヒトが提唱した《異化効果》に通じるものかもしれない。
《異化効果》について、
ネットから文章を引用させていただくと
「劇作家ブレヒトが、1930年代にその演劇理論の中心をなす用語として
使ってから一般化したことば。
当たり前と思われる事柄を、見慣れない未知のものに変える趣向をいう。
異化作用ともいい、同化作用の逆。
ブレヒトは社会を変革する視点を強調し、
観客が登場人物や物語に感情同化せず、
距離をおいて批判的に観察するこの技法を自作に適用した。」
以上 知恵蔵 扇田昭彦 演劇評論家/2007年
終演後に1階のロビーで行われたアフタートークで
SPAC芸術監督の宮城聰さんが、
戦後、日本の新劇界を《異化効果》が席巻した
ということを言っていた。
但し、今では、作り手は《異化効果》を使いこなし、
観客も《異化効果》というものに慣れてきた。
確かにそうだと思う。
途中で音楽や映像が入るのは当たり前のことだし、
観客に突然語りかけてもすんなり受け入れるし、
別の役を急に演じ始めても驚くこともない。
とは言え、ブレヒトはきっと
技術としての《異化効果》を推進したわけではないだろう。
目的があっての技術である。
戦争の時代であり、
イデオロギーの対立軸が存在していた時代。
社会に目を向ける手段としての
《異化効果》であったはずなのだ。
今と言う時代は
もう少し成熟しているのかもしれない。
経済至上主義というのは認める認めないは別にして
受け入れているはずだし、
演劇を観る際、
あえて《同化》する気持ちよさを求めて
金を出す人の方が多数だ。
かと言って、その人たちが無批判という訳ではない。
すべて承知の上で
自分にとって気持ちいい方を選択するのである。
『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』も
《異化効果》の手法に慣れてきた時代の作品である。
原作である「セチュアンの善人」をより細かく分類して、
登場人物も生身の体温のある人間から一層距離を取らせ、
より即物的に見えるように作り物の小道具や装置を駆使し、
まるで空想の世界の、おとぎ話を聴かせるように
観客に見せる。
しかし誰でもわかるように
原作のシェン・テとシュイ・タという名前を置き換えた
RITAは利他であり、RICOは利己の意味であり、
所々に、直接的などこか熱い主張がのぞく。
それは一見飄々として見える
演出者の主張であろう。
数日してから、
ザ・ビートルズの
アルバム「サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」のCDを聴いた。
劇中、その中の1曲「ラヴリー・リタ」が流れていたからである。
もちろん役名のRITAにひっかけてのものだろうが、
「ラヴリー・リタ」は、リタという女性を愛しているという単純なラブソングではない。
駐車違反を切った婦人警察官リタを愛すべき♡と皮肉った、
ポール・マッカートニーの実体験をもとにした曲なのである。
英語の歌詞がわからないと
心地よいラブソングかなあと聴きがちだが、
実際はまるで違う意味合いの歌詞という、
こんなのも渡辺さんの好みなのかもしれない。
曲が流れる中、
主人公の山本実幸さんが素のような微妙な笑顔で
振りともいえぬリズムをとっていたのが笑えた。
ベルナルド・ブレヒト作の「セチュアンの善人」を元に
渡辺敬彦さんが台本を書き直して演出した。
俳優である渡辺さんが舞台に立っている姿は何度か
SPACの舞台で拝見したが、
一言で言うと、飄々とされている。
飄々としているという言葉も
大雑把な言い表し方にも思うが、
まさにそうなのだから仕方がない。
常に対象とどこか距離をとっている。
熱さとも
または冷たさともまるで無縁のように。
実際は巻き込まれ、渦中にいるはずなのに
自らのいる場所をどこか確保している。
そんな雰囲気をまとっている。
それはブレヒトが提唱した《異化効果》に通じるものかもしれない。
《異化効果》について、
ネットから文章を引用させていただくと
「劇作家ブレヒトが、1930年代にその演劇理論の中心をなす用語として
使ってから一般化したことば。
当たり前と思われる事柄を、見慣れない未知のものに変える趣向をいう。
異化作用ともいい、同化作用の逆。
ブレヒトは社会を変革する視点を強調し、
観客が登場人物や物語に感情同化せず、
距離をおいて批判的に観察するこの技法を自作に適用した。」
以上 知恵蔵 扇田昭彦 演劇評論家/2007年
終演後に1階のロビーで行われたアフタートークで
SPAC芸術監督の宮城聰さんが、
戦後、日本の新劇界を《異化効果》が席巻した
ということを言っていた。
但し、今では、作り手は《異化効果》を使いこなし、
観客も《異化効果》というものに慣れてきた。
確かにそうだと思う。
途中で音楽や映像が入るのは当たり前のことだし、
観客に突然語りかけてもすんなり受け入れるし、
別の役を急に演じ始めても驚くこともない。
とは言え、ブレヒトはきっと
技術としての《異化効果》を推進したわけではないだろう。
目的があっての技術である。
戦争の時代であり、
イデオロギーの対立軸が存在していた時代。
社会に目を向ける手段としての
《異化効果》であったはずなのだ。
今と言う時代は
もう少し成熟しているのかもしれない。
経済至上主義というのは認める認めないは別にして
受け入れているはずだし、
演劇を観る際、
あえて《同化》する気持ちよさを求めて
金を出す人の方が多数だ。
かと言って、その人たちが無批判という訳ではない。
すべて承知の上で
自分にとって気持ちいい方を選択するのである。
『RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人より~』も
《異化効果》の手法に慣れてきた時代の作品である。
原作である「セチュアンの善人」をより細かく分類して、
登場人物も生身の体温のある人間から一層距離を取らせ、
より即物的に見えるように作り物の小道具や装置を駆使し、
まるで空想の世界の、おとぎ話を聴かせるように
観客に見せる。
しかし誰でもわかるように
原作のシェン・テとシュイ・タという名前を置き換えた
RITAは利他であり、RICOは利己の意味であり、
所々に、直接的などこか熱い主張がのぞく。
それは一見飄々として見える
演出者の主張であろう。
数日してから、
ザ・ビートルズの
アルバム「サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」のCDを聴いた。
劇中、その中の1曲「ラヴリー・リタ」が流れていたからである。
もちろん役名のRITAにひっかけてのものだろうが、
「ラヴリー・リタ」は、リタという女性を愛しているという単純なラブソングではない。
駐車違反を切った婦人警察官リタを愛すべき♡と皮肉った、
ポール・マッカートニーの実体験をもとにした曲なのである。
英語の歌詞がわからないと
心地よいラブソングかなあと聴きがちだが、
実際はまるで違う意味合いの歌詞という、
こんなのも渡辺さんの好みなのかもしれない。
曲が流れる中、
主人公の山本実幸さんが素のような微妙な笑顔で
振りともいえぬリズムをとっていたのが笑えた。