アクト大ホールでこまつ座「父と暮らせば」を観た

カテゴリー │演劇

23日(土)13時30分~
井上ひさし作「父と暮らせば」はかつて劇団からっかぜのアトリエ公演と安住恭子さんの劇評ワークショップの課題として観た。
3年前に行われた安住さんのワークショップの時のノートを引っ張り出した。
「究極の悪と究極の善を描いている」
とある。
「死者(父)と生者(娘)との愛の葛藤を描いている」
とある。
「一番小さな形から一番大きなものを告発する」
とある。
広島への原爆投下から3年。
生き残った罪悪感と原爆病への心配にさいなまれるが、あくまで表に出さず、図書館に勤めながらひとりひっそり暮らす美津江。
図書館に原爆の資料を求めに来た男のことが気になっている。
置き場がないので、美津江は自分の家の一部を提供しようという話までしている。
そこに原爆で命を落とした美津江の父、竹造が現われる。
天に召されながらも娘の将来を心配する父。
ここでは幸せな結婚をして欲しいと願う。
対して、自分は幸せになってはいけないのだと頑なな娘。
彼らの思いはどこまでも一致しない。
その葛藤から、戦争の悲惨さ、核の悲惨さがあぶりだされる。
ということなのだが、
思った。
僕の心にどこまで届いただろう。
もっと切実に。
震災後の今の状況と重なるように。
前情報の多い、期待の大きい、僕の勝手な要求を満足させただろうか。
始まる前、誰かがしゃべっていた。
A「短いけど内容がぎゅっと詰まったお芝居何だって」
B「そう」
A「映画化されていて、りえちゃんが出てるのよ。宮沢りえ。それとこの前亡くなった原田芳雄・・・」
という会話。
この会話をしていたふたりは終演後どんな感想を抱いただろうか。
終演後、席を立ち、出口へ向かう観客たちの言葉に耳をかたむける。
表情をのぞく。
芝居の話をしているようには思えない。
思いをはせているようには思えない。
なぜこんなにさらっと終わってしまったのだろう。
何が原因だったのだろう。
とまだ考えている。










 

アクト中ホールで「天満敦子ヴァイオリンリサイタル」を聴いた

カテゴリー │音楽

19日(火)18時30分~ アクトシティ浜松・中ホール。
ピアノは信愛学園(現 浜松学芸高)卒業という酒井愛可さん。
台風が接近する中、仕事帰りにホールへ。

アダージョ
ロンディーノ
タイスの瞑想曲
アヴェマリア
祈り
シャコンヌ
夏の思い出
過ぎ去りし日々
シチリアーナ
ホーム・スイート・ホーム
望郷のバラード
ジュピター

以上、パンフより演奏曲目。
アンコールで
見上げてごらん夜の星を
ともう一曲(曲は聴いたことあるが曲名知らず)

トークでは震災のことに触れ、終演時には「ずっと祈り続けていきたい」とのコメント。

台風に伴う雨のため、いつもは歩いて、もしくは電車で来るアクトに車で来た。
少し離れた駐車場に停めれば格安なところ、この雨だし、開演まであまり時間もないので、アクト地下の駐車場に車を停めた。
大ホールでの催しがないにも関わらず、みんな考えることは同じからか、駐車場はずいぶん混んでいた。
で、やっと探し当てた駐車位置は元々は上下2台停められる構造の可動式だったところ。
今は平面のみしか使っていない。
というのも保安員の人に聞いた。
なぜ聞く羽目になったかというと、車を停め、ドアを開け、時間を知るために、携帯をとりだしたところ、ぽろり手から離れ、穴から下に落ちてしまったのだ。
その場所の状況この説明ではわからないと思うが、
とにかく拾いだせないところに、携帯は落ちてしまったのだ。
例えれば、自動販売機で飲み物を買おうと、財布から小銭取り出したら、ぽろりふたのついた側溝に。
例えれば、おじいさんが、山で昼飯を食べようとおむすびを取り出したら、穴の中に。(おむすびころりんより)
という感じ。
隙間から下を覗き込んでも、暗く、携帯の姿はまったく見えない。
6時30分の開演時間がせまっていたので、先ずは会場へ向かう。
頼みの時計は奈落の底なので、時間はわからぬまま。
コンサートおわり、先ずは駐車料金を払い、車を外に出し、保安室へ。
そして、「よく落とす人いるんですよ。この前も自動車のカギをね・・・」と気さくな保安員さんの話を聞いたりし、落とした場所に向かい、マグライトで照らしてもらうと、「あった、あった」。
想定していたいちばん底でなく、すぐ下にひっかかっていた。
場所の状況この説明ではよくわからないとは思うが、要は携帯は無事だった。
また保安室に行くときも、携帯が見つかり外に停めた車に戻る時も迷い手間取った。
気さくな保安員も言ってた。
「この駐車場わかりにくくてね、迷う人たくさんいるんですよ」
保安室で別の保安員を待っている時、そう話している先に電話がかかってきた。
自分の置いた車の位置がわからなくなってしまった人からだった。
車に戻った時はコンサートの終演後1時間近くたっていた。
外は台風に伴う雨。
傘を持ちだすのがいやでここに停め、車の中に傘を置いてきた俺が車に戻る時雨にぬれる。
天満さんの言葉が浮かぶ。
「ずっと祈り続けていきたい」
その言葉は、自分以外の誰かのためであろう。
しかし、俺の祈りは・・・。
たぶん自分でてんやわんやだった。
こういう時は早く飯を食べるべきだと思った。
先ずは自分のために。
そんな中、耳の奥で記憶の「アヴェマリア」は鳴り響く。
俺は車を走らせる。
ワイパーは忙しく、降りしきる雨をはじき飛ばす。










 

シネマe~raで「ソウル・キッチン」を観た

カテゴリー │映画

17日(日)12時15分~
これは場所の映画だ。
ドイツのハンブルグにある「ソウル・キッチン」という名のレストラン。
オーナーや料理人やウエイトレスや居候や兄や取り巻きや客や彼女や新しい彼女らが混然一体となり、レストランの存亡を彩る。
もう少し新しいものを期待して言ったけど、ストーリー展開がオーソドックスな喜劇のせいか、その域を出れなかったのではないか。
面白いようでいまいち面白くない。
ふりきっているようでふりきれてない。
ような気がした。




 

クリエート浜松で公募写真展2011年「視点」を見た

カテゴリー │いろいろ見た

演劇フェスや路上フェスでお世話になっている浜松写真連絡協議会のメンバーからのお誘いで写真展に行った。
公募の締め切り後に起こった震災の写真も何点か展示されていた。
《いつ、どこで、何を、どのように》撮るのか。
写真を撮るためには撮影者がその場所にいなければならない。
そんな現場性、フットワークが写真も“生”で見ると感じることができるような気がした。
俺も自ら足を使い、クリエート浜松に出向き、展示された写真と対峙しているのだ。




 

7月3日からお盆まで

カテゴリー │思うこと

3日(日)劇団踊ら木偶の関係で人に会う。
5日(火)劇団フィールドの関係で人に会う。
9日(土)劇団踊ら木偶の関係で人に会う。(3日とは別の人たち)

7月に入っての先週はそんな週だった。
話をし(というより聞き)、飯を食い(というよりご馳走になり)、酒を飲み(というより戴き)、
まったく受け身な週だったのではないだろうか。

受け身でいられる時は楽だ。
気心が知れてるとも言える。
情報が共通するとも言える。
昔話ができるとも言える。
今がないからとも言える。

壊れない時計が永遠に時を刻み続ける。
前に、先に進み続ける。

ということにあらがうことはできないので、人はうまく時を止める。
逆戻りさせる。

そんな思いを利用した小説や漫画や映画や舞台はたくさんある。

そして、止まってしまった、もしくは自ら止めた時計のネジを回し、再び時は刻み続ける。
その時は元の時間軸に戻っている。

今週はお盆の週だった。
お盆は祖先の霊をまつるのだが、過去を思うということでは共通する。
こういった思いは気分というものがモノを言う。
震災後の気分ともいえるだろうか。

9日は14時から、からころの定例会もあった。
来年の次回公演のテーマを話し合った。
出た言葉を羅列する。


生命

しあわせ

ありがとう

情熱




つながる
むすぶ
明日へ
咲く



 

芹川藍のアクティングセラピー~自己発見のワークショップ

カテゴリー │からころ

6月25日(土)14時から磐田市西貝公民館でからころの集まり。
10月22日(土)に行うワークショップの打ち合わせ。


「芹川藍のアクティングセラピー~自己発見のワークショップ~」

もっと楽しむ もっと楽しく 新しい自分への挑戦

自分を表現したい、自分自身の新しい可能性にチャレンジしてみたい方のためのワークショップ
“芹川メソッド”によるアクティング・セラピー。
心の解放から楽しく表現に進めていきます。


という内容で、13時~16時に行われます。
興味ある方はお問い合わせください。

写真は公民館からすぐのところ。
からころ公演の練習の行き帰りいつか写真を撮ろうと思っていた。
この日帰りに実現。
これは“どリアルえもん”だと思う。