7月29日(日)晴

カテゴリー │戯作者たわむれ日記

浜松ジオラマファクトリーへ行った。
浜松出身のジオラマ作家 山田卓司氏の作品を中心に展示。
特別展「風景の作家たち」として山本日出男氏、奥川泰弘氏の作品も展示。
山田卓司氏の作品は主にテレビ東京系で放送の「TVチャンピオン」で何回か見た。

写真は撮影可の作品。
戦後の風景。




 

7月28日(土) 晴

カテゴリー │戯作者たわむれ日記

朝、五輪の開会式を見た流れで、午前中戯曲を書く。
何とかこのまま進めそうな・・・。
午後はフェスチラシ写真の件でN野さん宅に外出。
開会式で冒頭、シェイクスピアの「テンペスト」の有名だという一節を舞台俳優が朗じていたので、帰宅途中、ブックオフで文庫本をさがそうと立ち寄ったが、芳川店ではなかった。
知らなかったが、日本名では「あらし」と言われ、シェイクスピア最後の作品ということだ。





 

7月27日(金) 晴

カテゴリー │戯作者たわむれ日記

1日、仕事。
翌日朝4時半に起床。
オリンピック開会式を見る。
イギリスの国の成り立ちか。
最後はポールの「ヘイジュード」
出だし合わなかったのもご愛敬。
1シーン目だけ決まっていた戯曲、2シーン目書き始める。
何度か書き始めたのだが、今度こそ着地点まで到達するかどうか。




 

7月26日(木) 晴

カテゴリー │戯作者たわむれ日記

1日仕事。
夜10時からは五輪サッカー男子日本VSスペイン。
フェスのチラシ関係で、DVDに焼いてもらった人形劇の写真を見る。
データ量が多く、開くのに時間がかかる。
PCの容量不足も原因だろう。
このブログも書いていて、入力モードがアルファベット小文字からひらがなにどうしても戻らない時がある。
解決策は一旦ブログを閉じて、また開き直すのを試みたりすること。
戯曲はどうだろう。
また明日。




 

7月25日(水)晴

カテゴリー │戯作者たわむれ日記

1日仕事。
途中写真でお世話になっている人のところに寄ったが、それは公式では書けない。
仕事中なのだから。
帰宅してから、演劇フェスのチラシに使う写真を各劇団に提供してもらうメールを打つ。
けっこう時間がかかってしまった。
テレビ静岡でほんまでっかTV~ピカルの定理まで。
道端で泣いている捨て犬を拾って帰ろうとしない人はポジティブな人だそうだ。
心理学的に。
戯曲のことが何もできなかったかというと、そうでもない。
収穫の日だった。
川べりに考えていなかった登場人物たちが出てきた。
レナード・コーエンの「ハレルヤ」ひさしぶりに聴く。




 

本日から戯曲を書き上げるまで日記をつける宣言

カテゴリー │戯作者たわむれ日記

いわた表現の会からころで「朗読をするための本をさがそう」という提案した。
そこで、読むべき本はないかと、家にある本を引っ張り出したりした。
その過程で、手に取った坂口安吾の「堕落論」をパラパラと読んだ。
そのなかに「戯作者文学論」という文章がある。
小説家である安吾がなぜ「戯作者~」と称しているかと言うと、「私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。~」などと述べている。
安吾が漱石の長編を一通り読り読んで、人間関係に肉体がまったく書かれていないのに触れ、対して、自らの小説の中で、ひと組の夫婦のつながりをあるべき心と肉体をもって描きたいと考えていた。
その小説を書く安吾自身が、「日ごと日ごとに何事を意図し、どんなふうに考えたり書いたりするか、日記をつけてみようと思ったのだ」とある。
僕も少し真似する。
他にも書く理由はある。
そちらの方が大きいかもしれない。
普段のブログは他人の作品について書くことが多い。
演劇、映画やその他。
観た上に、書く。
書くにあたり、すらすら文書が出てくるわけではない。
どんな作品だったか考える。
自分を引っ込めて、客観的にとらえる作業が必要となる。
不特定多数の人が読む可能性があるので、当然多少気を使う。
だから、多少時間がかかる。
そこで、ここはひとつ他作品から自作品にターゲットをぐるっと回転させようと考えた。
他にまわって自ではなく、できるかぎり自→。
スピード重視で、戯曲を書く励みとなる日々を語ろう。
目的は戯曲を書くことなのだ。
安吾の「戯作者文学論」にもある。
7月18日(曇、午後二時ごろより晴)の日記より。
「私はわざと筆をとらない。ふくらみつつある力をはかって、ねころんで本を読んでいる、なんとも壮大で、自分がたのもしい。
架空の影の虚しい自信と力なのだが、それを承知で、だまされ、たわいもない話だが、それでほんとに、いい気なのだから笑わせる。」

※なにか観たらそれはそれで書きます。

7月24日(晴)
いつものように仕事。
帰宅してからこのブログ書く。
主に火曜曲という音楽番組の特番を観ながら書いた。
昼間、移動の車の中で、「雨 or 晴」というキャッチフレーズを思いついた。
帰宅したら書きまくろうと思ったが、その前に安吾の真似事日記をやろうということの方に盛りあがる。
準備は出来ているつもり、いや、出来ているのだ。
イチローがマリナーズからヤンキースにトレード。








 

水曜日のおべんと箱「エアリルと銀の月」を観た

カテゴリー │演劇

21日(土)人形劇フェスティバルin いわたでの公演。
磐田市民文化会館ホールにて。
昨年磐田の公民館で同じ作品を観た。
公民館を中心に子どもたちのためにファンタジー作品を届けている。
その世界を具現化するセット、衣装、小道具が支えている。
30分という時間と世界の大きさのバランスが悩ましい感じもするが、いろんな状況の中、今の形になったと思う。
長編小説を子供向けの絵本にした感じ、というのがいいのかわからないが。




 

クリエート浜松で全国公募写真展「視点2012」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

16日(祝)最終日。
併催として、日本リアリズム写真集団浜松支部写真展も。
昨年に続き、鑑賞。
昨年はわずかだった震災に関する写真が今年は多く展示されていた。
昨年も震災後の写真展だったが、応募期間による。
多くの震災関連の応募作は今年の募集に回ったようだ。
最高賞である視点賞に選ばれた作品もモチーフは震災関連だった。
「厳冬 警戒区域」
福島第一原発半径20キロ以内の警戒区域で撮影された震災後1年目の福島の冬。
凍てつく海と、寄せ合った身に冷たい雪が降りしきる牛たち。
1年目で終わるわけではない。
2年目があるのだ。
一層波しぶきと雪が冷たく感じる。
ほかは「遊び場」という作品、豊川市の戦争の足跡をおさめた作品などが印象に残った。
また、演劇の写真でお世話になっている新野さんの写真も。
絡繰機械’Sの女優の稽古風景4点。
実は僕は芝居は稽古が一番面白いと思っている。
何といっても、変わるからだ。
でもそれを味わうにもとても根気がいる。
他人の稽古を見ることはとても大事なことだと思うが、自分の出番しか関心なかったりするからね。
もちろんそれでできればいいんだけど。









 

地域情報センターでM-planet「生まれたいヒト」を観た

カテゴリー │演劇

15日(日)18時~
女優2人による二人芝居。
ところが役はひとりが精子でひとりが卵子。
人が人として成り立つ以前の根源的な出会う場が物語の端緒となる。
精子と卵子の出会いは=生命の神秘であり、ドラマティックなのは疑いがない。
それをどう演劇に落とし込むか。
実はまともにやると、予想通り進む。
「受精し、育ち、生まれる」。
太陽の物語をやるとして、「日が昇り、照らし、沈む」の話の流れは動かしずらいのと同様、
話の流れは決まってくる。
そんなモチーフをどう演劇にするか、興味があった。
最初の何気ない出会いがいい。
街角で、「誰?」という感じで出会う。
ファンタジーの予感があったが、話はどちらかというと現実的な方向へ行く。
世に出る前に出た後のシミュレーションを試みるという趣向だ。
ただ、それは、世に出る前なので、本来はわからないのだから、ここはわからないことに徹してもいいと思った。
そこに冒険的要素も入り込む余地があるわけで、シミュレーションができてしまうというと
「なんだ、全部自分たちでわかっているじゃん」
と思ってしまうのだ。
わかっていない子どもという視点より、わかっている大人という視点というか。




 

浜松市美術館で「アール・ブリュット展」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

8日(日)、シネマe~raの前に行った。
副題は「生(き)の芸術とある。
フランスの芸術家ジャン・デュビュッフェが提唱し、アカデミックな美術の訓練や教養とは無縁で、人間の内側から湧き上がる衝動のままに表現した造形や創造を「アール・ブリュット」と呼んだ。(チラシ原文通り)
作品に添えられた略歴を読むと、彼らは福祉施設で、または病とつきあいながら、表現を続けている。
誰に表現せよ、と命じられているわけではない。
ただ描く、ただ書く、ただ塗る、ただ貼る、ただねじる、ただちぎる、ただ縫う、ただ並べる、ただ・・・、ただ・・・
ただ、したいから、した結果だ。
8月12日までやってます。
ぜひ観に来てください。
隣接する浜松城公園では、中学生たちが思い思いの場所に陣取って、写生をしていた。
暑そうだったが楽しそうだった。



タグ :浜松


 

シネマe~raで「少年と自転車」を観た

カテゴリー │映画

8日(日)16時10分~
監督はベルギ―のタルデンヌ兄弟。
少年は自転車をさがす。
少年は父がいるが、児童相談所に預けられている。
父に会いたいと願っている。
里親になってくれそうな女性があらわれる。
自転車は父の手により売り出されていた。
でも父に会いたいと願っている。
自転車は見つかり、手元に戻るが、また失う。
それは不良グループが仲間に誘おうと、意図的に盗んだ。
少年はグループのボスに気に入られ、自宅に招かれ、「闘犬」というニックネームを与えられる。
父が働くレストランに女性といっしょに会いに行くが、「もう来ないでくれ」と告げられる。
不良グループのボスが少年を可愛がったのも、目的があった。
ひったくりの実行者として利用するためだ。
以降、続くが、この映画はコトが淡々と過ぎていく。
ほんとうは大したことなのに、油断してると大したことが、何でもない日常のように過ぎていく。
大したことなんだから大したことらしく、それなりの大袈裟さで表すのが多くの表現の手段かもしれない。
ところが、この兄弟監督はもしかしたらほんとに関心がないのではないかというように淡々と処理する。
役者たちも淡々とコトだけを演じる。
実際に見える分はこんなものかもしれない。
賑わっている場所を歩いていて、誰が大きな不幸があったことがわかろうか。
誰が大きな幸せをつかんだことがわかろうか。
ただただ自転車が猛スピードで走くりまわっていたり、
乱暴に横倒しに転がっていたり、
意外とそんなとこに現われているのかもしれない。
多くは、単に子どもが子どもらしく自転車で遊んでいるだけであろうが。
降りる時、スタンドがあっても、横倒しに転がしておくのは、全く自分たちの子どもの頃と同じだなあと思った。

写真撮った時、たまたま前に自転車が止まっていた。






 

しょうがいぶつマラソンに参加した

カテゴリー │こんなことあった

7日(土)しょうがいぶつマラソン2012に参加した。
スタート地点である第一通り駅前から数々の「しょうがいぶつ」を乗り越えて、ゴール地点である浜松城公園にたどり着く。
浜松市発達医療総合福祉センターの20周年事業の一環で行われたとある。
美術家の深澤孝史氏をプロジェクトディレクターに実行委員会を組織し、運営。
閉会のあいさつで、実行委員長とディレクターが歩いていた時、「横断歩道をみんなで歩けるといいね」とか話したのがきっかけだそうだ。(言葉等はおおよそです)
このマラソンを基本的に形作るのはランナーとパフォーマーだ。
ランナーはスタートからゴールまで走る人。
といっても走るとは限らない。
パフォーマーは「しょうがいぶつ」となり、ランナーに立ちはだかる。
パフォーマーは募集要項では、コース上で「何か」してくれる人、とある。
演奏、ダンス、作業、朗読、囲碁、たたずむetc・・・あなたがふだんやってること、やりたいことをコース上で披露してみませんか?(原文まま)
パフォーマーたちはコースのあちこちにひそみ、ランナーたちが現われるたびに、パフォーマンスを披露する。
僕は、誘われて、パフォーマーのほんのひとりとして参加した。
スタート直後地点である、ゆりの木通り、万年橋ビル8階駐車場で、「めでたバンド」のほんのひとりとして賑やかした。
午前中のちょうど大雨が降っていた時、コンクリートでおおわれた駐車場でパフォーマンスした。
ランナーたちが去ると、午後から、浜松城公園駐車場前広場に移動。
空は午前の雨が嘘のように、すっかり晴れあがってた。
予報通りだったそうであるが。
広場はテントが張られ、飲食など出店が並んでいる。
そこに設けられたステージで「めでたバンド」はもうひとパフォーマンス。
ギターほか飛び入り参加者も含め、「ええじゃないか」とより一層賑々しく。
そのあと、ランナーたちはコースに入っている浜松美術館での企画展「アール・ブリュット展」を観るつもりだったが、進行が押したことと、万年橋に置いたままのモノを片付けねばならなかったので、15時30分の終了後、再び、万年橋ビルへ。
何かハリキリすぎて、筋肉痛の予感。
「アール・ブリュット展」は次の日に行こう。

写真は「万年橋に置いたままのモノ」3枚1セットのうち1枚「ええ」。(他は「じゃ」と「ないか」)






タグ :浜松


 

シネマe~raで「孤独なツバメたち」を観た

カテゴリー │映画

6月30日(土)14時35分~
監督である津村公博氏、中村真夕氏が上映後、舞台あいさつ。
浜松学院大学教授である津村氏が日系ブラジル人が多い浜松で行う週末の夜の調査。
それにテレビディレクターである中村氏が同行したことから、はじまった、とある。
なぜ浜松にブラジル人が多いかというと、母国ブラジルでは働き口が少なく、あったとしても収入が少ない。
そこで、カセグために日本にやって来るのだ。
家族でやってきて、子がいれば、彼らが異国である日本で過ごすことになる。
教育の問題、就業の問題は当然出てくる。
日本に来て働くことを「デカセギ」と言うそうだ。
もちろん地方から都会へ働きに来ることをいう「出稼ぎ」から来ている。
単身赴任のイメージが強い「出稼ぎ」と比べ、「デカセギ」は家族そろってやってくる人が多い。
それは彼らのファミリー意識の強さと結びついていると思う。
映画を観終わり思った。
日本人が全く出て来ない。
日系ブラジル人の若者を追ったドキュメンタリーなのだから?
いや、やはり同じ境遇の同じルーツを持つものどおしで付き合い、毎日を過ごすのだろう。
ブラジル人向けの託児所に子を預け、ブラジル人学校に通い・・・。
働き口が潤沢にあった頃は、異国である日本で、小さなブラジル人コミュニティをつくることで日々過ごすためには、必然だった。
そして、それでもまあ、よかった。
でも、いわゆるリーマンショック後、派遣の仕事がなくなり、働き場所を失った人たちは、母国ブラジルへ帰る。
日本で作っていたコミュニティから、友達が去る、恋人が去る・・・。
映画中、家族そろってブラジルに帰った15歳の少女がいる。
小さな頃、日本に来た彼女はほとんど思い出は日本にしかない。
恋人(同じブラジル人)ともわかれなければいけない。
彼女はブラジルに行きたくないと言う。
でも日本では学校に行っているわけでも働いているわけでもない。
15歳の少女らしく、日本の少女たちと同じようにファッションに興味があり、日本人歌手の曲を聴く。
ブラジルに戻った彼女をカメラは追う。
彼女はバスで働きに出ている。
一家の大事な稼ぎ手となってる。
その上、帰宅すると、夜間学校に通っている。
ブラジルには学校をすでに出たような人があらためて学びなおせるところが多くあるそうだ。
日本と比べ、やり直しがきく社会というようなことを言っていたが、実際どうなのかはわからないが。
僕には日本での彼女もブラジルでの彼女もどちらも生き生きしているように思えた。
人はいるところで生きるしかない。
どこかへ移動しても、そこで生きるしかない。










タグ :映画浜松


 

からっかぜアトリエで絡繰機械’S「シュバダバ」を観た

カテゴリー │演劇

6月24日(日)18時~
パンフに「エンターテイメントにてっした」とあるので、そうなのだろう。
盛り沢山だった。
盛りだくさん過ぎたといってもいい。
リンドバーグに次ぐという位置付けの女性飛行士が乗った飛行機が孤島に墜落する。
そこには流刑に処された者たちが集められている。
波打ち際に待ち構えるは、波の化身か・・・「白波」。
「ざぶ~ん」
願わくばずっとリアリズムでいってほしかった。
7人の役者たちはさまざまな役をかけめぐる。
セットも動かす。
それらはとても感心したが、物語性のある設定では
多少混乱を招く。
わからないという意味ではない。
観ている僕が具体性を求めるのだ。
それはひとえに最初の設定のせいだ。
抽象をあまり求めない。
物語にどっぷりつからせてくれと多大な期待を描くのだ。
ぎりぎりまでリアルでいくと「白波」がもっときいてくる。
と思った。
美術がとても美しい。
波模様と乱反射する陽光。
なんとも海ではないか。
さすが夏の公演だ。




 

野外劇場「有度」でSPAC「マハーバーラタ」を観た

カテゴリー │演劇

昼は野田秀樹、夜はSPAC。
6月23日(土)19時30分開演。
静岡芸術劇場から直通バスで野外劇場へ。
「マハーバーラタ」は古代インドの大叙事詩とある。
ただただ楽しい芝居なのだが、舞台真横の席に(かぶりつきといってもいいが、いかにも死角が多い)陣取ったため、常に首を上げた状態で、観疲れた。

ああ、オレは何回芝居を観ても、どこの席がベストなのかいつも迷う。
指定席だとあきらめがつくが、自由席であるとき、しばしば恨めしく思う時がある。
(太い人が座り)横が窮屈だとか、(高い人が座り)前が邪魔だとか、(遠くて)表情が見えないとか、(近くて)全体が見えないとか。

でも、文楽とか人形劇とか演歌とか琵琶法師とかアングラだとか祭りだとかテレビだとか楽屋落ちだとか仮装だとかケチャだとか、縦横無尽にぶちこんだ白絵巻は何とも贅沢な空間だった。

アフタートークで、演出の宮城さんが、「オリジンなどない。真似をすることで、人類は生き延びてきた」というようなことを話していた。