穂の国とよはし芸術劇場PLATで「人形の家 PART2」を観た

カテゴリー │演劇

9月23日(祝)13時~。
この日は、他にも行きたいなと思う公演がいくつかあった。
日が違えば、すべて行ったかもしれないが、
ネットを見ていて、この公演のチケットをポチッとおさえてしまった。

映画やテレビ番組は見逃しても後日何とか見る機会もあるが、
演劇の場合、多くは不可能だ。
大きな劇団のロングランや
レパートリーとして、継続して上演している作品以外は。

「人形の家」は言わずとしれたノルウェー人のイプセン作の古典劇だ。
イプセンは近代演劇の創始者だとか父と呼ばれていて、
シェイクスピア以降では世界中で最も上演されている劇作家と言われているそうだ。

僕は新潮文庫の戯曲を一度読んでいるはずだし、
堤真一さんや宮沢りえさんが出演された芝居を一度観ているはずだが、
内容をイマイチ把握していない。
そこで、あらためて戯曲を読んでみた。

「女性が自立する話」というと
封建的な男性社会の中、
虐げられ、スポイルされた存在の女性が、
自らの尊厳を求めて、外に出る、というイメージがあるが、
「人形の家」のノラは、
美貌にも恵まれていて、
弁護士であり、これから銀行の頭取になろうというエリートの旦那に愛され、
3人の子供に恵まれ、
女中や乳母もいる豪勢な家に住んでいて、
金に糸目をつけぬ買い物が出来る立場で、
クリスマスには自宅で友人たちを呼ぶ
仮装パーティーが開かれる。
何てうらやましい!

そこにいったい何の不満があるのだろう?
最後、ドアを開けて外へ出る結末のきっかけは
夫への愛情故とはいえ、
夫へ相談なしに金を借り、
ウソがばれぬ為にサインを偽造したことが、
まさにこの日、夫にばれそうになるのを
ごまかそうとしたことである。

話のほとんどは
ノラがその嘘がばれぬようとりつくろうことで
展開する。
そこには高邁で建設的な思想があるわけではないし、
言ってみれば自業自得である。
同情の余地があるのだろうか??

それがクライマックスでばれる羽目になり、
今まで妻を可愛がっていた夫の逆鱗に触れることになり、
互いに今まで腹にしまっていた思いをぶつけ、
そこではじめて、「本当の話ができた」と、
自我に目覚めて、結果、
家も夫も子供も捨て、
ドアから外に出て行く。

ほんの数分前は出て行こう何て思ってもいなかった。
自己保身のためにいろいろと画策していた。
じゅうぶんまわりに愛嬌を振りまきながら。
言ってみれば、突発的な出来事だ。
出て行ったあと、何をする?
そんなことは全く考えていない。
とにかく、家を出た。
それだけである。

夫との対話の中ですべて決断してしまった。
そこでは子供たちの心の中は触れられていない。
女中や乳母たちの心の中も触れられていない。
今ある環境をすべて投げ捨ててたったひとり外へ出た。
その状況が残されたまま幕を閉じる。

外はどんな荒波が待ち受けているのか?
ノラを受け止める世間は?
果たして、自分の尊厳を満喫できる場所なのか?
それらは観客や(戯曲の)読者に委ねられる。

僕は「人形の家」が女性の自立を描いたものだとは思わない。
固定化された関係性を
ひとり捨てて出て行く話。
たまたまそれが妻であり、母である立場の人だった。
登場人物の誰もがいい点もあるが、
それ以上に欠点も持ち合わせている。
だから本当はどんな立場の人でも
自分に置き換えることができる話なのである。

「人形の家PART2」は
ノラが出て行って15年後を
アメリカの劇作家ルーカス・ナスによって書かれた。
1879年にイプセンの
「人形の家」から138年後の
2017年にアメリカで上演された。

作品の中では15年後だが、
書いたのはイプセンと別人だし、
時代もまったく違う現代だ。
現代の状況は現れてくるだろう。

当時は、階級や性別により役割が決まっていて、
不自由のようだが、
その役割に徹していれば、
むしろ生きやすかったのかもしれない。
夫は夫の役割、
妻は妻の役割、
乳母は乳母の役割、
子供は子供の役割。

その役割に疑問を持ち、
それを手放すことは
自由を求めてのことだろうが、
出た場所で
自由に生きることができるかどうかは別の話。
後ろ盾がない中、
そこは
ひとりぼっちで寂しい荒野かもしれない。
そしてそれは
一見自由に見える
現代の方が色濃いのかもしれない。

出版されている戯曲を読んでみた。
空間の設定にこうある。

“芝居はひとつの部屋の中で展開する。
部屋の中はがらんとしている。
椅子がいくつかある。
テーブルがひとつあってもいい。
他にはほとんど何もない。
討論会場のような感じが少しするとよい。”

クリスマス期間を舞台にした
「人形の家」の設定とは真逆である。
物言わぬ存在であった乳母や
小さかった子供が物言う人になっている。

一方的な自信家だった夫が
自信を失いおびえたままでいる。
ようやく“人形”であった存在のノラと
対等に話せるようになったのかもしれない。
15年という月日がたって。
“人間”として?

その結果がハッピーエンドとは限らない。
いやむしろハッピーエンドのはずがない。
15年前に問題だったことは
15年たっても問題のままだ。
いやむしろ問題はもっと大きくなっている。

作者であるルーカス・ナスは
イプセンと違うことを書こうとしたのではない。
イプセンと同じことを書こうとした。
現代の作家として。
現代の人に向けて。

結論は
やはり再びさっそうとドアを開けて出て行く。
たぶん更に15年後に戻ってきたとしても同じだろう。
次に誰が書くにしても。





 

月見の里公園でSPAC 野外劇「走れメロス 袋井編」を観た

カテゴリー │演劇

9月21日(土)15時~
ふくろい野外音楽芸術フェスタ in 月見の里
の中の演目のひとつとして行われた。

前日の20日にはラグビー ワールドカップの開幕戦が
東京で行われた。
28日には袋井市にあるエコパスタジアムで
日本×アイルランド戦がある。

SPACによる野外劇「走れメロス 袋井編」が
ラグビーをモチーフにしたのは
地元で開催されるワールドカップの盛り上げの一役を買って
というのは想像に難くない。

ラグビーワールドカップとずれるが、
僕は、同じ世界的スポーツイベントである
オリンピックの開会式を観るのが好きである。
都市開催であるが、国の威信をかけて、
その国の文化資産を駆使して、
その国の魅力を表現する。

目的は、
世界中の人に
その国を知ってもらうことだと思う。

来年行われる東京オリンピックの開会式・閉会式の演出メンバーとして、
統合総括の野村萬斎さん他8名が選ばれている。
そのうち2名が㈱電通の社員さんのようだが。
チームと言うのが日本らしい。

映画、音楽、演劇、ダンス、アートなど
さまざまな要素が使われるが、
それは映画ではないし、音楽ではないし、もちろん演劇でもない。
あくまでもスポーツの大会であるオリンピックを彩る
イベントための演出として活用されるというだけのことである。

オリンピックを盛りあげるために
関連イベントも開かれることだろう。
ただし、例えばオリンピックの競技から外れている
スポーツ種目の
「東京オリンピック記念 〇〇大会」なんてのは意地でも開かないであろう。
ただし、今回の野外劇のように
オリンピックを記念しての演劇公演なんてのは上演されるかもしれない。

ただし、だからと言って、
例えば日本のメダル獲得率の高い主要種目
水泳、柔道、女子レスリングなどの世界をそのままやろうとしても
スポーツと演劇はまったく違う。
スポーツ的要素で勝負しても
競技者には到底かなわない。
陳腐なものになるのは確実だ。
演劇ならではの手法で
演劇を作り切らなければならない。
むしろ題材であるスポーツを食うぐらいの意気込みで。

1912年のストックホルム大会から
記録映画の制作が行われているそうだが、
1936年のヒットラー政権下で開催されたのベルリン大会
での記録映画はナチズムのプロパガンダとして
非難を浴びたそうである。

1964年の東京大会での市川崑監督による
記録映画は「芸術か記録か」という論争を巻き起こしたということだ。
本編を僕は観ていないので、
調べた範囲で言うが、
映画の冒頭は
会場建設のためのビルの解体工事の場面から
始まる。

新しい時代や価値観が始まるという予感を感じさせるが、
競技自体とは全く関係ない。
当時のオリンピック担当大臣は試写を観て
「ちっともわからん」
「記録性を無視したひどい映画」と切り捨てたそうだ。
その後、制作会社から監督に指示があり、
記録の場面が追加され上映される。

市川監督は
あくまでも東京オリンピックを題材にした
映画を撮ろうとしたのである。
現在大河ドラマで描かれているが
紆余曲折を経て、
実現した東京オリンピックに伴う、
“日本そのもの”を描こうとしたのだ。
だから、建設現場の槌音も重要なファクターだったのだ。

この日は地域のファミリーイベントという雰囲気で
老若男女さまざまな層の人が
会場に訪れていた。

少し早めに着いたので、少しだけ他を回っていたら、
演目を終えたらしい大道芸人が担当者と一緒に
子供たち(+大人たち)に向け、
お菓子撒きをしていた。
飲食ブースも多数出ていた。

演劇なんか観たのいつ以来だろう
という人も多くいたと思う。
誰でも観ることができる無料公演なので、
対象に配慮することも必要なのだろう。

ラグビーを題材にしたドラマ「スクールウォーズ」の
テーマソング「ヒーロー」の歌唱から
演劇は始まった。
太宰治の「走れメロス」を題材にしているせいか
ラグビー部員たちのユニホーム姿を見た時、
天下一武闘会?と思った。
ドラゴンボールの。





 

クリエート浜松ふれあい広場で「ちいさな賢治祭 in 浜松2019」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

9月16日(祝)14時~

毎年この時期に行われている催し物であるが、
何年も前に最初に行ったのは
「人体交響劇」という言葉に引かれたからだ。

少し調べてみた。
1982年に詩人の谷川雁さんの呼びかけのもと、
「ものがたり文化の会」という団体が発足し、
谷川さんにより、衣装も照明も大道具も使わない
からだと声だけで、
表現する「人体交響劇」というパフォーマンスが考案された。

この手法がなかなか面白い。
グループを三分割する。
セリフを言う言語班、
身体を動かす視覚班、
この二つに分けることは
時として両立しない両者を
切り離すことで、表現をしやすくする役割を持つ。
役者というものは両者を同時に成立させなければいけないので、
苦労する。

ところがセリフを述べる班とパントマイムをする班の二つだけだと
猿回しと猿のような従属関係が出来てしまう。
そこで、物語から聞えてくる音を
観客の目に見えるように音で表現する
聴覚班というのを設けた。

これはいわば、
演劇の中で起こりがちな
例えば主役とわき役の存在など
権力構造から脱する目的も持つ。
つまり、物語もプロローグからエピローグまでに何か所か分割し、
言語、視覚、聴覚の役割も交代することで、
演者はすべての立場を経験することができる。

ただし、観客の満足より、
ここでは多く参加する子供たちを想定し、
子供たちにとって、いいことだということが優先される。
つまり教育の為という側面が強いのだろう。

主催の事務局として、浜松ものがたり文化の会、とある。
ものがたり文化の会と関連があるのだろう。

今回は「人体交響劇」の演目がなかった。
調べたある情報では261人の子供が参加したと書いてあった。
それらの人数が言語、視覚、聴覚に3分割され、
宮沢賢治の童話を演じる。
これは相当な迫力だろう。

ただし、それだけの人数を集めるのは難しい。
学校単位とか町単位での参加が必要だろう。

そこまで行かなくても人数が多い方が面白い。
今回のちいさな賢治祭では、
「人体交響劇」の演目はなかった。
参加する子供を確保するのが難しいのかもしれない。

その代わり、それぞれの分野の表現者たちが
宮沢賢治を題材に表現した。
紙芝居、朗読、歌と演奏、
そして、お話。

宮沢賢治の名を小惑星の名に命名した曰くを
話された米田康男さんは、
愛知県に住まわれていて、
中日新聞で「ちいさな賢治祭」の記事を読み、
観に来て、お手伝いを申し出たそうだ。