2019年09月30日22:06
穂の国とよはし芸術劇場PLATで「人形の家 PART2」を観た≫
カテゴリー │演劇
9月23日(祝)13時~。
この日は、他にも行きたいなと思う公演がいくつかあった。
日が違えば、すべて行ったかもしれないが、
ネットを見ていて、この公演のチケットをポチッとおさえてしまった。
映画やテレビ番組は見逃しても後日何とか見る機会もあるが、
演劇の場合、多くは不可能だ。
大きな劇団のロングランや
レパートリーとして、継続して上演している作品以外は。
「人形の家」は言わずとしれたノルウェー人のイプセン作の古典劇だ。
イプセンは近代演劇の創始者だとか父と呼ばれていて、
シェイクスピア以降では世界中で最も上演されている劇作家と言われているそうだ。
僕は新潮文庫の戯曲を一度読んでいるはずだし、
堤真一さんや宮沢りえさんが出演された芝居を一度観ているはずだが、
内容をイマイチ把握していない。
そこで、あらためて戯曲を読んでみた。
「女性が自立する話」というと
封建的な男性社会の中、
虐げられ、スポイルされた存在の女性が、
自らの尊厳を求めて、外に出る、というイメージがあるが、
「人形の家」のノラは、
美貌にも恵まれていて、
弁護士であり、これから銀行の頭取になろうというエリートの旦那に愛され、
3人の子供に恵まれ、
女中や乳母もいる豪勢な家に住んでいて、
金に糸目をつけぬ買い物が出来る立場で、
クリスマスには自宅で友人たちを呼ぶ
仮装パーティーが開かれる。
何てうらやましい!
そこにいったい何の不満があるのだろう?
最後、ドアを開けて外へ出る結末のきっかけは
夫への愛情故とはいえ、
夫へ相談なしに金を借り、
ウソがばれぬ為にサインを偽造したことが、
まさにこの日、夫にばれそうになるのを
ごまかそうとしたことである。
話のほとんどは
ノラがその嘘がばれぬようとりつくろうことで
展開する。
そこには高邁で建設的な思想があるわけではないし、
言ってみれば自業自得である。
同情の余地があるのだろうか??
それがクライマックスでばれる羽目になり、
今まで妻を可愛がっていた夫の逆鱗に触れることになり、
互いに今まで腹にしまっていた思いをぶつけ、
そこではじめて、「本当の話ができた」と、
自我に目覚めて、結果、
家も夫も子供も捨て、
ドアから外に出て行く。
ほんの数分前は出て行こう何て思ってもいなかった。
自己保身のためにいろいろと画策していた。
じゅうぶんまわりに愛嬌を振りまきながら。
言ってみれば、突発的な出来事だ。
出て行ったあと、何をする?
そんなことは全く考えていない。
とにかく、家を出た。
それだけである。
夫との対話の中ですべて決断してしまった。
そこでは子供たちの心の中は触れられていない。
女中や乳母たちの心の中も触れられていない。
今ある環境をすべて投げ捨ててたったひとり外へ出た。
その状況が残されたまま幕を閉じる。
外はどんな荒波が待ち受けているのか?
ノラを受け止める世間は?
果たして、自分の尊厳を満喫できる場所なのか?
それらは観客や(戯曲の)読者に委ねられる。
僕は「人形の家」が女性の自立を描いたものだとは思わない。
固定化された関係性を
ひとり捨てて出て行く話。
たまたまそれが妻であり、母である立場の人だった。
登場人物の誰もがいい点もあるが、
それ以上に欠点も持ち合わせている。
だから本当はどんな立場の人でも
自分に置き換えることができる話なのである。
「人形の家PART2」は
ノラが出て行って15年後を
アメリカの劇作家ルーカス・ナスによって書かれた。
1879年にイプセンの
「人形の家」から138年後の
2017年にアメリカで上演された。
作品の中では15年後だが、
書いたのはイプセンと別人だし、
時代もまったく違う現代だ。
現代の状況は現れてくるだろう。
当時は、階級や性別により役割が決まっていて、
不自由のようだが、
その役割に徹していれば、
むしろ生きやすかったのかもしれない。
夫は夫の役割、
妻は妻の役割、
乳母は乳母の役割、
子供は子供の役割。
その役割に疑問を持ち、
それを手放すことは
自由を求めてのことだろうが、
出た場所で
自由に生きることができるかどうかは別の話。
後ろ盾がない中、
そこは
ひとりぼっちで寂しい荒野かもしれない。
そしてそれは
一見自由に見える
現代の方が色濃いのかもしれない。
出版されている戯曲を読んでみた。
空間の設定にこうある。
“芝居はひとつの部屋の中で展開する。
部屋の中はがらんとしている。
椅子がいくつかある。
テーブルがひとつあってもいい。
他にはほとんど何もない。
討論会場のような感じが少しするとよい。”
クリスマス期間を舞台にした
「人形の家」の設定とは真逆である。
物言わぬ存在であった乳母や
小さかった子供が物言う人になっている。
一方的な自信家だった夫が
自信を失いおびえたままでいる。
ようやく“人形”であった存在のノラと
対等に話せるようになったのかもしれない。
15年という月日がたって。
“人間”として?
その結果がハッピーエンドとは限らない。
いやむしろハッピーエンドのはずがない。
15年前に問題だったことは
15年たっても問題のままだ。
いやむしろ問題はもっと大きくなっている。
作者であるルーカス・ナスは
イプセンと違うことを書こうとしたのではない。
イプセンと同じことを書こうとした。
現代の作家として。
現代の人に向けて。
結論は
やはり再びさっそうとドアを開けて出て行く。
たぶん更に15年後に戻ってきたとしても同じだろう。
次に誰が書くにしても。

この日は、他にも行きたいなと思う公演がいくつかあった。
日が違えば、すべて行ったかもしれないが、
ネットを見ていて、この公演のチケットをポチッとおさえてしまった。
映画やテレビ番組は見逃しても後日何とか見る機会もあるが、
演劇の場合、多くは不可能だ。
大きな劇団のロングランや
レパートリーとして、継続して上演している作品以外は。
「人形の家」は言わずとしれたノルウェー人のイプセン作の古典劇だ。
イプセンは近代演劇の創始者だとか父と呼ばれていて、
シェイクスピア以降では世界中で最も上演されている劇作家と言われているそうだ。
僕は新潮文庫の戯曲を一度読んでいるはずだし、
堤真一さんや宮沢りえさんが出演された芝居を一度観ているはずだが、
内容をイマイチ把握していない。
そこで、あらためて戯曲を読んでみた。
「女性が自立する話」というと
封建的な男性社会の中、
虐げられ、スポイルされた存在の女性が、
自らの尊厳を求めて、外に出る、というイメージがあるが、
「人形の家」のノラは、
美貌にも恵まれていて、
弁護士であり、これから銀行の頭取になろうというエリートの旦那に愛され、
3人の子供に恵まれ、
女中や乳母もいる豪勢な家に住んでいて、
金に糸目をつけぬ買い物が出来る立場で、
クリスマスには自宅で友人たちを呼ぶ
仮装パーティーが開かれる。
何てうらやましい!
そこにいったい何の不満があるのだろう?
最後、ドアを開けて外へ出る結末のきっかけは
夫への愛情故とはいえ、
夫へ相談なしに金を借り、
ウソがばれぬ為にサインを偽造したことが、
まさにこの日、夫にばれそうになるのを
ごまかそうとしたことである。
話のほとんどは
ノラがその嘘がばれぬようとりつくろうことで
展開する。
そこには高邁で建設的な思想があるわけではないし、
言ってみれば自業自得である。
同情の余地があるのだろうか??
それがクライマックスでばれる羽目になり、
今まで妻を可愛がっていた夫の逆鱗に触れることになり、
互いに今まで腹にしまっていた思いをぶつけ、
そこではじめて、「本当の話ができた」と、
自我に目覚めて、結果、
家も夫も子供も捨て、
ドアから外に出て行く。
ほんの数分前は出て行こう何て思ってもいなかった。
自己保身のためにいろいろと画策していた。
じゅうぶんまわりに愛嬌を振りまきながら。
言ってみれば、突発的な出来事だ。
出て行ったあと、何をする?
そんなことは全く考えていない。
とにかく、家を出た。
それだけである。
夫との対話の中ですべて決断してしまった。
そこでは子供たちの心の中は触れられていない。
女中や乳母たちの心の中も触れられていない。
今ある環境をすべて投げ捨ててたったひとり外へ出た。
その状況が残されたまま幕を閉じる。
外はどんな荒波が待ち受けているのか?
ノラを受け止める世間は?
果たして、自分の尊厳を満喫できる場所なのか?
それらは観客や(戯曲の)読者に委ねられる。
僕は「人形の家」が女性の自立を描いたものだとは思わない。
固定化された関係性を
ひとり捨てて出て行く話。
たまたまそれが妻であり、母である立場の人だった。
登場人物の誰もがいい点もあるが、
それ以上に欠点も持ち合わせている。
だから本当はどんな立場の人でも
自分に置き換えることができる話なのである。
「人形の家PART2」は
ノラが出て行って15年後を
アメリカの劇作家ルーカス・ナスによって書かれた。
1879年にイプセンの
「人形の家」から138年後の
2017年にアメリカで上演された。
作品の中では15年後だが、
書いたのはイプセンと別人だし、
時代もまったく違う現代だ。
現代の状況は現れてくるだろう。
当時は、階級や性別により役割が決まっていて、
不自由のようだが、
その役割に徹していれば、
むしろ生きやすかったのかもしれない。
夫は夫の役割、
妻は妻の役割、
乳母は乳母の役割、
子供は子供の役割。
その役割に疑問を持ち、
それを手放すことは
自由を求めてのことだろうが、
出た場所で
自由に生きることができるかどうかは別の話。
後ろ盾がない中、
そこは
ひとりぼっちで寂しい荒野かもしれない。
そしてそれは
一見自由に見える
現代の方が色濃いのかもしれない。
出版されている戯曲を読んでみた。
空間の設定にこうある。
“芝居はひとつの部屋の中で展開する。
部屋の中はがらんとしている。
椅子がいくつかある。
テーブルがひとつあってもいい。
他にはほとんど何もない。
討論会場のような感じが少しするとよい。”
クリスマス期間を舞台にした
「人形の家」の設定とは真逆である。
物言わぬ存在であった乳母や
小さかった子供が物言う人になっている。
一方的な自信家だった夫が
自信を失いおびえたままでいる。
ようやく“人形”であった存在のノラと
対等に話せるようになったのかもしれない。
15年という月日がたって。
“人間”として?
その結果がハッピーエンドとは限らない。
いやむしろハッピーエンドのはずがない。
15年前に問題だったことは
15年たっても問題のままだ。
いやむしろ問題はもっと大きくなっている。
作者であるルーカス・ナスは
イプセンと違うことを書こうとしたのではない。
イプセンと同じことを書こうとした。
現代の作家として。
現代の人に向けて。
結論は
やはり再びさっそうとドアを開けて出て行く。
たぶん更に15年後に戻ってきたとしても同じだろう。
次に誰が書くにしても。