メロープラザ多機能ホールで市民劇団メロー「佐喜太郎と白い雲」を観た

カテゴリー │演劇

2月18日(日)14時~

先週に続き、メロープラザ。
いつもと同じく、西方面から車で訪れ駐車場に停めると、ホールを裏側からしか見る事が出来ない。
今度はあえて東方面に回り込んで訪れてみようか。
この日は曇り空だったが、天気が良く暖かい日は、外で過ごしてみたいと思う。

裏玄関から建物に入り、廊下を歩いたのち、曲がるとホールに至るエントランス部分には少しだけ距離がある。
スタッフの方に受付場所の紹介と共に、壁に展示された掲示物をご覧くださいと案内される。

地域を見つめ作品を創ったと言う。
前期講座で『地元』を題材に脚本を書くワークショップを行い、
参加者が書き上げた物を融合させてまとめた脚本を、
後期講座の演技ワークショップの参加者が演じるという企画。

壁の掲示物には、今回の作品のあらすじが書かれたパネルと共に、各登場人物を描いた絵が飾られていた。
これが味わいのある見事な絵で、配られたパンフレットにも登場人物相関図として掲載されている。
布井浅彦、浅羽佐喜太郎、ファン ポイ チャウ、龍神オガ様、ハヤ、黒い龍、父ちゃん、芝村の小太郎、アオサギ。
それらをながめた後、受付からホール内に入る。

いつもこの会場に来ると思うのは、駐車場の誘導や受付などスタッフの方はどのような人たちなのだろうか?ということ。
主催にNPO法人メロープラザサポータークラブ、とあるので、地域の人たちが、協力されているのではないだろうか?
年齢層が高く感じるのは、現在の「地方」というのを表しているのかもしれない。
地域や文化のあり方など、丁寧で前向きな対応をうけながら、しばし考えて見たりする。

場内アナウンスによる入念な注意案内の後、
閉じた幕の前で、ふたりの掛け合いで、企画や話のあらましが紹介される。
幕が上がり、地元の歴史学者・布井が、袋井の茶畑から発見された古い梵鐘について語る。

医師である佐喜太郎は袋井の地で、日本退去命令が出ているベトナム独立運動の指導者ファン ポイ チャウと別れた後、
突風により異世界に飛ばされる。

役の衣装を着た出演者が台本を手に動いているので、これは本来やろうとしていたことなのか、
わからないまま、ファンタジーに入っていく舞台をながめる。
帰宅後、パンフレットに、「朗読劇」と記されていた。
個人的には、朗読か演劇かどちらかにシフトした方がいいのではないかと思った。

「動読」という概念(動きながら台本を手に朗読する事)を提示された役者の公演を観たことがあるが、
これはこれで様式を確立することに腐心している。

異世界でダンサー的動きをしながらしゃべるアオサギが登場するが、
どうしても最新作の宮﨑アニメを思い出してしまうではないか?

でもネットを調べたら、袋井市ではアマサギ、ヒヨドリ、アオサギ、カワラヒワ、モズなど53種類の野鳥の観察実績があると、
Zoo Pickerというサイトで触れている。

身近なサギの種類として、アオサギ、アマサギ、ゴイサギ、コサギ、チュウサギ、ダイサギと6種あり、
何と、よく使うシラサギという名前の鳥はいないそうだ。
白いサギをまとめて、シラサギと呼んでいるに過ぎないそうだ。

これからサギを見かけたら、気をつけて見ようと言いたいところだが、
ハトだ、スズメだ、カラスだ、サギだ、くらいの野鳥への認識しかない僕は、
この先実行する自信はない。

アンケートには、次回ワークショップ参加の募集もあった。
次年度に続く!!






 

メロープラザ多機能ホールで演劇集団es「さっきまで雨だった」を観た

カテゴリー │演劇

2月11日(日)13時30分~


演劇集団esにとり、20周年公演だと言う。
今回は第12回公演と言うが、パンフレットの年表を見ると、
その間には、イレギュラーな公演もたくさんある。
自ら企画を組むこともあれば、外部の企画に参加する場合もあっただろう。
本公演とは別に、つながりを求めて、違う形を見出していくのは、集団の特徴かもしれない。

その内、2006年11月はままつ演劇・人形劇フェスティバルのユニットライブでは、
僕もフィールドという劇団で参加していて、クリエート浜松でそれぞれの作品を上演した。
その時、演劇集団es結成3年目。

2003年4月17日にあるホールの物置で6名で結成されたという詳しい経緯は知らない。
集団名のesは、Mr.Chirdrenの『【es】〜Theme of es〜』(1995年のシングル曲)に影響を受けたのかもと思ってみるが、
その確証はない。

esとは、フロイトが人の心を3要素に分けた心理学の用語。
欲求や感情など動物的本能であるエス(esはドイツ語)、
親や周囲から教えられたしつけである超自我(スーパーエゴ)、
それら相反する両者をコントロールする、自我(エゴ)。
そのようにバランスを取りながら、現実での実際の行動を選択し判断しながら、人は生きているのだと言う。

〇〇したいという「欲求や感情」がじゃまをする「障害」によりさえぎられ、心の中の「葛藤」が起こり、
それが原因として変化(ドラマ)が生まれる。
演劇、映画やドラマでも、このようにして、ストーリーは動いていくものである。

当然、演劇をやろうと集まって来た人たちには、それぞれの始める理由「欲求や感情」がある。
「演劇」を究めたい!と言う人もいれば、
「演劇」を楽しみたい!と言う人もいる。

今回、タイトルのある6本の短編作品の上演となっているが、それらが同じ地平で重なっているのが特徴。
1本の長編作品とも言える。

登場人物たちが持つそれぞれの「感情や欲求つまりes」は何かしらの「障害」によりじゃまをされている。

1本目の「結婚のゆるし」では、彼氏と実家に結婚の許しをもらいに来て、対峙しているのは兄だ。
父は1年前に亡くなり、母は忙しく、また体調を崩すこともある。
兄が妹の結婚相手が非正規雇用であることを理由に結婚に反対するが、
それは本来その役割を果たすべき父親が不在ゆえに「父」の役を負っているからだ。
コミカルな悪役の様なコスチュームで行うヒーローショーのバイトも、
父不在ゆえ、正義感溢れるものに、特別な思いを抱いているのかもしれない。

2本目の「雨が降ったら」では、ひとりの女性が突然の雨に雨宿りに木の下に駆け込むとそこには先客がいる。
見知らぬ同士の偶然の出会いから、会話が始まり、
明かされるそれぞれ抱える大切な人の「不在」。
ひとりの女性は仕事をしているアメリカから帰って来たと言い、
それは後につながる。

3本目の「靴を磨きに(また別の話)」は、下の妹の結婚式に出る時の父の形見の革靴を磨いてもらいに来た
靴磨き職人との会話。
話しをしている中、10年前に死んだ父がここに何度も訪れていたことを知る。
靴磨き職人が常連を失うことも、ひとつの「不在」を抱えるということ。
商売なら、他の店に移るとか、革靴を履かないようになるとか、珍しいことではない。
10年の時を経て、その息子が同じ靴を持って訪れることで、
客の死を知り、彼の娘の結婚を知る。

兄にはふたり妹がいて、結婚しようというのは下の妹。
彼女は夫を早くに失い、子供三人を育て上げてきた母の姿を見ているからか、
夫になる相手には、例えば多く稼いでくれるとか、経済的なことを条件に考えていないようだ。
つつましく生きるとか、何なら自分も働くという気持ちがあるのだろう。
4本目の「ちいさな景色」では、帰宅した娘のために、彼女が大好きなにんにくたっぷりのカレーをつくろうということから、
彼女が知らなかった母の思いを知る展開となる。
柔道をやっていて強かった母とかよわい父との若かりし頃の出会い。
母は、夫が死んでから、どこか無理をし、心に重しを持ち続けていたのかもしれない。

5本目の「兄と妹の話」の舞台は、認められ、無事行われるふたりの結婚式。
雨宿りの時の先客の女性は式場スタッフとして奔走している。
ただし、母は体調不良で欠席と言う横たわる「不在」。
アメリカからやって来た女性は結婚する女性の姉。
突然の指名で挨拶をふられ戸惑う兄の妹。
三人兄妹が久しぶりに揃うことになる。
同じテーブルに同席する兄と妹は、父の不在により、埋まらない葛藤を少し溶かす。

体調が回復した母の元にひとりの男性があらわれる。
リアルな世界が、ここだけファンタジーとなり、心の中の「不在」を埋める会話の場面で幕を閉じる。
そんな6本目のタイトルは「さっきまで雨だった」。

登場人物の「感情や欲求つまりes」は演劇の時間を経て、変化し、それぞれ帰着する。
それは、集団の人たちの思いとも無縁ではないだろう。

20周年おめでとうございます!






 

浜北文化センターでSPAC「伊豆の踊子」を観た

カテゴリー

2月10日(土)13時30分~

原作である川端康成の小説「伊豆の踊子」は映画化、テレビドラマ化、ラジオドラマ化、舞台化などさまざまな形で活用されている。
映画化だけでも、踊子役が田中絹代(1933)、美空ひばり(1954)、鰐淵春子(1960)、吉永小百合(1963)、内藤洋子(1967)、山口百恵(1974)と6度行われている。

作者の川端康成は、1918年の秋、19歳の時、初めて伊豆を旅し、旅芸人の一行と道連れになり、以後10年の間、毎年出かけたと、新潮社文庫本の年譜にある。
短編小説「伊豆の踊子」が発行されたのが1926年1月、27歳の時。

20歳の一高生(現在の東大)が旅先の天城を登る道で雨宿りに寄った茶屋で旅芸人一行と出くわし、
14歳の踊子と恋心を通わせる話。

台本・演出の多田淳之介さんによると、「観光したような気分にもなり、観光に行きたい気分にもなる、その場所やそこにいた人々に思いを馳せてもらえる“観光演劇”を目指した」と、
当日パンフに記されている。

客席の背後から役者が登場したり、「天城越え」や「青い珊瑚礁」やビヨンセやレディ・ガガなどポピュラーな音楽をふんだんに使い、
サービス精神あふれた演劇。
(ラストの曲、良く聴く音楽だったが、曲名を思い出せない‥‥‥)

過去と現代を合わせたようなちょっとやさぐれた旅芸人の衣装、三味線や太鼓の演奏、ミラーボール、ディスコダンスにラップなど、
いろいろ手数を繰り出してきたなあという印象。
抽象的で幅広い言い方だが、『POP(ポップ)』という言葉が、良く当てはまる気がした。
その中で、差別やLGBTQなど古くもあり新しくもあるテーマが盛り込まれている。
それも含め、あふれる雑多感。
それは演出の明確な意図だろう。
入場時には、ピンク色の「踊子シール」まで頂いた。
欲張りな観客たちのために。

舞台上に料亭や旅館の渡り廊下のようなセットが有り、そこで、道行というか、旅をする過程を表現。
背後には、プロジェクターで伊豆の各所の風景や旅館の欄間のような模様が映像で映し出され、舞台美術を補完する。
映像監修は『踊る大捜査線シリーズ』で有名な、映画監督でもある本広克行さん。
映像は使う使わないは別に、現在の演劇表現にとり大きなアイテムとなっているのは間違いないだろう。
映画のCGのように。

セットを降りると、上手や下手は、宿屋や女郎屋や映画館となり、さまざまな場面が演じられる。
僕は下手側の最前列の席だったので、逆の上手側での場面は、とても見にくい。
そのような客席による差別感も演劇と言うジャンルのひとつの特徴。
役者からより近い席をと珍しく最前列を選んだが、うまく行かないところもある。

旅芸人の旅路には途中、所々に「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立て札。
このような道を、言いつけ(建前でもある)をきかず大手を振って通ることで、新しい道が開ける。
そんなところが、テーマなのかもしれないと思ってみる。

小説はずいぶん前に読んだが、あまり覚えていなくて、
観劇の勢いで、6作ある映画化された作品の内、
レンタルショップにあった山口百恵版、吉永小百合版、美空ひばり版の3本をまとめて借り、
観てみた。
小説もあらためて読み直した。

一時期、営業の仕事で伊豆方面に車で行っていて、
下田への遠い距離感など、それも今回の観劇に重なった。