静岡芸術劇場でSPAC「授業」を観た

カテゴリー │演劇

10月28日(日)14時~

「授業」はルーマニア人であり、フランスで活動した
劇作家イヨネスコの作品である。
不条理劇の代表的な作家のうちの一人。

不条理劇は、
二度の世界大戦を経験した
世界の不毛を実感したおもにヨーロッパの人たちが
新しい演劇理論を生み出す必要があった状況の中、
発生した。

つまり、軍艦や戦闘機はもとより、
核兵器まで生み出した人間世界で、
個人の無力化、、諦念感。
世界は誰も助けてはくれない。
世界は変わらないのだ。

従来の物語は意味をなさなくなった。
リアリズム劇はファンタジーとなり、
不条理劇がリアリズムとなった。

もちろん従来の物語がなくなるわけではない。
人は演劇の中で夢を見たいし、
勇気付けられたいし、
癒されたい。

世界は変わらないという不条理劇の構造は
不条理劇と呼ばれるもののみならず、
あらゆる表現に現れている。

「授業」は登場人物が3人の
とてもシンプルな話の筋を持つ戯曲である。
授業を受けに来た生徒を使用人が案内し、
生徒は老教師の授業を受けるのだが・・・。

演出の西悟志さんは、
主宰劇団の解散により、
しばらく、活動をおこなっていない時期があったようである。
近頃再開し始め、
芸術監督の宮城聡さんより声を掛けられ今回の抜擢に至ったということだ。

1名であるはずの老教師を3名の役者が演じていた。
この手法は決して珍しくはない。
繰り返しの手法とともに
分担は、現代ではよく使われる。
3人のタイプの違う役者たちは
それぞれ芸達者で、
ひとつの見事なアンサンブルを見せる。

繰り返しや分担は
不条理劇の現代的な発展形だと考える。
繰り返しは時間を差し替え可能なものにする。
分担は人物を差し替え可能なものにする。
時間と人物を無力化する。
それがむしろリアリティを帯びる。

「授業」は戯曲をそのまま演じると
1時間を少し超えるくらいの分量である。
今回の上演時間は1時間30分だった。

そこが西版の「授業」だった。
演出家が本当にやりたい結末だったのだろうか。
配られたリーフレットはこの日が千秋楽だった。
ただしSPACのHPを見ると
その後も29日、31日、11月1日、2日と、
中高生鑑賞事業公演として上演されるようだ。

SPACは、「劇場は世界を見る窓である」という理念のもと、
静岡県内の中高生の招待公演を行っている。

演出家はこのことを意識から外すことはできないのではないか。
勝手ながらそう思った。
中高生にも見せる不条理劇。
最後の展開に合点がいった。
使用された曲は映画「大脱走」のテーマソング「大脱走マーチ」。
(これ、僕も「歩く」がテーマの芝居で使用し、その時サントラを購入した)
ナチス収容所から捕虜たちが脱走する話。
なるほど。
ここで不条理劇から条理劇にすり替わった。

あ、共同演出に菊川朝子さん。
どう分業したのだろう。






 

穂の国とよはし芸術劇場PLATで「華氏451度」を観た

カテゴリー │演劇

10月27日(土)13時~

27日、28日の土日は浜松の中心街でも
さまざまなイベントが開催されていた。
ハロウィンフェス、オープンアート、手作り品バザール、ジャズウィーク・・・。
僕は事前にチケットを入手していたこともあり
27日は豊橋、28日は静岡へ出かけたため、
浜松の各種イベントはまったく味わうことができなかった。

「華氏451度」は1953年にアメリカ人の作家レイ・ブラッドベリ
により書かれたSF小説である。
フランス人の映画監督
フランソワ・トリュフォーにより映画化されたものを
ずいぶん前に観た記憶がある。
但し、内容はほぼ忘れた。
小説の名はもっと以前から知っていたが、
読んだことはなかった。

華氏451度とは、本が燃え始める温度のことだそうだ。
摂氏だと233度。
本を持つことが禁止され、
かつては火を消すのが仕事だった
ファイヤーマンが、
建物が燃えない構造になり、
本を燃やすことが仕事となった時代。
消防士ではなく、昇火士と呼ぶ。
ひとりのファイアーマン、モンターグの本をめぐる苦悩を描く。

ブラッドベリもトリュフォーも大変な本好きであったらしい。
小説が書かれたころ、
映画化されたころと、
今とは状況が異なると思う。

トリュフォーにより映画化されたのは1966年。
ブラッドベリの「火星年代記」の映画化を
ブラッドベリ本人に依頼したところ、
こちらは断られ(本人が映画化を考えていたとか)、
かわりに「華氏451度」を勧められ、
映画化に至ったそうである。

WEBの出現により
紙でない本ができた。
文字の価値も
絵と混じった漫画や
映像は浸透し、
価値の上下を問うものではない。

取り締まりから逃れ、
本を隠し持ち、
とうとう見つかってしまったとき、
燃える本とともに
自らの身を火の中に投じる
なんてのは、
理解するのが難しいかもしれない。

また、堕落した今として描かれる
家庭のスクリーンに映し出される映像は
人間の思いつく楽しみをすべて具現化している。
友人たちとのパーティー、
楽しい家族団らん、
趣味、レジャー・・・。
人は無批判にシャワーのように受け入れるばかりなのだが。

こちらはどうだろう。
驚くほどリアリティを持ち得ているのではないだろうか。
ブラッドべリによると
テレビによる文化の消失を描いたそうだが、
科学技術の発展の流れの中で、
夢の実現は止まりそうにない。

豊橋で演劇を観た後、
帰りの道中、
ネットで浜松市の図書館の蔵書を調べ、
適当な図書館で新訳版の小説を借りた。

演劇で描かれていた状況が
どのような文章で描かれているのか知りたかった。
半分ほど読んだところだが、
昇火士の存在はアナログだが、
家庭に戻ると生活を支配されてしまう
スクリーンに映し出されるデジタル世界の具現化は、
映像でも演劇でも難しいように思えた。

デジタルの極致である映像と
アナログの象徴である一冊の本。
本来は相反しないものだと思う。
どちらにも精神はある。
創造に満ち溢れている。

そして、どちらも無批判で
おぼれ、支配される危険性はあるのだろう。
使い手である僕たちの問題であるが。

上演台本は長塚圭史さん、
演出は白井晃さんが担当された。






 

地域情報センターで木の実プロデュース「朗読劇 蜜蜂と遠雷」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

10月14日(日)17時~

会場のすぐそばのクリエート浜松で行われていた
浜松放送劇団の公演とはしご観劇したのだが、
この後、浜松街中で飲み会参加の予定があったので、
一度車で家に帰り、車を置いて
運行バスで出直してきた。

僕は、直木賞受賞作品である恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」は未読である。
浜松市で3年に一度行われている
浜松国際ピアノコンクールを題材に書かれたことは知っていた。
恩田さんは開催期間浜松に滞在し、
しかも複数回にわたり通いつめて書き上げたという。
想定よりも書き上げるのに時間がかかってしまったという。
毎年行われているのならいいが、
3年に一度なので
2回にわたったとしても
最低4年は費やしている。

五名の読み手のうちの一人としても登場した
近江木の実さんは構成と演出も担当している。
当日のパンフレットのコメントで
この小説との出会いが書かれている。

クラシック音楽ファンである近江さんは
浜松のピアノコンクールに取材した小説であることを知ると
興奮し本屋に走ったという。
そして、面白く読み始めたが、
一気に読んでしまうのがもったいなく、
ちびちびとなめるように昨年一年かけて読んだという。

その思いから端を発し、
今回の朗読劇に帰結したと思う。
さまざまな趣向が凝らされ
朗読劇は展開されていた。
個性的な読み手も多く、
演劇での役者同士のやりとりを彷彿させ、
スリリングでもあった。

これこそ朗読劇。
読み手であり、役者なのだ。

但し、その作品への愛が
マイナスとなった点もあった。
それは小説と朗読との
表現のジャンルの違いでもある。

小説にも
漫画にも
映画にも
演劇にも
朗読劇にもなっている。
そんな作品もあると思うが、
それぞれジャンルの違いによる
見合った表現の方法がある。

それは
発信する側の表現者だけで成り立つのではない。
いかなる表現も
読者だったり観客だったり
受け手がいて成り立つのである。

小説は一年かけても読むことができるが、
一つの場所に決められた時間に集める表現の場合は
そんなことはできない。

好きすぎると
非情の手が下せなくなる。
切ることができるエピソードなど何もない気がしてくる。
それは一文一句に及んでくる。

むしろジャンルがまったく違う
小説の演劇化や映像化の場合は
小説を換骨奪胎して書き直さないと成り立たない。
その点、朗読の場合は、書き直すことはできない。
一文が長いからと言って、端折ることはできない。
むしろエピソードをバッサリ切るしかない。
その非情を下せるかどうかが、
大きなポイントだと思う。

もしかしたら、バッサリ切った中で、
小説ではない新しい朗読劇ならではの
核心が浮かび上がってくるかもしれない。
その時はきっと
小説の力と対等の関係にも見える力を持つのだろう。






 

クリエート浜松2Fホールで浜松放送劇団「死神とその弟子」を観た

カテゴリー │演劇

10月14日(日)14時~

浜松放送劇団の村越一哲さんにお目にかかったのは、
はままつ演劇・人形劇フェスティバル2004に向けての
実行委員会に参加したころである。

それまで各劇団の自主公演のみであった演劇祭が
人形劇と共催し、
また、イベントやワークショップも行うことで
広く多くの市民に演劇や人形劇を伝える、
というようなことが目的で、
関係者が集まり、
実行委員会が組織された。

僕は当時以前やっていた演劇を再開し、
仲間たちと劇団を結成し、
1本だけ短めの作品を上演したのみであった。
声を掛けられ参加したわけだが、
その際、劇団からっかぜや劇団たんぽぽなど老舗劇団から
若い劇団などと知り合った。
その中に長く浜松で活動されている
浜松放送劇団があり、
村越さんが他の一名の方と実行委員会に顔を出されていた。

多くの方が参加されていたし、
村越さんと直接お話しすることはほとんどなかったと思うが、
その縁もあり、
フェスティバルでの
浜松放送劇団の公演を何度か拝見させていただいた。
地元を題材にした村越さんのオリジナル脚本が大きな特徴。

しかしながら、
何年か参加されたのち、
浜松放送劇団はフェスティバルに参加されなくなった。

一人芝居を演出を置かずに行うのなら
たったひとりでも活動できるが、
演劇の特性として、
人員を揃えることが上演のための必須事項になる。

劇団が上演をしなくなるのは
多くが人員の問題だろう。

創立60周年も記念誌の発行作業は行ったが、
演劇の上演はなしであることを聞いた。
そしてしばらく年が経つ。

昨年、村越さんが亡くなられたことを聞いた。
そして、今年、昔の劇団員たちが集まって
追悼公演を行うという話を聞いた。

それが今回上演された「死神とその弟子」である。
他の劇団で現役で活動している役者さんもいるだろうが、
もしかしたら、
多くの方は久しぶりの舞台だったのではないだろうか。
アメリカのサンフランシスコからという方
(この方、ユカリ ブラックさん。自己紹介でアクターとおっしゃっていた。
やたらせりふ回しが流暢だった)もいたが、
他にも各地から来られた方もいらっしゃるかもしれない。

会場には
「村越一哲追悼移動展」と称し、
台本や上演ビデオやチラシなどが展示されていた。
上演後、村越さんを偲んで語り合う時間を設けるということで
お茶やお菓子も用意されていた。



カーテンコールで
入団して63年(確か?)という演出の山下春子さんから、
本日をもって浜松放送劇団は
幕を閉じるということが伝えられた。

僕の隣に座っていた女性客が
突然「え!」って大きな声を出された。
浜松放送劇団の現況を知っている方は、
寂しいながらも黙って頷くのであろうが、
もしかしたら
この方は初めて浜松放送劇団を観たのかもしれない。
新聞に紹介記事が掲載されたらしいので、
それを見て来られた方もいるかもしれない。

そんな複雑さを伴いながら、
浜松放送劇団の劇団としての64年の歴史は幕を閉じた。
観に来られていた観客席の村越さんの奥様に
舞台から降りてきた劇団員から花束が手渡された。
もちろん大きな拍手が沸き上がった。

当然ながら僕が浜松放送劇団と知り合ってからより
それ以前の方がずっと長い。






 

人宿町 やどりぎ座で「劇団渡辺版 不思議の国のアリス」を観た

カテゴリー │演劇

10月13日(土)19時~

掛川市で野外芝居を観て、
静岡市へ向かった。

やどりぎ座は静岡市の街中、人宿町というところにある。
隣の七間町はもともとは映画館街で
映画館自体がシネコンに集約されていく流れの中、
映画館が次々と閉館し、今は1館のみ残る。

メイン通りから少し離れていることもあり、
かといって閑散というわけでもなく、
落ち着いた雰囲気のある、
そんな街並み。

人宿町もその雰囲気を踏襲している。
そんな場所にある
建築設計会社の新築ビルの2階に人宿町やどりぎ座はある。

かつては民間の劇場はたくさんあっただろう。
でも今は大都市以外は劇場は
ほぼ公的な施設なのではないだろうか。
民間の会社が演劇のための劇場をつくるというのは
静岡市ならではだと思う。

公益法人である静岡県舞台芸術センター(SPAC)が出来て
20年を越える。
専属劇団である劇団SPACが新作を上演し続け、
海外から招へい公演を呼び続けることにより、
演劇的土壌が知らず知らず育ってきたのだと思う。
これは一般の人隅々までいきわたっているか、
とは違う。

僕は基本的に人は自分と関係のあるものしか興味を持たないものであると思っている。
いくら宣伝をしても興味がわかないものには気がいかない。
目にする機会があっても見えないし、
耳にする機会があっても聞こえない。

でも、演劇が定期的に上演され
演劇と関りがある人が少なからず居住したり
訪れたりすることで、
少しずつ耕されていく。
演劇人だけでなく、
今まで演劇と関りを持たなかった人にも。

その結果が人宿町 やどりぎ座である。
やどりぎ座という名前に最も現れている。
ルイス・キャロル作の童話 不思議の国アリスで
穴に落ちた少女アリスはさざまざな冒険をする。

劇団渡辺版不思議の国アリスでは、
劇団所属の女優蔭山ひさ枝さんが、
トークを交えながら、
静岡市周辺で活動する劇団や個人らが演じる短い芝居と出会っていく。
アニメーションでアリスが穴に落ちる様子がモニターに映し出されて
スタートするが、そのアリスの姿はおそらく蔭山さんを模している。
観客は蔭山さんの出会いの冒険物語であることを理解する。

蔭山さんがトークの中で
自身が名付けたやどりぎ座の命名の由来を言っていた。
ある時、町でやどり木を見て、
このようにいろいろな劇団がやどっていくような
劇場になればいい、と思った。
それこそ、この劇場への思いである。

公演は10月4日から全15公演。
出演者の組み合わせは毎回異なる。
それぞれの事情をやりくりして
舞台に登場する。

この日の演目は
・お茶会
・ハトとヘビ
・桃太郎
・走れメロス
・ハンプティ・ダンプティ
・コーカスレース
・裁判
(ちょっと上演順違うかも)

側面は鏡張りで、ダンスほかの練習場にも使えそう。
カーテンを開けると
バーカウンターも併設している。
僕はと言えば車で来ていたし、
浜松まで帰る必要もあったので、
飲むこともなく、
劇場を後にした。






 

大日本報徳社大講堂前 広場でSPAC「おぉっと えぇっと ええじゃないか」を観た

カテゴリー │演劇

10月13日(土)13時~

掛川城の東側にある大日本報徳社とは、
二宮尊徳(金次郎)が説いた「報徳思想」を広げるため作られた全国組織の本社ということだ。
掛川市にこのような場所があることを知らなかった。
大講堂など建物は明治時代に作られている。

「報徳思想」とは
経済と道徳の融和を訴え、
私利私欲に走ることなく社会に貢献すれば
いずれ自らに還元されると説いた思想。
本を読みながら薪を背負って歩く二宮金次郎像が超有名。

SPACが行っている
広場や公園、路上など身近な場所で
演劇に出会える「ふじのくに野外芸術フェスタ」として、
今年は掛川市のこの地で演じられる。

特徴のひとつが、
市民を公募して
SPAC等の俳優とともに作るということ。
中学生や大人が参加されていた。
台本・演出は
藤枝市で活動するユニークポイントという劇団の山田裕幸さんが担当。
同じくユニークポイントの役者や音楽監督も参加。

話の下敷きは「ロミオとジュリエット」。
障害があるふたりの男女の恋の顛末。
過程などは詳細は端折っても通じる
スタンダードと化した構成の妙を活かしている。

ロミオとジュリエットの恋を引き裂く互いの家、
敵対するモンタギュー家とキャピュレット家を
道徳家と経済家に置き換えた。

二宮尊徳の教えをあらわす
大日本報徳社の道徳門と経済門に倣っている。
道徳と経済は共存しなければという教えに反し、
モンタギュー家とキャピュレット家のように敵対している
というのがこの場所でやる意味にもなっている。

音楽はオリジナル曲による生演奏。
コロスの役割をする中学生たちも
太鼓の演奏や歌や
そろって、二宮尊徳の顔の表情を表現するなど活躍。
段ボールを使った衣装も面白かった。

野外と言うこともあり、
どこを切り取っても楽しめる芝居作りを心掛けたと
演出家は言う。

ラストのええじゃないかの演奏時は
たまたま通った観光客(掛川城も含めまわっていたのであろうか)
も演奏に合わせ、踊っていた。






 

クリエート浜松でアルテ・エ・サルーテ劇団「マラー/サド」を観た

カテゴリー │演劇

10月11日(木)18時15分~

アルテ・エ・サルーテ劇団はイタリアで精神保健局に所属する精神障碍者による
プロフェッショナルな劇団。
ボローニャ市立劇場と協同で制作された作品が
世界精神保健デー普及啓発事業 イタリア精神保健法制定40周年記念プログラムの一環で、
東京と浜松で上演される。

「マラー/サド」は正式には
「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺」という。
あまりに長いので通称「マラー/サド」と呼ばれているそうだ。

ペーター・ヴァイスによる戯曲。
1964年に初演され、
1967年にはピーター・ブルックにより映画化された。

マルキ・ド・サドはフランス革命期の貴族であり、作家であるが、
自由と肉体的快楽を求めるあまり、
暴行や乱交等で、
74年の生涯のうち、
刑務所や精神病院で
都合6か所、合計30年強過ごしている。

小説はほとんどが獄中で書かれたもので、
サディズムという言葉は、
彼の名に由来する。

対して、ジャン=ポール・マラーは
フランス革命時の革命指導者であり、医師である。

シャラントン精神病院で、患者さんたちの治療のために
病院内で演劇が演じられるという劇中劇の設定。
マラーがシャルロッテという女性に刺殺されたという史実を元に
マラーの生涯をフィクショナルに描く。

精神病院の檻の外では
看護者たちが演劇の様子を監視していて、
ともすれば演技が行き過ぎるのをストップをかけて是正させる。

フランス革命以前の権力者による圧政の元、
庶民は貧しく、不自由を強いられている。
当時の庶民の姿は、精神障碍者たちの現実の姿と重なる。
社会の差別や偏見と闘う。
しかし、それは閉ざされた檻の中。
そしてそれは監視され、統制されている。

このような矛盾に満ちた状況の中、
役者たちはフィクションを演じる。
完全なる自由を求め、
声を上げ、歌い、団結する。
それは演じる
自らも精神病を患っている役者たち自身と重なる。
リアリティをもって、
観客たちに迫ってくる。

アフタートークで演出者により語られていたが、
これは患者たちのためのセラピーではないという。
役者を選ぶ基準は才能であり、
プロフェッショナルとして
成り立たせているという。

イタリアは世界で初めて精神病院をなくした国である。
非人間的な拘束よりも
人間的な自由を選択し、
社会の中で共に生きようとしたのである。

観客たちは檻の外で観ているが、
決して檻の外にいない。
ともすると
こちら側が檻の中かもしれない。

最後に。
これがまた楽しい音楽劇で繰り広げられる。





 

万年橋パークビルで「SPACリーディング・カフェ」に参加した

カテゴリー │演劇

10月7日(日)17時~
万年橋パークビル「hachikai」囲炉裏スペースにて。

リーディング・カフェへの参加は4度目である。
磐田のダンス教室スタジオ、同じく磐田の酒店倉庫、浜松の画廊。
そして、今回が浜松の駐車場があるビルの一角。

SPACが静岡県各地で戯曲を読みながらお茶を飲む。
いや、お茶を飲みながら戯曲を読む。
あ、読むといっても口に出して読むので、
飲むのと同時にはできない。

一言で言えば、
リラックスして戯曲に親しみましょう、
というイベント。

今回の題材はイヨネスコの「授業」。
SPACの上演作品に合わせて、取り上げられる戯曲が決まる。
6日からは静岡芸術劇場でSPACによる「授業」の公演も始まっている。

静岡文化芸術大学の学生たちにより、
担当講師の指導のもと、企画された。

ナビゲーターはSPAC俳優の奥野晃士さん。
リーディング・カフェの提案者でもある。

演劇を広めるというより、
古典戯曲をおもちゃにして、遊ぶのは面白いことだと思う。

今でも読み継がれ、演じられる古典の持つ時間の経緯が、
世代の違いや
生まれの違いや
立場の違いや
気持ちの違いなどを
つなぐリングになりうる気がする。

演劇は
演技者と観客は分け隔てられ、
観客は個々で受け取るのが本来だが、
そのつながりよりも
相互につながることができる。
その時、
自分たちが演技者であり、
観客である。

フランス人作家の
20世紀初頭の
しかも不条理劇。

予定された2時間30分でどれだけ到達できるかは
それはまた別の話。

残念ながら僕は
所用があり、
途中までの参加になった。