駿府城公園東御門前広場特設会場で「野外劇 三文オペラ」を観た

カテゴリー │演劇

4月24日(土)18時~

「野外劇 三文オペラ」を観てから2ヶ月以上経ってしまった。

作者はベルトルト・ブレヒト、台本とした戯曲の訳者は大岡淳氏。
2018年10月に東京芸術祭2018にて、池袋西口公園でやはり、野外劇として上演された。

例年なら海外からの劇団招聘もあり行われる
ふじのくに⇆せかい演劇祭がコロナの影響で
「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」「アンティゴネ」と共に国内組のラインアップとなった。
3演目とも、野外での上演。
これは、換気の問題が主な理由だろう。

イタリア人演出家のジョルジオ・バルべリオ・コルセッティ氏はリモートで演出。
イタリアから日本への渡航がままならないことが理由だろう。

会場である特設広場は、客席こそ立派な仮設スタンドを組んでいたが、
舞台は茫漠とした空き地に見えた。
背景には広々とした公園の樹木とその向こうには
いかにも中都市の中心街ビル群がみえる。
何より目立つひときわ高いビルの屋上には物々しい通信基地のような黒い物体が乗っかっている。
(これ、あとから調べたら、静岡県庁の別館で、地上21階、
県危機管理部、危機管理センター、警察本部、通信指令本部などが入居していて、
屋上には警察、消防、防災など危機管理に関するアンテナが林立している、とWikipediaにあった。
富士山も望める無料展望台があり、ずいぶん前に登ったことを思い出した)

4月の終わりとは言え、日が暮れる時間になると、冷え込んでくる。
昼間は半袖の人も見かけたはずなのに、
やってきた観客たちは皆準備よく、
冬物のコートやジャンバーを着込んでいる。
マフラーを首に巻いている人もいる。

入場するには当然のように、検温、消毒、名前と電話番号の登録が必要で、
入場証明のように手首にテープの輪っかが巻かれる。
案内するスタッフはしきりに「奥の方空いてますよ」と下手側に行くように叫んでいた。
僕は、手前(上手)も空いてるのになあ、と観客席をながめ、
少し天邪鬼な気持ちも働いて、上手側の比較的上の方に座った。
「何だよ、いい席じゃないか」と心でつぶやきながら。

「三文オペラ」は、誤解を恐れず言えば、
「三密」が似合う芝居だ。
つまり、密閉、密着、密接。

訳者は違うが手元にある岩波文庫の戯曲「三文オペラ」(千田是也訳)から引こう。
こう始まる。

『ソホーの市場

乞食は乞食をし、泥棒は泥棒をし、淫売は淫売をしている。
殺人物語の歌手は殺人物語を歌う。』

そして第一幕の舞台は、貧者たちを集めて、より憐れみを誘うような扮装をさせ、
恵んでもらった金をピンハネして商売をしている「乞食の友社」と呼ばれる会社。

そのオーナーの可愛い可愛い一人娘が、ギャング団の頭で、何人も人を殺し、
何人もの女をはべらしている主人公である「刃のマッキー」と呼ばれるヤバい男と結婚する、と言う。
その上、取り締まるべき警察のトップと戦友のよしみで癒着関係にある。

う~ん。凄い設定だ。

この戯曲が掲載されている本の面白いところは
戯曲のほかに、作者ブレヒトが書いた「三文オペラ」のための註、
という俳優や観客のための指示書が併載されていることだ。
以下その中から引用。

『「三文オペラ」は、その表現する内容ばかりかその表現方法の点でも、
市民的な物の考え方と密接に結びついている。
それは劇場の観客がこの人生について見たいと望んでいるものについての一種の講演である。
だが、同時に観客は、自分の見たくないものもいくらか見せられる。
つまり、自分の希望が実現されるのを見るだけでなく、
それが批判されるのも見る。
したがって、原則的には、演劇にある新しい機能を与えるようになる。』

そして、「三文オペラ」のような劇文学に対し絶対的に優位な立場にある劇場を
変革しようとする戯曲を、観客が自分で読むこと(劇場に対する不信の念から読むこと)は
大いに良いことだと言っている。

劇場の事情は、1928年8月のベルリン・シッフバウェル劇場の開場にあたり戯曲が書かれた頃と
時が経った現在とは異なる部分もあるだろうが、どうやら劇場という権威にも反発したかったらしい。
今回はその意図もあったかどうか知らないが、本来劇場ではない野外。
コロナ禍だからだけではないだろう。
新型ウイルスと関係なかった2018年の池袋も野外だったのだから。

「三文オペラ」のための註には、各場面のタイトルが映写されるスクリーンについても記されていて、
実際戯曲のト書きにも反映されている。
演劇の文書化の最初のスタートであり、
例えば観客も芝居のみに没頭するのではなくて、複合的にみる練習をしなければならないというわけだ。
時折入る歌も同様の意味だろう。

しかしながら、その目的を達するにはまずは芝居に没頭させることが必須になる。
そのうえで、スクリーンのタイトルだったり、歌という別のジャンルが挟み込まれて
観客は複合的にみる練習をするべく資格を得ることができる。

1928年当時のスクリーンはどういうものだったか知らないが、
今は、電器メーカーの巨大モニターだ。
巨大とかいたが、この茫漠とした空き地にしてはスケールが足りない気がした。
しかも、上手側の端に1台のみ。
確かに両側だと仰々しい。
予算もあるだろう。
もっと大きなモニター。
これも予算に関係する。
劇場ならプロジェクターが使えた、いや、これは言うまい。

舞台が始まり、さっそくスクリーンのお出ましだった。
刃のメッキ―がいかに悪い奴か知らしめる歌が
茫漠とした空き地の観客席側にわらわらと出演者たちが集まりだし、
歌われるが、モニターに歌詞が映し出されているようだ。
“ようだ”と記したのは、俳優たちを見ていると、
方角的にモニターは見えなかった。

モニターの文字を注視すると、俳優たちは見えない。
そこで思いだした。
入場時、盛んに下手の席に誘導するスタッフの姿を。
真実はわからない。
いや、本当に下手の方が空いていたのだろう。
でも、ちょっと思った。
言葉に素直に従えばよかった・・・。

俳優たちは皆口元を隠すマスクをしていた。
デザインなどでギャングはギャングっぽく見える効果もあるが、
娼婦もしていると、コロナ禍であることを意識せざるを得ない。
それは、上演を実現するにあたり、
考え抜かれた判断だったのだろう。
ただし、口元が隠れても有利に見せる演劇もあるだろうが、
表情に口元は重要なんだなとあらためて思った。

演技もソーシャルディスタンスに気を配っている様子がうかがえた。
これも距離を有利に使う演技方法もあるだろうが、
コロナ以前の演出が基盤になっているだろうから、
根幹から変えることは無理だろう。

ああ。
これは、ブレヒトさんが言うように、
複合的にみる練習をしているのかもしれない。

元々そういう場所だったのか、
それとも土を捲いたのかわからないが、
俳優たちが立つ茫漠とした空き地は
土ぼこりが巻き上がりそうだった。

むしろ俳優は観客の方に土ぼこりが行かないように
例えば地面を蹴っ散らかすような演技の際配慮しているように感じたが、
その上を人間の稼働能力を挽回するかのように各種車両が、駆け回った。
トラック、ワゴン車、ショベルカー、あれ?バイクはあったかなあ?
自転車はあった。

実際に感じたのだが、
普段見慣れている車が、エンジン音をたてて演劇の舞台上を走るとドキッとする。
燃費のいい国産車なので、エンジン音はうるさくないし、
スピードだって公道走るより出ていないのかもしれないが、
2本足で立つ人間の存在がやけに小さく見えるのだ。

すでに日は暮れている。
観客席とも適切な距離をとる
大切なセリフを発する口元を覆い隠した俳優たちが
身振り手振りを駆使して、93年前に
はるかドイツで書かれた作品を演じている。

遠く、地方都市のビルの夜景。
この夜景の下で暮らしている人たちは
この演劇と関係あるのだろうか?
思いを巡らす。
目の前ではストップウォッチのない演劇が
台本におおむね沿って時を順調に進めている。
複合的にみる練習をしすぎたせいか、
すでに頭の中は混乱気味だ。

マスクをしている俳優たちを見ながら思った。
この演劇は「野外劇 三文オペラ」というタイトルに異論はないが、
「荒野の三文オペラ」というタイトルも悪くない。
クリント・イーストウッドのマカロニウエスタンを連想したからだが、
マカロニウエスタンで登場人物たちが
口を布で覆っているかは不明。
悪役はそんなイメージがあるのだが。

駿府城公園東御門前広場特設会場で「野外劇 三文オペラ」を観た



同じカテゴリー(演劇)の記事

 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
駿府城公園東御門前広場特設会場で「野外劇 三文オペラ」を観た
    コメント(0)