2025年05月09日21:28
穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールで二兎社「こんばんは、父さん」を観た≫
カテゴリー │演劇
2月11日(火・祝)13時~
浜松に住んでいて、東は静岡、西は豊橋と、何となく観劇範囲を設定している。
東京や名古屋を範囲に入れるとキリがないからだ。
首都圏で上演される機会が圧倒的に多い現代演劇が浜松でかかることはめったにない以上、PLATがある豊橋へ足を運ぶ回数が増える。
と言っても、主ホールとアートスペースの2会場があるが、ひとつの劇場では、上演数はやはり限られる。
その中でも二兎社の上演回数は、多い方ではないか?
他の公演では、演出者や作者のお顔を見かけしないことは多いが、
二兎社の場合、客席への出入り口付近で永井愛さんをお見かけする。
自主公演であれば「いらっしゃいませ」と迎えることもあるだろうが、
主催は劇場なので作・演出者がそれを行う必要はない。
永井さんは、観客たちが入ってくる姿をただただにっこりながめている。
そして、終演後にはアフタートークを行う。
これは二兎社を豊橋で観るときのルーティン。
「こんばんは、父さん」は2012年に平幹二朗、佐々木蔵之介、溝端淳平により演じられた初演に続き、
風間杜夫、萩原聖人、堅山隼太に出演者が変わっての再演。
舞台は廃墟になった町工場。
町工場は萩原演じる息子の風間演じる父が経営していた旋盤工場。
父は屈指の技術を持つ旋盤工。
高度経済成長期の製造業メーカーに部品を提供し続けてきた。
小さな町工場が点在する東京・大田区あたりを連想するが、町工場を題材にした演劇は、
昨年、浜松市のアマチュア劇団「劇団からっかぜが上演したふたくちつよし作「切り子たちの秋」と重なり、
ある意味偶然に驚いた。
大田区のHPによると、情報は古いが、平成28年時、製造業の工場数が4,229で、ピーク時の昭和58年には9,190だと言う。
また、1人から9人の工場が全工場の約70%を占める。
「切り子たちの秋」では、1974年の昭和時代を舞台に、機械化・効率化の波に立ち向かう町工場を描くが、
「こんばんは、父さん」は、それより後、執筆された2012年付近、平成時代が舞台かと思われる。
戯曲のあとがきに、構想を練っていた頃、2011年の震災があり、それまで考えていた設定を変えたとある。
そして、劇団青年座の方の紹介で「屈指の旋盤職人」と呼ばれる職人さんから話を伺ったと言う。
劇団からっかぜが上演した「切り子たちの秋」は、劇団青年座により2011年10月に初演された作品。
切り子とは旋盤作業で出た金属の切りくずのこと。
機械のコンピュータ化により職人の価値が変わりゆく葛藤の話でもある。
この2作の一致は偶然ではないだろう。
僕が原作が書かれて10年以上経つ同様の題材の2作を続けざまに観たのは、本当に偶然だなあと思った。
父さんが経営していた町工場がつぶれ、時が経ち、今は誰も住みつかない廃墟となっている。
そこに、以前は高度経済成長を支えた町工場の経営者として幅をきかせていた父さんが、落ちぶれ居場所がなくなり戻ってくる。
借金回収のため後をつけてきた若い男が働くのは闇金で、望んでやっている仕事ではない。
その場所にやはり居場所がなくしばらく前から潜んでいたのが、良い大学良い就職良い結婚とエリート街道を進んでいる筈だった息子。
どの男も今が人生の底辺ともいえる状況。
つまずきは仕事での経済上の失敗。
父は第二工場まで広げながら、職人の仕事はお任せでゴルフ三昧となり、シビアな競争の中、大企業から見捨てられ多額の借金をつくる。
息子はイケイケサラリーマンとして順風満帆に過ごしながら、欲をかきエビの養殖の投資詐欺に引っ掛かり、多額の借金をつくる。
法治国家のセーフティネットでは、それで人生がジエンドにならない仕組みになっている。
破産宣告等、しかるべき手続きを踏めば、やり直し・再生は可能という事になっている。
ただし、経済至上主義の価値観で生きて来た男たちにとって、経済上の負けが、人生の負けなのだ。
今まで築いてきたものが、ガラガラと無残に崩れ落ち、それを積み直す気力もない。
無残に崩れ落ちた世界。
そこは震災と結びつくだろうか?
震災は不可抗力。
個人の責任ではない。
でも経済の失敗は自己責任。
プライドが高ければ高いほど、自責の念は強い。
豪華な家も、シャンデリアも、金のアクセサリーも、美しい妻に可愛い子供も、社会的ステータスの高い仕事も、
自分の責任で失った時、男は自ら立ち上がることが出来るのか?
父にとっての妻、息子にとっての母は、町工場が輝いていた頃、象徴するように太陽のような存在だった。
早い死に、葬式では世話になった人たちがたくさん押し寄せた。
彼女がまだ存在していたら、男たちは今の姿と変わっていたかもしれない。
いや、そう思うのは男の甘えた幻想で、実際はそう変わりはしないだろう。
自分で立ち上がるしかないのだ。
ただし重々わかっていても、簡単に立ち上がれないのだ。
最後、父と息子は何十年ぶりかに心を通わしたかのように見える。
ただし実は、終演しても問題は何も解決していない。
男たちの経済至上主義の価値観は変わらない。
日が変われば、おちぶれた自分を嘆き、再びもがき続けるだろう。
ほんのわずかな時間、かつて灯があったことを確認するだけだ。
帰らない日々の郷愁と共に。
それはどこか傷をなめ合っている。
父と息子は廃墟に留まることはない。
行き場所がないにもかかわらず再び別れ、
おちぶれ変わらない自分を嘆き、もがき続けるだろう。
そのうち、諦め、諦念の域に達するかもしれない。
望むわけでもなく。
新しい未来もありうるがここでは描かれていない。
むしろ未来は、闇金の若い男に託されている。
これとて何か具体的な根拠があるわけではないが。

浜松に住んでいて、東は静岡、西は豊橋と、何となく観劇範囲を設定している。
東京や名古屋を範囲に入れるとキリがないからだ。
首都圏で上演される機会が圧倒的に多い現代演劇が浜松でかかることはめったにない以上、PLATがある豊橋へ足を運ぶ回数が増える。
と言っても、主ホールとアートスペースの2会場があるが、ひとつの劇場では、上演数はやはり限られる。
その中でも二兎社の上演回数は、多い方ではないか?
他の公演では、演出者や作者のお顔を見かけしないことは多いが、
二兎社の場合、客席への出入り口付近で永井愛さんをお見かけする。
自主公演であれば「いらっしゃいませ」と迎えることもあるだろうが、
主催は劇場なので作・演出者がそれを行う必要はない。
永井さんは、観客たちが入ってくる姿をただただにっこりながめている。
そして、終演後にはアフタートークを行う。
これは二兎社を豊橋で観るときのルーティン。
「こんばんは、父さん」は2012年に平幹二朗、佐々木蔵之介、溝端淳平により演じられた初演に続き、
風間杜夫、萩原聖人、堅山隼太に出演者が変わっての再演。
舞台は廃墟になった町工場。
町工場は萩原演じる息子の風間演じる父が経営していた旋盤工場。
父は屈指の技術を持つ旋盤工。
高度経済成長期の製造業メーカーに部品を提供し続けてきた。
小さな町工場が点在する東京・大田区あたりを連想するが、町工場を題材にした演劇は、
昨年、浜松市のアマチュア劇団「劇団からっかぜが上演したふたくちつよし作「切り子たちの秋」と重なり、
ある意味偶然に驚いた。
大田区のHPによると、情報は古いが、平成28年時、製造業の工場数が4,229で、ピーク時の昭和58年には9,190だと言う。
また、1人から9人の工場が全工場の約70%を占める。
「切り子たちの秋」では、1974年の昭和時代を舞台に、機械化・効率化の波に立ち向かう町工場を描くが、
「こんばんは、父さん」は、それより後、執筆された2012年付近、平成時代が舞台かと思われる。
戯曲のあとがきに、構想を練っていた頃、2011年の震災があり、それまで考えていた設定を変えたとある。
そして、劇団青年座の方の紹介で「屈指の旋盤職人」と呼ばれる職人さんから話を伺ったと言う。
劇団からっかぜが上演した「切り子たちの秋」は、劇団青年座により2011年10月に初演された作品。
切り子とは旋盤作業で出た金属の切りくずのこと。
機械のコンピュータ化により職人の価値が変わりゆく葛藤の話でもある。
この2作の一致は偶然ではないだろう。
僕が原作が書かれて10年以上経つ同様の題材の2作を続けざまに観たのは、本当に偶然だなあと思った。
父さんが経営していた町工場がつぶれ、時が経ち、今は誰も住みつかない廃墟となっている。
そこに、以前は高度経済成長を支えた町工場の経営者として幅をきかせていた父さんが、落ちぶれ居場所がなくなり戻ってくる。
借金回収のため後をつけてきた若い男が働くのは闇金で、望んでやっている仕事ではない。
その場所にやはり居場所がなくしばらく前から潜んでいたのが、良い大学良い就職良い結婚とエリート街道を進んでいる筈だった息子。
どの男も今が人生の底辺ともいえる状況。
つまずきは仕事での経済上の失敗。
父は第二工場まで広げながら、職人の仕事はお任せでゴルフ三昧となり、シビアな競争の中、大企業から見捨てられ多額の借金をつくる。
息子はイケイケサラリーマンとして順風満帆に過ごしながら、欲をかきエビの養殖の投資詐欺に引っ掛かり、多額の借金をつくる。
法治国家のセーフティネットでは、それで人生がジエンドにならない仕組みになっている。
破産宣告等、しかるべき手続きを踏めば、やり直し・再生は可能という事になっている。
ただし、経済至上主義の価値観で生きて来た男たちにとって、経済上の負けが、人生の負けなのだ。
今まで築いてきたものが、ガラガラと無残に崩れ落ち、それを積み直す気力もない。
無残に崩れ落ちた世界。
そこは震災と結びつくだろうか?
震災は不可抗力。
個人の責任ではない。
でも経済の失敗は自己責任。
プライドが高ければ高いほど、自責の念は強い。
豪華な家も、シャンデリアも、金のアクセサリーも、美しい妻に可愛い子供も、社会的ステータスの高い仕事も、
自分の責任で失った時、男は自ら立ち上がることが出来るのか?
父にとっての妻、息子にとっての母は、町工場が輝いていた頃、象徴するように太陽のような存在だった。
早い死に、葬式では世話になった人たちがたくさん押し寄せた。
彼女がまだ存在していたら、男たちは今の姿と変わっていたかもしれない。
いや、そう思うのは男の甘えた幻想で、実際はそう変わりはしないだろう。
自分で立ち上がるしかないのだ。
ただし重々わかっていても、簡単に立ち上がれないのだ。
最後、父と息子は何十年ぶりかに心を通わしたかのように見える。
ただし実は、終演しても問題は何も解決していない。
男たちの経済至上主義の価値観は変わらない。
日が変われば、おちぶれた自分を嘆き、再びもがき続けるだろう。
ほんのわずかな時間、かつて灯があったことを確認するだけだ。
帰らない日々の郷愁と共に。
それはどこか傷をなめ合っている。
父と息子は廃墟に留まることはない。
行き場所がないにもかかわらず再び別れ、
おちぶれ変わらない自分を嘆き、もがき続けるだろう。
そのうち、諦め、諦念の域に達するかもしれない。
望むわけでもなく。
新しい未来もありうるがここでは描かれていない。
むしろ未来は、闇金の若い男に託されている。
これとて何か具体的な根拠があるわけではないが。