2021年04月29日07:56
ワークショップ評≫
カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿
■ワークショップ評
フィールド 寺田景一
演劇の批評は劇評と言う。
ワークショップの批評は何と呼ぶのだろうか。
はままつ演劇フェスティバルは2004年、はままつ演劇・人形劇フェスティバルとして劇団が単独公演をする自主公演だけでなく、ワークショップや招聘公演などを行い、浜松の演劇シーンを演劇人たちが(当時は人形劇人も)一体となって幅広く盛り上げていこうという趣旨で始まった。
ワークショップについては、当時静岡文化芸術大学の教授であった劇評家の扇田昭彦氏が講師を務めた演劇評論家ワークショップ等の劇評、殺陣や照明、中山一朗氏や劇団うりんこや佃典彦氏の演技などのワークショップが行われた。
2009年の演劇と人形劇の合同ワークショップの後、2010年から、短編戯曲を書き上げる劇作ワークショップと複数の地元の演出家を講師とした演技ワークショップが始まる。
演技ワークショップでは、劇作ワークショップで選ばれた数作の戯曲が題材として使われ、演出家ごとに班分けされそれぞれ作品作りを行い、演劇祭のファイナルイベントで上演される。
フェスティバルのコーディネーターであった大岡淳氏が講師を務める劇評ワークショップも並行して行われていたが、大岡氏の退任後、何人かが講師を務めた後、現在は行われていない。
そんな中、コロナ禍となった。
2020年は演劇祭の全ての日程が中止となり、現在2021年について話し合いがなされている。
ワークショップについてもワークショップ部会にて話が進められているが、現状ではオンラインにて行われる方向だと言う。
2010年に始まった劇作→演技→ファイナルの連動は2019年まで10回行われている。
なぜ10年という長きに渡り実施出来ているのだろうか。
それは、どちらのワークショップも劇作りが持つ『根源的な喜び』を体験できるからではないだろうか。
劇作ワークショップなら1本の戯曲が立ち上がる。
演技ワークショップなら1本の演劇が立ち上がる。
始まる前までは、姿かたちがなかったものが、終わるとそこには確かに何かが残るのだ。
ワークショップにより生み出されたものが。
これらが、劇作ワークショップは2日(以前は3日)きりで、演技ワークショップは1日きりで、作品作りまで行ってしまう。
短編作品とはいえ、効率的で素晴らしいことだ、と思うが、一方、やり残してしまうこともある。
それは、しばしば参加者や参加を考えている人から聞く意見でもある。
「もっと基本的なことを教えてほしい」。
うん、確かにそうだろう。
でも、これを1日や2日の日程で行っても、ほんのさわりを教えることができるかどうかだろう。
これも入り口の一つではあるが、こういうワークショップは例えば“東京”では山ほど行われている。
地方ではあまりないのかもしれない。
それは演劇により生計を支えている人の数の違いであると思う。
そのような声を無視するべきではないが、制限ある中で行っている事業ではある。
基本からみっちりと系統立てて学べる機会、それはあればいいと確かに思う。
突貫工事ではあることは承知なのだ。
見落とすところもたくさんあるかもしれない。
すべての人に平等ではないかもしれない(誤解はしないで欲しい。機会は平等なのだ)。
経験者も未経験者も違う年齢の人も演劇観が異なる人も他者との競争の波にも飲み込まれる。
そこでは満足する者もいれば、挫折感を味わう者もいる。
それが嫌で参加しない人もいるかもしれない。
それでもひたすら最後まで作ることを目的に、講師も参加者も一体となって走りきる。
書くことも演技することも演出することも辛く、そしてまた楽しいことなのだ。
それは演劇を作る過程で味わうことができる『根源的な喜び』であると思う。
それがここではたった1日か2日で実現する。
そんな喧騒の1日か2日。
なかなかできない体験に翌年も申し込むリピーターが多数。
匂いを嗅ぎつけた新たな参加者も交え、再び1日か2日の喧騒が展開される。
そして気が付けば10年。
振り返ればそんな感じなのかもしれない。
しかしながら、ここで行われることはあくまでも限定された枠の中での作品作りの体験である。
劇作の道も演技の道もその先は長く、そして広い。
それはもちろん誰もがわかっていることであるが。
静岡県西部演劇連絡会会報2021年4月18日号より

写真は2010年浜松開誠館高校で行われた演技ワークショップ。
撮影は浜松写真連絡協議会さん。
フィールド 寺田景一
演劇の批評は劇評と言う。
ワークショップの批評は何と呼ぶのだろうか。
はままつ演劇フェスティバルは2004年、はままつ演劇・人形劇フェスティバルとして劇団が単独公演をする自主公演だけでなく、ワークショップや招聘公演などを行い、浜松の演劇シーンを演劇人たちが(当時は人形劇人も)一体となって幅広く盛り上げていこうという趣旨で始まった。
ワークショップについては、当時静岡文化芸術大学の教授であった劇評家の扇田昭彦氏が講師を務めた演劇評論家ワークショップ等の劇評、殺陣や照明、中山一朗氏や劇団うりんこや佃典彦氏の演技などのワークショップが行われた。
2009年の演劇と人形劇の合同ワークショップの後、2010年から、短編戯曲を書き上げる劇作ワークショップと複数の地元の演出家を講師とした演技ワークショップが始まる。
演技ワークショップでは、劇作ワークショップで選ばれた数作の戯曲が題材として使われ、演出家ごとに班分けされそれぞれ作品作りを行い、演劇祭のファイナルイベントで上演される。
フェスティバルのコーディネーターであった大岡淳氏が講師を務める劇評ワークショップも並行して行われていたが、大岡氏の退任後、何人かが講師を務めた後、現在は行われていない。
そんな中、コロナ禍となった。
2020年は演劇祭の全ての日程が中止となり、現在2021年について話し合いがなされている。
ワークショップについてもワークショップ部会にて話が進められているが、現状ではオンラインにて行われる方向だと言う。
2010年に始まった劇作→演技→ファイナルの連動は2019年まで10回行われている。
なぜ10年という長きに渡り実施出来ているのだろうか。
それは、どちらのワークショップも劇作りが持つ『根源的な喜び』を体験できるからではないだろうか。
劇作ワークショップなら1本の戯曲が立ち上がる。
演技ワークショップなら1本の演劇が立ち上がる。
始まる前までは、姿かたちがなかったものが、終わるとそこには確かに何かが残るのだ。
ワークショップにより生み出されたものが。
これらが、劇作ワークショップは2日(以前は3日)きりで、演技ワークショップは1日きりで、作品作りまで行ってしまう。
短編作品とはいえ、効率的で素晴らしいことだ、と思うが、一方、やり残してしまうこともある。
それは、しばしば参加者や参加を考えている人から聞く意見でもある。
「もっと基本的なことを教えてほしい」。
うん、確かにそうだろう。
でも、これを1日や2日の日程で行っても、ほんのさわりを教えることができるかどうかだろう。
これも入り口の一つではあるが、こういうワークショップは例えば“東京”では山ほど行われている。
地方ではあまりないのかもしれない。
それは演劇により生計を支えている人の数の違いであると思う。
そのような声を無視するべきではないが、制限ある中で行っている事業ではある。
基本からみっちりと系統立てて学べる機会、それはあればいいと確かに思う。
突貫工事ではあることは承知なのだ。
見落とすところもたくさんあるかもしれない。
すべての人に平等ではないかもしれない(誤解はしないで欲しい。機会は平等なのだ)。
経験者も未経験者も違う年齢の人も演劇観が異なる人も他者との競争の波にも飲み込まれる。
そこでは満足する者もいれば、挫折感を味わう者もいる。
それが嫌で参加しない人もいるかもしれない。
それでもひたすら最後まで作ることを目的に、講師も参加者も一体となって走りきる。
書くことも演技することも演出することも辛く、そしてまた楽しいことなのだ。
それは演劇を作る過程で味わうことができる『根源的な喜び』であると思う。
それがここではたった1日か2日で実現する。
そんな喧騒の1日か2日。
なかなかできない体験に翌年も申し込むリピーターが多数。
匂いを嗅ぎつけた新たな参加者も交え、再び1日か2日の喧騒が展開される。
そして気が付けば10年。
振り返ればそんな感じなのかもしれない。
しかしながら、ここで行われることはあくまでも限定された枠の中での作品作りの体験である。
劇作の道も演技の道もその先は長く、そして広い。
それはもちろん誰もがわかっていることであるが。
静岡県西部演劇連絡会会報2021年4月18日号より
写真は2010年浜松開誠館高校で行われた演技ワークショップ。
撮影は浜松写真連絡協議会さん。