2018年02月04日11:21
浜松科学館ホールで「つかこうへい症候群 舘山寺殺人事件」を観た≫
カテゴリー │演劇
2月3日(土)17時~
話の土台になっている
つかこうへい作「熱海殺人事件」が書かれたのは1973年。
若者が政治に対し直接行動を起こした全共闘の時代が1968年~69年。
そんな時代の影響はきっとあったと思う。
青春の敗北をなかったこととして、忘れ去るのでもない。
そんな時代もあったのさと、懐かしむのでもない。
過去のものとして片付けるのではなく、
時にはいたわり、時には慰め,
長い時間をかけてでも、肯定していく。
「熱海殺人事件」では、
権力側の立場である警察官が登場する。
その上に政治家、国家等があるのだが、
デモをやれば、
先ずは対峙するのが公務員である警察官である。
通常の刑事ドラマでは
警察側は捕まえる人、
犯人は捕まる人の構造の
二元論で成り立っている。
勧善懲悪のドラマ構造とも言える。
しかしながら、
「熱海殺人事件」はすでに殺人犯はわかっているところから始まる。
しかも、警察側はわかっていることで締めくくるのを拒否する。
勧善懲悪ではない
新しいドラマがあるのではないかと言う。
それは、警察官をいわゆる警察官の立場でいさせない。
殺人者をもいわゆる殺人者の立場ではいさせない。
そこでは必然的に価値観の転換が行われる。
金のあるなし、
顔のよしあし、
能力のあるなし、
国籍のちがい、
都会出身か田舎出身か、
勝ちか負けか
ただし、そこに確実にあるのは
心の動きである。
心がどう動いたかどうかが、
すべてであるとでも言いたいかのようだ。
そのため感情を高まらせる音楽が高音で鳴り響く。
音に負けない扇情的な声で役者もセリフを言う。
照明もそこに追従する。
結果、目の前の観客は
混沌の中で
それまでの価値観の転換がなされ、
舞台上の配役の心情にただただ
心をつかまれてる。
それが演劇の力だったと思う。
「舘山寺殺人事件」は
つかこうへい症候群というように
「熱海殺人事件」の物語の構造を活かした上で書かれている。
僕が面白いと思ったのは
舘山寺という観光地のPRにもなっているということだ。
それもよくある観光地=景色キレイ、温泉もある、ウナギもうまい、いいところばっかり、だからぜひ来てね、
という一方的なスタンスではないということだ。
「熱海殺人事件」と同様、
価値観の転換が行われ、
心の動きが最重視されている。
それが結果、苦くも心に刻まれる
PR効果となって現れる。
2時間ドラマで
○○温泉殺人事件などと言い、
観光地PRとセットになっているようなドラマはたくさんあるが、
これらの観光地は単なるロケ地としての役割で、
事件の悲惨さとは全く関係なく
さりげなく、きれいな景色を見せて、
視聴者もなんとなく旅気分、
観光地の関係者も有名な役者が出て全国放送、いい気分、
というところで成り立っている。
しかし「舘山寺殺人事件」は、
実は苦さも引き受けている。
舘山寺の観光地としてのマイナー性、
方言としての遠州弁、
名産としてのうなぎ、
若者の恋愛・・・
それらを一度ひっくり返したうえで
最終的には、
肯定に帰結する。
複雑な関係性から首を絞め殺すことに
なった男と女の1日の舘山寺デートの回想は
苦く美しい。
役者は感情がよくわかる場面は
やはりよく出来ると実感した。
一方あまりよくわかっていないところは
セリフを覚えてしゃべることですましてしまいがちだとも思った。
「熱海殺人事件」を下敷きにするということは
風間杜夫や平田満や
その他演じた多くの役者の姿を重ねることにもなる。
当然ながら役者がやるべきことはたくさんある。

話の土台になっている
つかこうへい作「熱海殺人事件」が書かれたのは1973年。
若者が政治に対し直接行動を起こした全共闘の時代が1968年~69年。
そんな時代の影響はきっとあったと思う。
青春の敗北をなかったこととして、忘れ去るのでもない。
そんな時代もあったのさと、懐かしむのでもない。
過去のものとして片付けるのではなく、
時にはいたわり、時には慰め,
長い時間をかけてでも、肯定していく。
「熱海殺人事件」では、
権力側の立場である警察官が登場する。
その上に政治家、国家等があるのだが、
デモをやれば、
先ずは対峙するのが公務員である警察官である。
通常の刑事ドラマでは
警察側は捕まえる人、
犯人は捕まる人の構造の
二元論で成り立っている。
勧善懲悪のドラマ構造とも言える。
しかしながら、
「熱海殺人事件」はすでに殺人犯はわかっているところから始まる。
しかも、警察側はわかっていることで締めくくるのを拒否する。
勧善懲悪ではない
新しいドラマがあるのではないかと言う。
それは、警察官をいわゆる警察官の立場でいさせない。
殺人者をもいわゆる殺人者の立場ではいさせない。
そこでは必然的に価値観の転換が行われる。
金のあるなし、
顔のよしあし、
能力のあるなし、
国籍のちがい、
都会出身か田舎出身か、
勝ちか負けか
ただし、そこに確実にあるのは
心の動きである。
心がどう動いたかどうかが、
すべてであるとでも言いたいかのようだ。
そのため感情を高まらせる音楽が高音で鳴り響く。
音に負けない扇情的な声で役者もセリフを言う。
照明もそこに追従する。
結果、目の前の観客は
混沌の中で
それまでの価値観の転換がなされ、
舞台上の配役の心情にただただ
心をつかまれてる。
それが演劇の力だったと思う。
「舘山寺殺人事件」は
つかこうへい症候群というように
「熱海殺人事件」の物語の構造を活かした上で書かれている。
僕が面白いと思ったのは
舘山寺という観光地のPRにもなっているということだ。
それもよくある観光地=景色キレイ、温泉もある、ウナギもうまい、いいところばっかり、だからぜひ来てね、
という一方的なスタンスではないということだ。
「熱海殺人事件」と同様、
価値観の転換が行われ、
心の動きが最重視されている。
それが結果、苦くも心に刻まれる
PR効果となって現れる。
2時間ドラマで
○○温泉殺人事件などと言い、
観光地PRとセットになっているようなドラマはたくさんあるが、
これらの観光地は単なるロケ地としての役割で、
事件の悲惨さとは全く関係なく
さりげなく、きれいな景色を見せて、
視聴者もなんとなく旅気分、
観光地の関係者も有名な役者が出て全国放送、いい気分、
というところで成り立っている。
しかし「舘山寺殺人事件」は、
実は苦さも引き受けている。
舘山寺の観光地としてのマイナー性、
方言としての遠州弁、
名産としてのうなぎ、
若者の恋愛・・・
それらを一度ひっくり返したうえで
最終的には、
肯定に帰結する。
複雑な関係性から首を絞め殺すことに
なった男と女の1日の舘山寺デートの回想は
苦く美しい。
役者は感情がよくわかる場面は
やはりよく出来ると実感した。
一方あまりよくわかっていないところは
セリフを覚えてしゃべることですましてしまいがちだとも思った。
「熱海殺人事件」を下敷きにするということは
風間杜夫や平田満や
その他演じた多くの役者の姿を重ねることにもなる。
当然ながら役者がやるべきことはたくさんある。