2019年11月24日12:00
穂の国とよはし芸術劇場PLATでロ字ック「掬う」を観た≫
カテゴリー │演劇
11月23日(祝)13時~
タイトルは“掬う”という。
観劇後、調べるまではタイトルを把握していなかった。
手のひらやさじなど、くぼんだ形のものを使い、
液状・粉末状のものの表面に近い部分をえぐるようにいて取り出す、
というような意味。
手で水を掬うなど。
下から上へすばやく持ち上げるの意味で
小股を掬うなど。
僕は、阿呆なことに
纏う(まとう)というタイトルだと思い込んでいた。
身に着けるという意味の。
電話でチケットを予約する際も
「まとうのチケット・・・」と言ったら
「ロ字ックのチケットですね・・・」と言い直されていることにも気が付かなかった。
電話先のスタッフの女性も
「アホか、この客、読み方間違ってる。
知らせたいけど、突っ込んで勝手にプライド傷ついて
きれられても責任もてんからほっとこ・・・。一応客だし」
なんて思ったかどうかは知らないが、
これ、タイトルはひらがなで書くと、
“すくう”です。
“救う”ではない。
でも、ダブルミーニングの意図もあるはずだ。
人を本当に救うことなどできない。
せいぜい出来るとしたら
小さな匙で、一旦拾い上げることくらい。
そんな意味合いかもしれないと思った。
人は基本自分の為に生きている。
自分の為に生きている同志が
集まって生きていれば
互いに齟齬も起きる。
今回の作品は初めて家族と言う集合体を取り上げた
ということだが、
そこに高校の同級生や
父と関係があったという女子高校生との関係性も絡んでくる。
齟齬の原因となる
それぞれの自分の為に生きている事情が、
主人公の父が治る見込みのない病に罹り、
病院に入院することで、
とある共有せざるを得ない状況を生み出すことで、
揺らぎだす。
共有せざるを得ない事情とは
父のことを考えなければならないということだ。
つまり、自分のことだけではなく、
父のことに時間と気持ちを費やさなければならないからだ。
自分の為に生きている人生を犠牲にして
他人の為に費やす。
これを無償の喜びとして考えることができればいいのだが、
そうは行かないので、軋轢が生まれ、
この機会に噴き出し、
それが演劇の主題となる。
僕は人は皆どこか優しいのだと思う。
自分のことだけを考えることを優先しているはずなのに、
他人を気遣う。
これも自ら傷つかないための術であったりするのだが、
誰かが病に倒れれば心配するし、
包丁を取り出し、自らに突き付けようとすれば、
制止する。
こうしてバランスは保たれていく。
たとえいびつだという人がいたとしても。
佐津川さんは映画やドラマにも出ている女優さんだが、
感情がふるえる様子がとてもビビッドに表れていた。
この感情わたしよくわかる、という感じで演じていたように思う。
まわりの元々芸達者な役者たちの反応が
さらに佐津川さんに体に投影されて行き、
演技の“応酬”を実感する芝居を堪能した。
通奏低音としての役割を果たす雨が降りしきる音。
野太いギターの音が印象的な場転の音楽。
音が印象的なのは
作・演出の山田佳奈さんの前職がレコード会社社員というのが
関係するかどうかは知らないが。
舞台には出てこなかった父が亡くなり葬儀を終え、
芝居も幕を閉じる。
登場人物たちが父のことに費やしていた
時間を自らの元に取り戻した安堵感とともに、
また自分のことに関わらなければならないという
ある種の悲劇も予感させる。
そしてよくある場面のように各自、自分たちの場所へ戻っていく。
そして観客もあらためてそれぞれの不在の誰かをちらりと思う。
その時間はもったいないとは思わない。

タイトルは“掬う”という。
観劇後、調べるまではタイトルを把握していなかった。
手のひらやさじなど、くぼんだ形のものを使い、
液状・粉末状のものの表面に近い部分をえぐるようにいて取り出す、
というような意味。
手で水を掬うなど。
下から上へすばやく持ち上げるの意味で
小股を掬うなど。
僕は、阿呆なことに
纏う(まとう)というタイトルだと思い込んでいた。
身に着けるという意味の。
電話でチケットを予約する際も
「まとうのチケット・・・」と言ったら
「ロ字ックのチケットですね・・・」と言い直されていることにも気が付かなかった。
電話先のスタッフの女性も
「アホか、この客、読み方間違ってる。
知らせたいけど、突っ込んで勝手にプライド傷ついて
きれられても責任もてんからほっとこ・・・。一応客だし」
なんて思ったかどうかは知らないが、
これ、タイトルはひらがなで書くと、
“すくう”です。
“救う”ではない。
でも、ダブルミーニングの意図もあるはずだ。
人を本当に救うことなどできない。
せいぜい出来るとしたら
小さな匙で、一旦拾い上げることくらい。
そんな意味合いかもしれないと思った。
人は基本自分の為に生きている。
自分の為に生きている同志が
集まって生きていれば
互いに齟齬も起きる。
今回の作品は初めて家族と言う集合体を取り上げた
ということだが、
そこに高校の同級生や
父と関係があったという女子高校生との関係性も絡んでくる。
齟齬の原因となる
それぞれの自分の為に生きている事情が、
主人公の父が治る見込みのない病に罹り、
病院に入院することで、
とある共有せざるを得ない状況を生み出すことで、
揺らぎだす。
共有せざるを得ない事情とは
父のことを考えなければならないということだ。
つまり、自分のことだけではなく、
父のことに時間と気持ちを費やさなければならないからだ。
自分の為に生きている人生を犠牲にして
他人の為に費やす。
これを無償の喜びとして考えることができればいいのだが、
そうは行かないので、軋轢が生まれ、
この機会に噴き出し、
それが演劇の主題となる。
僕は人は皆どこか優しいのだと思う。
自分のことだけを考えることを優先しているはずなのに、
他人を気遣う。
これも自ら傷つかないための術であったりするのだが、
誰かが病に倒れれば心配するし、
包丁を取り出し、自らに突き付けようとすれば、
制止する。
こうしてバランスは保たれていく。
たとえいびつだという人がいたとしても。
佐津川さんは映画やドラマにも出ている女優さんだが、
感情がふるえる様子がとてもビビッドに表れていた。
この感情わたしよくわかる、という感じで演じていたように思う。
まわりの元々芸達者な役者たちの反応が
さらに佐津川さんに体に投影されて行き、
演技の“応酬”を実感する芝居を堪能した。
通奏低音としての役割を果たす雨が降りしきる音。
野太いギターの音が印象的な場転の音楽。
音が印象的なのは
作・演出の山田佳奈さんの前職がレコード会社社員というのが
関係するかどうかは知らないが。
舞台には出てこなかった父が亡くなり葬儀を終え、
芝居も幕を閉じる。
登場人物たちが父のことに費やしていた
時間を自らの元に取り戻した安堵感とともに、
また自分のことに関わらなければならないという
ある種の悲劇も予感させる。
そしてよくある場面のように各自、自分たちの場所へ戻っていく。
そして観客もあらためてそれぞれの不在の誰かをちらりと思う。
その時間はもったいないとは思わない。