2016年12月09日00:24
劇団からっかぜアトリエで「シェイクスピアで2日間」の1日目を観た その2≫
カテゴリー │演劇
2本目はKinomi Produce「ジュリオとロミエット」。
主要な登場人物の名は、樹里と路美。
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」がモチーフなのは明らかだが、
作者が伝えたいことのために、
シェイクスピアの設定を借りたという作り方だった。
「マクベス」から借りたと思われる魔女が3人出てくるが、
少々暗躍しすぎの気がした。
実際の「マクベス」に登場する魔女は予言するのみである。
演劇集団浜松キッドの「図書館のシェイクスピア」でも登場する。
ただしこちらは原作に忠実な、予言するのみで、実際に運命を変えることができない設定である。
「ロミオとジュリエット」は対立する家同士の恋ということで、
大きな障害を抱えた若い男女の恋の行方が話の筋である。
対して、「ジュリオとロミエット」は
現代を舞台にし、
性同一障害という名の障害を題材にしている。
そんな障害を乗り越え・・・。
という話である。
しかし、例えばテレビをつければ、
むしろ性同一しない自らをむしろアドバンテージとして活躍している人がたくさんいる。
性差に対する考え方も時代とともに変わる。
もちろん人知れずその問題で悩んでいる人も少なくないだろう。
差別というのは、自分と他人が異なる限り、なくなることはない。
常に新しいテーマであろう。
今回の作品は普段見かけない若い劇団員も舞台に上がっていた。
プロデュース企画ということで、実現した組み合わせかもしれない。
400年前に没したシェイクスピアの作品は今でも世界のあちこちで上演されている。
日本で生まれた戯曲が絶望的なほど、国を越えて上演されないことと比べて、
遠い日本の、しかも浜松の地で、
イギリス人の劇作家の没後400年を記念した企画が催されるのである。
徳川家康も没後400年なのに。
(もちろん家康没後400年のイベントはゆかりの地で争うように行われている。)
例えば彩の国さいたま芸術劇場では
芸術監督の蜷川幸雄さんの元、シェイクスピアの全37作を上演する企画をやったりするなど
本来の戯曲を基にシェイクスピア作品が上演される。
日本での場合はほとんどが和訳であるが。
シェイクスピアの戯曲を1冊でも読めばわかるが、
セリフは詩的な修飾語にあふれ、ああ、こんなに語るんだと圧倒される。
でも一方、セリフを覚えて演じる側のことを考えると、
ああ、こんなに語らなければならないんだ、となるだろう。
少なくとも僕は浜松のアマチュア演劇で
“シェイクスピアの戯曲”に取り組んだ劇を観たことはない。
「ハムレット」を。
「マクベス」を。
「ロミオとジュリエット」を。
「真夏の夜の夢」を。
他33作を。
もちろん僕も演じたことはない。
「ハムレット」も。
「マクベス」も。
「ロミオ」も。
「ジュリエット」も。
「パック」も。
その他シェイクスピア作品のあまたある役の中のどれひとつも。

主要な登場人物の名は、樹里と路美。
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」がモチーフなのは明らかだが、
作者が伝えたいことのために、
シェイクスピアの設定を借りたという作り方だった。
「マクベス」から借りたと思われる魔女が3人出てくるが、
少々暗躍しすぎの気がした。
実際の「マクベス」に登場する魔女は予言するのみである。
演劇集団浜松キッドの「図書館のシェイクスピア」でも登場する。
ただしこちらは原作に忠実な、予言するのみで、実際に運命を変えることができない設定である。
「ロミオとジュリエット」は対立する家同士の恋ということで、
大きな障害を抱えた若い男女の恋の行方が話の筋である。
対して、「ジュリオとロミエット」は
現代を舞台にし、
性同一障害という名の障害を題材にしている。
そんな障害を乗り越え・・・。
という話である。
しかし、例えばテレビをつければ、
むしろ性同一しない自らをむしろアドバンテージとして活躍している人がたくさんいる。
性差に対する考え方も時代とともに変わる。
もちろん人知れずその問題で悩んでいる人も少なくないだろう。
差別というのは、自分と他人が異なる限り、なくなることはない。
常に新しいテーマであろう。
今回の作品は普段見かけない若い劇団員も舞台に上がっていた。
プロデュース企画ということで、実現した組み合わせかもしれない。
400年前に没したシェイクスピアの作品は今でも世界のあちこちで上演されている。
日本で生まれた戯曲が絶望的なほど、国を越えて上演されないことと比べて、
遠い日本の、しかも浜松の地で、
イギリス人の劇作家の没後400年を記念した企画が催されるのである。
徳川家康も没後400年なのに。
(もちろん家康没後400年のイベントはゆかりの地で争うように行われている。)
例えば彩の国さいたま芸術劇場では
芸術監督の蜷川幸雄さんの元、シェイクスピアの全37作を上演する企画をやったりするなど
本来の戯曲を基にシェイクスピア作品が上演される。
日本での場合はほとんどが和訳であるが。
シェイクスピアの戯曲を1冊でも読めばわかるが、
セリフは詩的な修飾語にあふれ、ああ、こんなに語るんだと圧倒される。
でも一方、セリフを覚えて演じる側のことを考えると、
ああ、こんなに語らなければならないんだ、となるだろう。
少なくとも僕は浜松のアマチュア演劇で
“シェイクスピアの戯曲”に取り組んだ劇を観たことはない。
「ハムレット」を。
「マクベス」を。
「ロミオとジュリエット」を。
「真夏の夜の夢」を。
他33作を。
もちろん僕も演じたことはない。
「ハムレット」も。
「マクベス」も。
「ロミオ」も。
「ジュリエット」も。
「パック」も。
その他シェイクスピア作品のあまたある役の中のどれひとつも。