静岡芸術劇場でピッポ・デルボーノ構成・演出の「歓喜の詩」を観た

カテゴリー │演劇

5月6日(月・休)13時~
構成・演出はイタリア人のピッポ・デルボーノさん。
ふじのくに⇔せかい演劇祭の参加作品。
演劇祭のパンフレットの紹介にこうある。
「それぞれに困難を抱えるかけがえのないパートナーたちと、
20年以上にわたり共に歩んできた道程の振り返りであり、
最後のランドマークである。」

注意深く言葉を選んだであろう、
それぞれに困難を抱える、という言い回しには深い意味がある。
どんな困難かはここでは触れない。

当初出演を予定していた中心役者であった80歳を越えるボボーさんは
今年2月、お亡くなりになった。
彼のセリフは脚本からなくすことなく、
そのまま録音にて流した。
そんなことが出来るのか?
彼は死ぬのを予感して
事前に録音しておいたのか。

いや、そんなことはない。
舞台を観て納得する。
彼の声は、
言葉と言う言語では説明しきれない言葉である。
イタリア語がわからないからではない。
字幕を映し出すモニターが故障したからなのではない。
どんな言語を理解する人にも共通して、
ただただ想像するのみの言葉なのである。

SPAC芸術監督の宮城聡さんとピッポさんとで行われたアフタートークで
どのような方法で場面を構成するのかと言う質問に
「絵を描くようなイメージで行う」と答えていた。

それはいたく納得した。
場面のひとつひとつが
それぞれ1枚の絵なのだ。
拝見したことはないが、
ピッポさんは映画も撮るそうだ。
映画のカット1枚1枚が絵なのだろう。
それが蓄積されて演劇になる。
または映画になる。
演劇や映画が絵と異なることに
時間を使うことができるということがある。
それは
音楽を使うことが出来るということでもある。

演劇が総合芸術、
つまり各ジャンルの芸術の集合体であることを
あらためて認識した。
これはあたりまえともいえるが、
そう思える作品はそんなに観ることがない。
脚本が前面に立っていたり、
または演技が、
または音楽が、
または舞台美術が、
となってしまうのではないか。

登場人物と言っていいのかわからないが、
黒子の役をひとりで担っている人がいる。
歌舞伎とかなら、おなじみの黒子の恰好があるが、
そのような格好はしていない。
劇中、ごく普通の恰好で現れ、
舞台セットを用意し、
場面が終わると片付け、
また別の場面の時には
別の舞台セットを用意し、
また片付け・・・。

観ているとまぎれもなく登場人物なのだ。
ピッポさんが言うところの
場面の“絵を描く”行為の
とても重要な役を担っている。

カーテンコールでも
一通り登場人物たちが紹介された後、
印象的に舞台袖から登場し紹介され、
むしろ重要な人であったことを強調する。

日本語タイトルを「歓喜の詩」という。
ボボーさんの生前に企画されたにも関わらず
ボボーさんの人生の賛歌と追悼になっている。

静岡芸術劇場でピッポ・デルボーノ構成・演出の「歓喜の詩」を観た



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