2022年06月05日08:42
静岡芸術劇場で「私のコロンビーヌ」を観た≫
カテゴリー │演劇
5月4日(水・祝) 13時~
ふじのく⇔せかい演劇祭の
コロンビア人演出家のオマール・ポラスの一人芝居。
4月30日に同じ劇場で「カリギュラ」を観たが、
この日も開演前にプレトークがあり、
カリギュラの時とほぼ同じ席の窓際で聴いていた。
窓の外に、南米人らしき男性と、何人かの日本人がやってきて、立ったまま談笑している。
男性が呼吸のエクササイズのようなものをして、周りの人たちもそれに合わせるという動作もしている。
真剣なエクササイズというより周りとのコミュニケーションの一環のように。
ああ、この方、オマール・ポラスだなあ、
と僕は思ったが、これから、10分~15分後には舞台に立つのに、
こんなところにまだいる?と驚いた。
今頃、楽屋でスタンバイしていそうなのに。
ラテン気質なのか、一人芝居の身軽さからか。
プレトーク後、会場に入り、着席して開演を待っていると、
たったひとりの出演者は、
客電もついている客席に
観客たち入場する同じ扉から入って来た。
観客の目線の先にある舞台から登場するのが平常だ。
目線の先ではない後方から、現れる。
そうか。
だからあの時間に彼はあの場所にいたのか。
僕はプレトークを聴いていたので、窓越しにしか見えなかったが、
プレトークを目的とせず、開演に合わせ来場した観客たちは、
劇場前で談笑しあう彼の姿を見たはずなのだ。
スキンヘッドのオマール・ポラスを知っている方は、
劇場に入る前に、主役の姿を見て、「あ」と思っているし、
知らずに観に来た人も「あれ?」くらいは思っただろう。
そして、舞台に上がり、気の良い外国人がよくやるように、
あいさつのみ日本語で行う。
いつの間にか、客電は落ちている。
「私のコロンビーヌ」は、
パリに育った女性のことをパリジェンヌという。(パリに育った男性はパリジャンだが)
コロンビーヌを調べると、
イタリアの仮面を使う即興劇「コンメディア・デッラルテ」に登場する人物というひとつの解説があった。
ただし、ここでは、オマール・ポラスがコロンビア人であることのアイデンティについて演じる演劇を象徴する言葉として使われている。
作者であるファブリス・メルキオとの出会いから生まれたとポラスは記している。
ただの言葉から、人の名前となり、作品のテーマとなり、一人の登場人物となった、という。
故郷コロンビアの山で育った少年時代、何日か前に観たカリギュラが月を所有しようとしたのに対し、
コロンビア人の少年は月を友にしようとした。
演劇を志すためにフランス・パリに渡り、人の中で自分自身を探る。
観劇してから1か月の時が経ってしまったこともあってか、
忘れてしまった事も多いが、
観ている間、僕は自分のことを考えていた気がする。
広い舞台をたったひとりで演じるには、
演技はもちろん、
照明効果も有効で、
広さを感じさせない。
時には音楽、
時にはダンスステップを織り交ぜ、
巧みに観客をパーソナルな世界にいざなう。
劇の進行も後半に入りそうな時、
客席からiPhoneの着信音が鳴る。
あれ?この劇場、電話の電波をシャットアウトする装備を導入されてるんじゃなかったっけ?
と頭をよぎったが、
実際に客席のどこかで鳴っている。
オマール・ポラスも演技を続け、
観客も、持ち主が常識的なら、
慌ててスイッチを切るだろうとしばらく知らぬふりをしていたが、
鳴りやみそうにない。
こういう時、iPhoneの同じ着信音の持ち主は万が一と、自分を疑うが、
違うことを確認すると、他人である迷惑者を無意識に探し出す。
音のありかはどこか?
その人は、どんな態度でいるか?
気が付いていないとしたら、誰かがいち早く教えてあげなければならない。
さて、観客以上に最も迷惑がかかっているであろう舞台上の本人は?
演劇の佳境に入ろうとしているオマール・ポラスは、
一瞬初めて見せる迷惑そうな表情をして、
演技を止める。
こんなんじゃ、芝居は続けられない、
世界を壊す、不届き物を何とかしてくれ!とでもいうように。
そして、スタッフも呼応して、客電がつく。
客席は緊張に包まれ、
変わらず携帯音が鳴り響く、
観客それぞれが、犯人の居場所を意識する。
不思議なことに、場所はひとつであるはずなのに、
意識する場所がそれぞれ違う。
現に僕は2階席に座っていたが、
同列の舞台に近い側に犯人はいるとにらんで、
もしも隣席にいたなら、さりげなく注意してあげるのにと口惜しんだ。
その時、オマール・ポラスはにこっと笑顔を浮かべ、
1階席の舞台に近い客席の男性を促し、
着信音を止まらせる。
準備されていた演出であることを知り、ほっとするのだが、
考えてみれば、演出であるはずなのに、
人間という者はまんまと騙されるものだよねえ。
客電が再び落ち、そこからの終演までの
構成は見事だった。
雄弁だった役者はとたんに無言となり、
心の内を身体で表す。
天井から舞台に砂が撒かれる。
天井から舞台に何かが落ちることは珍しくないが、
桜や雪など、紙でできた軽いものが多い。
紙より軽いが石より重い。
一粒一粒の砂の重量が、
天井から舞台までの距離に従い、
用意された分量分が、
撒かれる。
やはりここでも赤が中心の照明が効果的。
これはコロンビアの土地の景色だろうか?
今はスイス・ジュネーブを拠点に演劇活動をするオマール・ボラスの故郷の。
再び、月が天上に浮かぶ、彼の少年時代に戻り、終演する。
僕はどんな景色を思い浮かべただろうか?
そして、どんな心を思い出しただろうか?

ふじのく⇔せかい演劇祭の
コロンビア人演出家のオマール・ポラスの一人芝居。
4月30日に同じ劇場で「カリギュラ」を観たが、
この日も開演前にプレトークがあり、
カリギュラの時とほぼ同じ席の窓際で聴いていた。
窓の外に、南米人らしき男性と、何人かの日本人がやってきて、立ったまま談笑している。
男性が呼吸のエクササイズのようなものをして、周りの人たちもそれに合わせるという動作もしている。
真剣なエクササイズというより周りとのコミュニケーションの一環のように。
ああ、この方、オマール・ポラスだなあ、
と僕は思ったが、これから、10分~15分後には舞台に立つのに、
こんなところにまだいる?と驚いた。
今頃、楽屋でスタンバイしていそうなのに。
ラテン気質なのか、一人芝居の身軽さからか。
プレトーク後、会場に入り、着席して開演を待っていると、
たったひとりの出演者は、
客電もついている客席に
観客たち入場する同じ扉から入って来た。
観客の目線の先にある舞台から登場するのが平常だ。
目線の先ではない後方から、現れる。
そうか。
だからあの時間に彼はあの場所にいたのか。
僕はプレトークを聴いていたので、窓越しにしか見えなかったが、
プレトークを目的とせず、開演に合わせ来場した観客たちは、
劇場前で談笑しあう彼の姿を見たはずなのだ。
スキンヘッドのオマール・ポラスを知っている方は、
劇場に入る前に、主役の姿を見て、「あ」と思っているし、
知らずに観に来た人も「あれ?」くらいは思っただろう。
そして、舞台に上がり、気の良い外国人がよくやるように、
あいさつのみ日本語で行う。
いつの間にか、客電は落ちている。
「私のコロンビーヌ」は、
パリに育った女性のことをパリジェンヌという。(パリに育った男性はパリジャンだが)
コロンビーヌを調べると、
イタリアの仮面を使う即興劇「コンメディア・デッラルテ」に登場する人物というひとつの解説があった。
ただし、ここでは、オマール・ポラスがコロンビア人であることのアイデンティについて演じる演劇を象徴する言葉として使われている。
作者であるファブリス・メルキオとの出会いから生まれたとポラスは記している。
ただの言葉から、人の名前となり、作品のテーマとなり、一人の登場人物となった、という。
故郷コロンビアの山で育った少年時代、何日か前に観たカリギュラが月を所有しようとしたのに対し、
コロンビア人の少年は月を友にしようとした。
演劇を志すためにフランス・パリに渡り、人の中で自分自身を探る。
観劇してから1か月の時が経ってしまったこともあってか、
忘れてしまった事も多いが、
観ている間、僕は自分のことを考えていた気がする。
広い舞台をたったひとりで演じるには、
演技はもちろん、
照明効果も有効で、
広さを感じさせない。
時には音楽、
時にはダンスステップを織り交ぜ、
巧みに観客をパーソナルな世界にいざなう。
劇の進行も後半に入りそうな時、
客席からiPhoneの着信音が鳴る。
あれ?この劇場、電話の電波をシャットアウトする装備を導入されてるんじゃなかったっけ?
と頭をよぎったが、
実際に客席のどこかで鳴っている。
オマール・ポラスも演技を続け、
観客も、持ち主が常識的なら、
慌ててスイッチを切るだろうとしばらく知らぬふりをしていたが、
鳴りやみそうにない。
こういう時、iPhoneの同じ着信音の持ち主は万が一と、自分を疑うが、
違うことを確認すると、他人である迷惑者を無意識に探し出す。
音のありかはどこか?
その人は、どんな態度でいるか?
気が付いていないとしたら、誰かがいち早く教えてあげなければならない。
さて、観客以上に最も迷惑がかかっているであろう舞台上の本人は?
演劇の佳境に入ろうとしているオマール・ポラスは、
一瞬初めて見せる迷惑そうな表情をして、
演技を止める。
こんなんじゃ、芝居は続けられない、
世界を壊す、不届き物を何とかしてくれ!とでもいうように。
そして、スタッフも呼応して、客電がつく。
客席は緊張に包まれ、
変わらず携帯音が鳴り響く、
観客それぞれが、犯人の居場所を意識する。
不思議なことに、場所はひとつであるはずなのに、
意識する場所がそれぞれ違う。
現に僕は2階席に座っていたが、
同列の舞台に近い側に犯人はいるとにらんで、
もしも隣席にいたなら、さりげなく注意してあげるのにと口惜しんだ。
その時、オマール・ポラスはにこっと笑顔を浮かべ、
1階席の舞台に近い客席の男性を促し、
着信音を止まらせる。
準備されていた演出であることを知り、ほっとするのだが、
考えてみれば、演出であるはずなのに、
人間という者はまんまと騙されるものだよねえ。
客電が再び落ち、そこからの終演までの
構成は見事だった。
雄弁だった役者はとたんに無言となり、
心の内を身体で表す。
天井から舞台に砂が撒かれる。
天井から舞台に何かが落ちることは珍しくないが、
桜や雪など、紙でできた軽いものが多い。
紙より軽いが石より重い。
一粒一粒の砂の重量が、
天井から舞台までの距離に従い、
用意された分量分が、
撒かれる。
やはりここでも赤が中心の照明が効果的。
これはコロンビアの土地の景色だろうか?
今はスイス・ジュネーブを拠点に演劇活動をするオマール・ボラスの故郷の。
再び、月が天上に浮かぶ、彼の少年時代に戻り、終演する。
僕はどんな景色を思い浮かべただろうか?
そして、どんな心を思い出しただろうか?
