2024年11月20日19:15
フェイヴァリットブックスLで「青木智幸(UP-TIGHT)×中西こでん ツーマンライヴ!! “生きろ!”」を聴いた≫
カテゴリー │音楽
10月19日(土)19時~
この日は、来年の路上演劇祭の開催場所を検討する“街歩き”があった。
候補となっていたバスターミナル地下から、ビールメーカーのイベント開催の新川モール、ゆりの木通りの民間の公民館「ちまた公民館」をめぐり、衆議院選挙出馬候補の応援演説で政党党首がやって来るという情報を聞きつけ、松菱跡へ。
時折降る雨の中、演説はすでに終盤だった。
2001年に地元の百貨店、松菱が倒産してから23年。
跡地の利用方法は決まらず、日ばかりが経つ。
言い訳のように地元のイベントに使われたり、こういう時にばかり使われるのも、何だかなあ。
ただ、空いている場所。
いいもわるいも、他人の所有地の行く末に関心がなくなり日常となっているのが現状。
フェイヴァリットブックスLは、遠州小松駅近くで、個人で運営している本屋さん。
このあたりに行くときは大概は車で行く。
僕は一度おじゃました時は、現在の近くにあるマンションの一室だった。
Lがついたのは、場所が移ってからか?
今回のライヴ、“favorite Rocks 01”とある。
音楽も演劇も、何の情報もないところにいきなり訪れることは、ない。
行くからにはそこには何かしら行く理由があるのだ。
あまり、行くべきか行かざるべきか考えることは少なくなった。
まあ、行ってみよう。
身体が空いていて、対象への興味とかかる料金の事情が合うのなら。
ツーマンライヴ。
共にギター1本で登場する。
先ずは中西こでんさん。
こでん、という命名は、かつて三味線の師匠にならっていた頃の名残だと理解しているが、
それは、自分というモノを隠すのに役立っているかもしれない。
ただし、それは隠しきれない。
こでんという仮の名に、隠しきれない「自分」を内蔵して、舞台に立つ。
本名での生活者としての自分と、表現者としての自分。
僕などは、仕事を中心とした日常の自分と、演劇等を行う自分との分離が解消できないのは、長らくの悩みだと思っている。
生活する自分と表現の自分を完全に切り離し、そういうものさと、どちらも頑張る人もいるだろう。
また、うまく融和させ、一体化させているようにみえる人もいるだろう。
ただし、それはあくまでも認識の違いであり、実際はどちらも自分であるので、
何も関連がないというわけにはならない。
どちらの自分も互いに作用しあって必要な自分、という結論は書いていてロマンチックに過ぎるが、
本音ではある。
僕は、表現する対象者に対し、どこか生活者としての姿を見ようとしているのかもしれない。
そんな風に考えた。
浜松の単館系映画館シネマイーラで、監督等の舞台挨拶の回に行きたいと思うのも、
その映画をどんな考えで撮っているのか、少しでも垣間見たいのだ。
そんな思いで、僕は小さなライヴ会場に足を運ぶのだと思う。
オリジナル曲なら、現出される歌詞に。
曲に、歌に、演奏に。
歌詞には、生活者として、観察し、徴集した言葉が反映される。
続く、UP-TIGHTの青木智幸さんは、自作曲の他、2作の既成曲をやったが、それとて、
「自分の曲です」とにやりと笑い、平然と演奏する。
あたりまえであるが、他人の曲とて、選ぶには生活が反映するのだ。
その選び方含め表現者。
個人的には遠藤ミチロウさんの「カノン」が、ロッカーバージョンのボーカル、ギターで聴けて、良かった。
最後は、出番を終えて、ギターを車に詰め込んでいた前の演奏者を呼んでのセッション。
申し合わせていなくても、成り立つのだ。
いや、むしろ申し合わせていない方が、スリリングで、ほんとの音・声が出るのだ。
そんな風に思った。
ライヴの間を取り持つDJが流す曲は、絶妙に懐かしかった。
のちに、本屋さんの店主である主催者に聞いたら、客層に合わせたということだった。
突然行ったのに、想定する客層とぴったりだったのかよ。
この日は、来年の路上演劇祭の開催場所を検討する“街歩き”があった。
候補となっていたバスターミナル地下から、ビールメーカーのイベント開催の新川モール、ゆりの木通りの民間の公民館「ちまた公民館」をめぐり、衆議院選挙出馬候補の応援演説で政党党首がやって来るという情報を聞きつけ、松菱跡へ。
時折降る雨の中、演説はすでに終盤だった。
2001年に地元の百貨店、松菱が倒産してから23年。
跡地の利用方法は決まらず、日ばかりが経つ。
言い訳のように地元のイベントに使われたり、こういう時にばかり使われるのも、何だかなあ。
ただ、空いている場所。
いいもわるいも、他人の所有地の行く末に関心がなくなり日常となっているのが現状。
フェイヴァリットブックスLは、遠州小松駅近くで、個人で運営している本屋さん。
このあたりに行くときは大概は車で行く。
僕は一度おじゃました時は、現在の近くにあるマンションの一室だった。
Lがついたのは、場所が移ってからか?
今回のライヴ、“favorite Rocks 01”とある。
音楽も演劇も、何の情報もないところにいきなり訪れることは、ない。
行くからにはそこには何かしら行く理由があるのだ。
あまり、行くべきか行かざるべきか考えることは少なくなった。
まあ、行ってみよう。
身体が空いていて、対象への興味とかかる料金の事情が合うのなら。
ツーマンライヴ。
共にギター1本で登場する。
先ずは中西こでんさん。
こでん、という命名は、かつて三味線の師匠にならっていた頃の名残だと理解しているが、
それは、自分というモノを隠すのに役立っているかもしれない。
ただし、それは隠しきれない。
こでんという仮の名に、隠しきれない「自分」を内蔵して、舞台に立つ。
本名での生活者としての自分と、表現者としての自分。
僕などは、仕事を中心とした日常の自分と、演劇等を行う自分との分離が解消できないのは、長らくの悩みだと思っている。
生活する自分と表現の自分を完全に切り離し、そういうものさと、どちらも頑張る人もいるだろう。
また、うまく融和させ、一体化させているようにみえる人もいるだろう。
ただし、それはあくまでも認識の違いであり、実際はどちらも自分であるので、
何も関連がないというわけにはならない。
どちらの自分も互いに作用しあって必要な自分、という結論は書いていてロマンチックに過ぎるが、
本音ではある。
僕は、表現する対象者に対し、どこか生活者としての姿を見ようとしているのかもしれない。
そんな風に考えた。
浜松の単館系映画館シネマイーラで、監督等の舞台挨拶の回に行きたいと思うのも、
その映画をどんな考えで撮っているのか、少しでも垣間見たいのだ。
そんな思いで、僕は小さなライヴ会場に足を運ぶのだと思う。
オリジナル曲なら、現出される歌詞に。
曲に、歌に、演奏に。
歌詞には、生活者として、観察し、徴集した言葉が反映される。
続く、UP-TIGHTの青木智幸さんは、自作曲の他、2作の既成曲をやったが、それとて、
「自分の曲です」とにやりと笑い、平然と演奏する。
あたりまえであるが、他人の曲とて、選ぶには生活が反映するのだ。
その選び方含め表現者。
個人的には遠藤ミチロウさんの「カノン」が、ロッカーバージョンのボーカル、ギターで聴けて、良かった。
最後は、出番を終えて、ギターを車に詰め込んでいた前の演奏者を呼んでのセッション。
申し合わせていなくても、成り立つのだ。
いや、むしろ申し合わせていない方が、スリリングで、ほんとの音・声が出るのだ。
そんな風に思った。
ライヴの間を取り持つDJが流す曲は、絶妙に懐かしかった。
のちに、本屋さんの店主である主催者に聞いたら、客層に合わせたということだった。
突然行ったのに、想定する客層とぴったりだったのかよ。