アクトシティ浜松大ホールへ「ヤマハ ジャズ フェスティバル」へ行った

カテゴリー │音楽

10月27日(日)13時~17時15分(予定)

1992年に始まったハママツ・ジャズ・ウイークのメインイベントとして、
最終日に行われている「ヤマハ ジャズ フェスティバル」。

今年が第32回となる。
僕も当初から、何度か足を運んでいる。

山下洋輔、日野皓正、北村英治、ヘレン・メリル、上原ひろみなど。
昨年は荻野目洋子さんが出演し、人気者はやはり違うなあと堪能し、
今年お亡くなりになった第27回に出た八代亜紀さんを迷い観に行かなかったことを悔やんだ。
八代亜紀さんのジャズは間違いなくいいのだ。
秋は、浜松の「演劇の季節」でもあるので、
僕がやる演劇公演があった頃は、稽古や上演と重なり、行けなかった。

ハママツ・ジャズ・ウイークのチラシを見ると、
中高校生や若者たちの演奏会、
ワークショップ、
ジャズハウスや飲食店を会場にしたジャズライブ、
街中の各所で行う地元のミュージシャンを中心とするストリートイベント、
そして最後にキャパ2,000人の大ホールでの演奏会が行われている。

今回のプログラムは

Part1 エメット・コーエン トリオ
Part2 Shiho with スペシャルゲスト 島袋寛子
Part3 シネマ ジャズ オーケストラ produced by クリヤ・マコト featuring 寺井尚子

クリヤさんが、イベントの担当者と企画の話が合った時の話があった。
「何か面白いことやってくださいよ」
そんな依頼から始まり、イベントのためだけにスペシャルバンドが組まれる。
ヨーロッパ、アメリカ、日本、シネマ・ジャズが世界を巡る。

まさにテーマである「ここにしかない、めぐり合い」。




Part1~3のメンバーが登場したフィナーレコラボレーションが終わると、
大ホールから2,000人の観衆がどっと吐き出される。

JR浜松駅に向かう通路は一時非常に混むのだが、
バスターミナルの地下では、外国人主催のイベントが行われていた。

大きな円形のスペースで、中心部は吹き抜けになっている。
その一角でロックバンドが、中心に向け演奏している。
女性ボーカリストのエネルギッシュな歌声が響き渡る。

中心の吹き抜けを囲むように外国人の若者たちが、たむろっていた。
吹き抜けの部分には、空から雨が降っているのだ。
ロックの演奏を聴いているのか、ただ仲間とだべっているのか。
下には飲み物を置き、煙草を喫う人も。

それらは、明らかに、大ホールからの帰還者たちとは、相違があり、
心なしか、目を背け通り過ぎていくよう。
それは錯覚かもしれない。
でも、僕には一種、断絶のように見える。

後日、NPO法人クリエイティブサポートレッツで行われた「ひとインれじでんす」で、
美学者の伊藤亜紗さんから聞いた話。
ノンクロンという、道端などにしゃがみこんでおしゃべりする文化があるそうだ。
日本のコンビニ、セブンイレブンが出店したが、
例えば店内でコーラ1本でノンクロンしてしまって、商売にならなく、撤退しまったそうな。
ただし、何気ないおしゃべりが、問題を解決したり、互いに助けたりすることにつながったりするのだ。
それを目的に集まっているのではない。
自然の流れにいる効果として。

その話を聞いて、この日の光景を思い出した。
彼らにとっては、身体に根付いた習慣なのだ。
縁あって日本に来て、そういうのを日頃は我慢していたのかもしれない。

もちろん日本の法律にまったく反していない。
肯定すべき、彼らの日常なのだ。

異文化の街中での邂逅。
融合ではない。
すれ違い。
互いにどう思っているのか。
それは、聞いてみないとわからない。







 

フェイヴァリットブックスLで「青木智幸(UP-TIGHT)×中西こでん ツーマンライヴ!! “生きろ!”」を聴いた

カテゴリー │音楽

10月19日(土)19時~

この日は、来年の路上演劇祭の開催場所を検討する“街歩き”があった。
候補となっていたバスターミナル地下から、ビールメーカーのイベント開催の新川モール、ゆりの木通りの民間の公民館「ちまた公民館」をめぐり、衆議院選挙出馬候補の応援演説で政党党首がやって来るという情報を聞きつけ、松菱跡へ。
時折降る雨の中、演説はすでに終盤だった。

2001年に地元の百貨店、松菱が倒産してから23年。
跡地の利用方法は決まらず、日ばかりが経つ。
言い訳のように地元のイベントに使われたり、こういう時にばかり使われるのも、何だかなあ。
ただ、空いている場所。
いいもわるいも、他人の所有地の行く末に関心がなくなり日常となっているのが現状。

フェイヴァリットブックスLは、遠州小松駅近くで、個人で運営している本屋さん。
このあたりに行くときは大概は車で行く。
僕は一度おじゃました時は、現在の近くにあるマンションの一室だった。
Lがついたのは、場所が移ってからか?
今回のライヴ、“favorite Rocks 01”とある。

音楽も演劇も、何の情報もないところにいきなり訪れることは、ない。
行くからにはそこには何かしら行く理由があるのだ。
あまり、行くべきか行かざるべきか考えることは少なくなった。
まあ、行ってみよう。
身体が空いていて、対象への興味とかかる料金の事情が合うのなら。

ツーマンライヴ。
共にギター1本で登場する。
先ずは中西こでんさん。
こでん、という命名は、かつて三味線の師匠にならっていた頃の名残だと理解しているが、
それは、自分というモノを隠すのに役立っているかもしれない。
ただし、それは隠しきれない。
こでんという仮の名に、隠しきれない「自分」を内蔵して、舞台に立つ。

本名での生活者としての自分と、表現者としての自分。

僕などは、仕事を中心とした日常の自分と、演劇等を行う自分との分離が解消できないのは、長らくの悩みだと思っている。
生活する自分と表現の自分を完全に切り離し、そういうものさと、どちらも頑張る人もいるだろう。
また、うまく融和させ、一体化させているようにみえる人もいるだろう。

ただし、それはあくまでも認識の違いであり、実際はどちらも自分であるので、
何も関連がないというわけにはならない。
どちらの自分も互いに作用しあって必要な自分、という結論は書いていてロマンチックに過ぎるが、
本音ではある。

僕は、表現する対象者に対し、どこか生活者としての姿を見ようとしているのかもしれない。
そんな風に考えた。
浜松の単館系映画館シネマイーラで、監督等の舞台挨拶の回に行きたいと思うのも、
その映画をどんな考えで撮っているのか、少しでも垣間見たいのだ。

そんな思いで、僕は小さなライヴ会場に足を運ぶのだと思う。

オリジナル曲なら、現出される歌詞に。
曲に、歌に、演奏に。
歌詞には、生活者として、観察し、徴集した言葉が反映される。

続く、UP-TIGHTの青木智幸さんは、自作曲の他、2作の既成曲をやったが、それとて、
「自分の曲です」とにやりと笑い、平然と演奏する。
あたりまえであるが、他人の曲とて、選ぶには生活が反映するのだ。
その選び方含め表現者。
個人的には遠藤ミチロウさんの「カノン」が、ロッカーバージョンのボーカル、ギターで聴けて、良かった。

最後は、出番を終えて、ギターを車に詰め込んでいた前の演奏者を呼んでのセッション。
申し合わせていなくても、成り立つのだ。
いや、むしろ申し合わせていない方が、スリリングで、ほんとの音・声が出るのだ。
そんな風に思った。

ライヴの間を取り持つDJが流す曲は、絶妙に懐かしかった。
のちに、本屋さんの店主である主催者に聞いたら、客層に合わせたということだった。
突然行ったのに、想定する客層とぴったりだったのかよ。






 

11月17日(日)15時~鴨江アートセンター104で行う、竹嶋賢一音楽会 「二人」に出演します

カテゴリー │演劇

タイトルの「二人」通り、
いくつかの1対1のセッションなどが行われます。

演奏者による「音」と踊り子による「踊り」の組み合わせは、即興で行われます。

僕は東京在住の詩人 野間明子(のまはるこ)さんと、自作の台本を元に朗読による「言葉」のセッションをします。

発露のされ方は、あくまでも“即興”です。
その時にしか生まれないもの。
それは誰もが生きている日々がそうなのですが。
再現不可能な一瞬。

僕は、袴田巌さんを題材にしたものを用意しました。
謙虚な気持ちで演じたいと思います。

秋真っ盛りで、イベントが重なる時期ですが、よろしければぜひ!!




竹嶋賢一音楽会
世間は 何処に 在也
雑音の おしゃべりな 踊り子
二人

2024年11月17日(日)
14時30分開場 15時開演
浜松市鴨江アートセンター104号室
料金 ¥2,000

出演者
≪語る≫
野間 明子
寺田 景一

≪踊る≫
杉浦 麻友美
野中 風花

≪音≫
江藤 みどり
加茂 雄睴

≪作≫
竹嶋 賢一

―みんな なに してるのかなー







 

グランシップ中ホール・大地で人形浄瑠璃 文楽 夕の部「近頃河原の達引」~四条河原の段~堀川猿回しの段~を観た

カテゴリー │いろいろ見た

10月12日(土)17時~
文楽を観るのは初めてだ。

だから、批評などというのはおこがましい。
演目前に、文楽や演目についての説明がされると言う親切な構成。

文楽とは、歌舞伎や能のような舞台芸術のジャンル名なのではなく、
人形浄瑠璃の、あくまでもひとつの家(座)の名前なのだそうだ。
いくつかあった家が淘汰されて、文楽座という名の家のみが残ったのだそうだ。

人形浄瑠璃文楽とは、大夫、三味線、人形遣いの三業が息を合わせ、“三位一体”で作り出されるのが特徴なのだそうだ。
今回、公演情報を知り、静岡市まで観に行った理由もここにある。

このところ、純粋ないわゆる演劇活動より、
音楽家、ダンサーとのコラボで、表現させていただく機会が多い。
ジャンルが違う中での表現に、それなりに思い、考えることもある。
特に、即興の音、踊りに合わせる演劇と言うものが、何なのか、測りかねたりもしている。

太夫=語り、三味線=音、人形遣い=踊り、
と見事に重なる気がしたのだ。
そこで、百聞は一見に如かず。
「グランシップ伝統芸能シリーズ
ユネスコ無形文化遺産
人形浄瑠璃 文楽」
に出向くことにしたのだ。

予想した通り、
面白い。
批評は書かない、
と言うより書けない。

演目の特徴的な場である、
猿回しの場面。

誤解を恐れず言えば、文楽も“演劇”、
演劇とは遊びそのものであると言うことがよくわかる。

着物を着た白髪の男性三人が、たった一体の人形を大真面目に扱う。
これぞ究極の人形遊び。
原点は子供の無邪気な人形遊びなのだ。

それが文楽と言う芸術の神髄。
堅苦しいものなんてこととはまったくの無縁。
その無垢さに単純に感動する。

猿回しなどは、2匹の猿を黒子たった一人で、両手につけた猿の人形を動かすのみで、行う。
子どもの手遊びとまったく変わらない。

大阪にある国立文楽劇場に一度足を運んでみたいものだと思った。
そうやって活動範囲は広がっていく。







 

静岡県立美術館で「無言館と、かつてありし信濃デッサン館―窪島誠一郎の眼」を見た

カテゴリー │いろいろ見た

10月12日(土)

この日が展覧会の初日だった。
グランシップで行われる文楽を観ようと静岡市へ行く予定を組み、
美術館何かやってるかなあ、と調べたら、この企画展が目に留まった。

無言館は、戦争で若くして亡くなった学生たちの絵が収蔵されている美術館であることは、
何となく、NHK日曜美術館か何かで見たことあるかなあくらいの認識だったが、
これも記憶が確かではないが、何かのシンポジウムをテレビで見ていて、面白いこと言う方がいるなあと、
ネットで調べたのが、館主の窪島誠一郎さんだった。

企画展のイベントスケジュールを見たら、開幕記念講演会「絵好き・絵狂い・絵蒐(あつ)め」が開催されることを知り、
ぜひこの機会にと文楽の公演の前に、足を運ぶことにした。

鑑賞後、14時からの講演会を聞く。
無言館および信濃デッサン館の収蔵作品をこうして特集しての展覧会は初めてだということだった。
そのためか、無言館がある長野県上田市在住の窪島さんが3回も展覧会イベントのために静岡まで来られると強調されていた。
静岡美術館の館長木下直之さんほかで、企画したのだろう。
有名画家の展覧会だと各美術館の巡回展が思い浮かぶが、美術館独自で何を紹介すべきか日々考えられているんだなあと実感する。

90分間(少し延長)の講演会では窪島さん自身の生まれてから今までが語られた。
客観的に語りたいということだったが、徐々に熱を帯びてくる。

高校卒業後、10いくつかの職業を体験したが、渋谷道玄坂の生地屋で仕事をしていた時、
中村書店という本屋で立ち読みすることが楽しみだったが、
そこで、村山塊多の画集と出会い、衝撃を受ける。
そして、「自分のやりたいことを貫く。それでいいんだ」と心新たにし、
1964年の東京オリンピック前年、京王線・明大前の自宅を改修し、
カウンター7席の、スナック「塔」と言う飲み屋を始める。

この店があたったようだ。
東京オリンピックで店の前を聖火が通り、そこでおにぎりを売ったら、やたら売れたそうだ。
その時、お手伝いを募集し、来たのがのちに奥さん。
また、多くの俳優、文化人が訪れる。

ある時、オールドパーばかり飲む画家原精一さんが置かれていた「塊多全集」をみて、
「マスター、塊多知ってるのかい」と声を掛けられる。
その時、窪島さんは「塊多(かいた)」という名を読めなかったそうだ。

それから、絵画についてのレクチャーを受けたりし、
金集めだけでなく、塊多の絵を集めるようになる。

塊多は、美術学校に入ったが、10日ほどでやめ、ほぼ独学で絵を学ぶ。
信州上田に放浪の旅に出て、木賃宿に宿賃代わりに絵を描いて置いて行ったので、
それらをたどれば、塊多の絵は手に入るということだった。
そして、飲み屋で儲けた金を元手に、
自身で徴集した絵画等を展示する「信濃デッサン館」を1977年に設立する。
デッサンが好きなのだと言う。
消しゴムで消えてしまう儚さ。

洋画家の野見山暁治 さんに、戦没が学生の絵を遺族から借りて、信濃デッサン館の一隅に展示したい旨を相談する。
それから、野見山さんの協力も得て、全国の遺族の元を訪れる日々が始まる。

将来画家として花開くことを夢見る中、戦争に巻き込まれていく学生たち。
時局が切迫してくると、兵士が足らず、学生の繰り上げ卒業という措置が取られる。
もっと勉強したいのに、無理やり卒業させられ戦地に赴き、非業の死を遂げる。

展覧会で、絵に付随したキャプション内の記された経歴に「繰り上げ卒業」の文字。
そして享年が二十歳代・・・。

絵は、単なる物質である。
ただし、遺族にとっては、かけがえのない遺品なのだ。
それらを託され、預かる。
窪島さんは、それら絵を手にし、帰途に就く。
時には、この絵のために俺は何をやっているんだろうと自問すると言う。
世に認められた、または認められる傑作ではない。
学生の身分の者が描いた、まだまだ未熟な習作なのだ。

でも、それらが一堂に介すると、
「描きたい、もっと描きたい」と、
ものすごいコーラスが聴こえるのだそうだ。
オーケストラになって響き渡ると言うのだ。

そして作られた戦没学生たちの絵を集めた「無言館」。
寄付を全国から集め、六千万円の融資も受け、1997年に信濃デッサン館近くに開館する。

窪島さんは、音楽や演劇にも造詣が深く、1964年開業の明大前のスナック「塔」に設置された多目的ホール、キッドアイラックホールを運営していた。
演劇や詩の朗読、ジャズやダンスの創作が日夜行われていた。
僕は、名は知っていたが、経営形態などは知らず、一度も行ったことはない。
そして、2016年12月31日に窪島さんの意向により、閉館した。
(その後、別の人によりアトリエ第Q藝術」として開館)

なお、展覧会は12月15日まで行われている。






 

アクトシティ浜松大ホールで第8回浜松市民オペラ「音詩劇 かぐや」を観た

カテゴリー │演劇いろいろ見た

9月28日(土)18時~

浜松市民オペラの歴史
第1回 1991年「カルメン」
第2回 1993年「椿姫」
第3回 1999年「三郎信康」
第4回 2001年「三郎信康 改訂・再演」
第5回 2004年「魔笛」
第6回 2007年「ラ・ボエーム」
第7回 2015年「歌劇 ブラック・ジャック」
第8回 2024年「音詩劇 かぐや」

インターバルを見ると1本つくることのご苦労が感じられる。
(大きなお世話だと言われるだろうが)

今までは「歌劇 ブラック・ジャック」の2016年の再演を観たのみ。
オペラをあまり観たことがない僕も、随所に演劇的な演出が見られ、
演劇と近く感じたことを思い出す。(むしろ近すぎたのか?面白かったが)

https://ji24.hamazo.tv/d2016-09.html

今回の「かぐや」は、
作・監修:荒井間佐登さん、作曲・音楽監督:鳥山妙子さんのほか、
各役割、例えば総監督、指揮、演出、プロデューサー、舞台監督、美術、衣装等に、
専門家がきっちりと配置されているのが何といっても特徴だと思う。

あたりまえのことと言えるかもしれないが、
個人の集まりの中でやる場合、
ひとりが各分野を兼任していたり、
そんなに得意でない人が、便宜上名前を振り分けられたりする場合もあるものだ。

市民でつくりあげる市民オペラとは言え、
かなり強固な組織つくりを心がけてつくられたように思う。

専門の教育を積み、広く活躍されているキャストを担うソリストたち。
市民オペラをきっかけに結成された浜松オペラ合唱団のほか、公募で集められた市民合唱団。
子どもたちのジュニアクワイア合唱団、浜松少年少女合唱団、浜松ライオネット児童合唱団。
オペラと言うクラシックのジャンルを超えた
さざん座能舞台、モダンやコンテンポラリーのダンサー。
音楽も、浜松交響楽団の管弦楽ほか、箏、太鼓と和の音も登場する。

浜松というより、東京等で活動されている方も多い。
練習に不可欠なコレぺティトゥア(ピアノ伴奏をしながら歌手に音楽表現のアドバイスを行う)や、
合唱ピアニストの存在。

演出部として、静岡文化芸術大学の11名(1名は教員)もパンフレットには名が記されている。
将来のための教育とともに、実践としての貢献も期待されている。

第8回浜松市民オペラ実行委員会では制作、広報、イベント企画、資金獲得の部会、事務局が組織される。

その成果として、アクト大ホールには多くの観客が訪れていた。(すべての席を使用ではないが)
僕が行ったのは1日目の28日だったが、翌2日目はチケットが完売と言うアナウンスがあった。

かぐや姫の竹取物語を翻案し、地球からの視点だけでなく、宇宙からの視点も描かれる。
平安時代に生まれ現存する日本最古の物語といわれる竹取物語。
当時は月は見上げるもので、月から見下ろす視点はまだなかったと思われる。

考えてみれば、かぐやは、自ら行動しない女性だ。
でんと存在するだけで、まわりが勝手にやきもきする。
日本的な女性としての象徴なのかもしれない。

つまり運命に翻弄されるのだ。
自らの意思が及ばないところで、どんなにあらがっても及ばない。
行動はしないが強い。
そこにドラマが生まれ、歌となる。
歌い手により表現される。

銀河世界で、恋を認められないかぐやは、傷心をいやすため、地球に送られる。
ここでは“かぐや姫”でおなじみのおじいさんとおばあさんに愛され育てられるかぐや。

劇中劇がふたつあり、そのひとつが父と母に愛される娘のイメージが懐かしきわらべ歌のように描かれる。
少女役の増田琴羽さん(28日)が、天性の芝居心で演じ、観客の心を和ませる。

もうひとつが、ジャジーな曲調の音楽が特徴の酒場の場面。
天井から降りてくる複数の空飛ぶ貝のような不思議なオブジェに、ヒッピー調など時代をまたいだ衣装と印象的。

銀河世界のものたちが勢ぞろいすると、ギリシア悲劇やワーグナーのオペラ(知らんくせに)のような荘厳さを醸し出していて、
おじいさん、おばあさんと住む地球の場面とのギャップが、演出の意図を感じさせる。

作者の方が、きっと決まりきったオペラの世界にとどまらず、能や舞踊など広いジャンルとの融合を視野に入れた作り方をしている。
そこから発し、演出、演者に広がっていく。
そこに肝心かなめの楽曲の力がある。
そうしてオペラが出来上がる。

音詩劇 かぐや、か。
それもまた、意図的だ。
音・詩・劇。
ジャンルが融合する。






 

穂の国とよはし芸術劇場PLATでシス・カンパニー公演「夫婦パラダイス~街の灯はそこに~」を観た

カテゴリー │演劇

9月22日(日祝)15時~

チラシには、日本文学へのリスペクトを込めた「日本文学シリーズ」が久々に復活、
織田作之助「夫婦善哉」をモチーフに・・・、
とあったので、読んだことがなかった「夫婦善哉」を事前に読んでみた。

「夫婦善哉」は、妻子持ちで、食いもんや遊びが好きで、あいそはいいが仕事が長続きしない柳吉とてんぷら屋の娘で、柳吉と駆け落ちし、何度裏切られても離れられない芸者・蝶子の話。
終盤、別れぬまま、大阪の法善寺境内の店で一人前に2杯ずつぜんざいがついてくる、夫婦善哉をふたりで食う。

日本文学シアターは、シス・カンパニーによる、作:北村想、演出:寺十吾(じつなしさとる)で、今回がvol.7。
2013年上演の太宰治の死により未完の絶筆「グッド・バイ」から始まる。

このシリーズは、原作をモチーフにしているが、<本歌取り>とも言える、自由に斬新なアプローチで戯曲が書き上げられているのが特徴らしい。

北村想さんは、もぐりの学生をやっていた時代から大学の演劇部で演劇をはじめ、
1979年「TPO師★団」、1982年「彗星’86」、1986年「プロジェクト・ナビ」と名前を変え主宰として劇団活動。
2003年に解散後は、文筆家として個人で活動するということだったが、元の仲間たちが立ち上げたavecビーズに依頼され、
年に1本程度北村作品を書き下ろす。
avecビーズも2023年1月の公演にて、劇団としての20年間の活動を終えている。

劇作家も、拠点があったり、フリーだったりしながら、作品を書き続けるが、
誰かに求められなければ書く必然性はなくなる。
(もちろん上演抜きで手元に置いておくという方法はあるが、それでは戯曲の役割は果たせない)

北村想さんの戯曲を読むのも芝居を観るのも決して熱心な読者・観劇者ではないが、
僕の人生のさまざまな年代に要所要所で触れる機会があった作家であり、どこか感慨深い。

夫婦パラダイス~街の灯はそこに~」は「夫婦善哉」だけでなく、川島雄三監督の映画「洲崎パラダイス、赤信号」もモチーフのひとつになっているということだった。
だからタイトルは「夫婦パラダイス」。
こちらは、ぜんざいは登場しない。

「夫婦善哉」同様、柳吉(尾上松也さん)と蝶子(瀧内公美さん)が登場するが、いいとこのぼんぼんと芸者あがりで、夫婦ではないというのは同じだが、話の筋は、異なる。
蝶子の腹違いの姉がやっている川辺にある飲み屋「河童」に訪れる。

信子(高田聖子さん)がやっている店では土建屋の社長、牛太郎(段田安則さん)がバターピーナッツをつまみに一杯飲(や)っている。
この後は、すぐ先にあるIR(政府公認賭博場)パラダイスへ乗り込む。(建設時は仕事の恩恵もあった)

信子の年下の夫、藤吉(鈴木浩介さん)は、煙草を買いに行ったきり、帰ってこなくて何日か経つ。
信子がガラケーで出前を頼むと、静子(福地桃子さん)が岡持ちを持ってやってくる。

そんなわけで、総合型リゾートIRが出来上がる未来なのか、原作で描かれた昭和初期なのか、スマホ以前のしばらく前なのか。
時代はあいまいにされている。

そこに登場する、妄想・ファンタジー。
河童に陰陽道に裏金、強姦騒ぎの刃傷沙汰、おまけに社会批判も有りとてんこ盛り。

柳吉は売れている気配はないが、いつか俺の『浄瑠璃パンクロック』で世の中を炎上させてやるぜ!と自信満々で、
常にネタ集めのメモ書きを欠かさない。
ただし、できる仕事といえば、得意料理といっても、料理だか何だかわからない煮込み昆布。
昆布を時間をかけてゆっくり煮出すだけ。

言ってみれば、よくいる、夢ばかり語って何もしていないと世間からみなされがちな若いやつら。
(プータロー・ごくつぶしともいう)
でも、自分の芸について、静子に語ると、専門的で、けっこう尊敬されたりする。

終演時点で、その夢が叶うかまでは描かれていないが、
ラスト、蝶子と冒頭の待ち合わせ場所で語る場面は、
小説「夫婦善哉」の読後感を呼び起こす。

成功するかどうかは、そんなに関係ない気がする。
いや、そんなことはないか・・・。

そして、にぎやかに、松也さんが達者な歌で、大団円的に締める。
そんなに状況は変わっていないのに。







 

静岡市民文化会館大ホールで劇団四季ミュージカル「キャッツ」を観た

カテゴリー │演劇

9月16日(月祝)13時~

静岡市民文化会館では、何年間に一度、劇団四季ミュージカルの期間限定公演を行う。
今回のキャッツは7月17日から9月23日の2か月以上の上演。
しかしながら、自治体が関連するホールで、2カ月以上貸し切るのは、そう簡単ではないだろう。
他に使用希望者もあることだろうし。

キャッツの公演は、2013年以来、約10年ぶり、3度目だそうだ。
僕は「キャッツ」は初めてで、「美女と野獣」「オペラ座の怪人」を同じく期間限定公演で観た。
公演数を数えてみたら、一回の貸し切り公演を含み64公演。
静岡市民文化会館の席数は1968人。(そのうち何席上演のために使用しているかはわからない)
料金は4000円~13000円(日や席種により異なる。週末は高くなる。そして高い席種から売れていく。
僕はピーク料金C席5000円)

僕が行ったのは千秋楽の1週間前の公演。
上演日の9日前に購入したのち完売となった。
9月になっても真夏と同じ暑さが残る駿府城公園横の会場へ赴く。
前の広場では地元のテレビ局のイベントをやっていて、露店の前で予想外の暑さに訪れている客も戸惑っているよう。

会場内は、さまざまな年代の人がいた。
お子さん(と言っても3歳以上は料金がかかるので、ある程度理解できるような年代)連れの家族、
あらゆる年代のカップル(老夫婦もいた)、
女性グループ(男性グループというのはあまりいない)、
など。
最もいないのは、僕のような男性ひとりというのかもしれない。
他の演劇ではけっこういるのだが。

キャッツは、ノーベル文学賞詩人、T.S.エリオットの詩集を原作とする。
「キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法」というタイトルの本には、
様々な個性の猫が章ごとに紹介されている。
つまり、ばらばらに生きていて、同じ地平にはいない。
猫愛にあふれている作品。

これをミュージカルでは、
年に一度の夜、都会のごみ捨て場で、猫たちが、最高のジェリクル・キャッツを選ぶ舞踏会が開かれるという設定に変更している。
ばらばらに生きていた猫が同じ時、同じ場所に生きている。

一定の主人公がいて、他の登場人物たちと絡み合いながらひとつの物語を作り上げていくというより、
各登場人物に順番にスポットライトが当たっていき、全体が作り上げられる群像劇となっている。

それも、長く観客に愛されている作品になっている理由だと思う。
それぞれのキャラクターをもっと知りたいという気になるのだ。
台詞と歌で語られるのはその猫の人生のほんの断片。
自己紹介。
本当はその先があるのだ。
それは、限られた上演時間の中では語られない。
そんな、知りたい、知りたい、もっと知りたい、という欲求が、
ふたたび、劇場へ通わせることになるのだと思う。

そして、何より楽曲。
ヒットミュージカルには、キラーチューンが必須で、
「メモリー」を聴きに劇場へ来る人は数多いだろう。

音楽は魔力のようなもので、話の詳細などを吹っ飛ばしてしまうところがある。
今のよくわからなかったけど、まあいいや。
(だって、ジェリクルキャッツ、ジェリクルキャッツってしきりに言うけど、素晴らしいものだろうけど、何なんだって思ってたもんね。初見だと)

それも、また劇場に足を運ばせる理由だと思う。
足を運べば運ぶほど、知らなかったことがわかり、理解が深まっていく。

その猫たちを表現する衣装、メイク、演じる俳優の魅力があり、それぞれのキャラクターが成り立っている。
当然ながら鍛えられた歌とダンス。
劇団四季には、700名以上の俳優が所属しているという。
そして、専用劇場や全国各地で、常に上演を行われている。
小さいころからバレエをやったり、歌を学んでいた人が目指す場となっている。
また経営350人、技術350人のスタッフもいるという。
年間3000ステージ超、観客約300万人(Wikipediaより)

舞台セットを見れば、建て込みを予想するとキャッツという公演は、
専用劇場か、地方なら今回のような2か月以上くらいでないと、上演は出来ないというのがよくわかる。
ゴミ捨て場を表す捨てられたゴミのオブジェは、上演地域にちなんだゴミが登場し、加わっていくということが話題になる。

僕が観ていた2階後ろの方の席の隣では、
ご夫婦らしきおふたりが、開演前に、劇団四季の各上演案内を見ながら、
「今度はアラジン行きたいねえ。映画おもしろかったもんねえ」と話をしていた。
上演終了後のカーテンコールでは、
「うわあ、また出来てきてくれた」と、舞台袖にひっこんでからの何度目かの登場に感謝している。
そして、
「また来たいねえ。次はもっと前で」

そうなのだ。
おそらく、演劇をあまり観ない方をそんな気にさせてしまうのだ。
僕なんかは、何度もカーテンコールで現れるのはよくあることだよ、
とすましているのが恥ずかしい。
1階の客席に俳優たちは降りていき、観客を喜ばせていると、
2階のドアが開き、そこからも猫たちが現れる。
観客は思いもよらぬことに大喜びで、しきりに手を伸ばしタッチ。

最後は、マジカルなキャラクターの猫がひとり(1匹)で現れ、
マジカルに消えて完全終演。

カーテンコールも計算されている。
すごい。
「また来たいなあ。今度はもっと前で。できれば誰かと」






 

浜松市地域情報センターでM-planet 「望月うさぎをめぐる4つの狂詩曲(らぷそでぃ)」を観た

カテゴリー │演劇

9月8日(日)14時~

M-planet 第11回公演。
調べてみたら、第1回公演は、
はままつ演劇・人形劇フェスティバル2005参加作品「いいとしのエリー」。
今はないメイワン・エアロホールで上演された。
前年2004年に別々で開催していた浜松市の演劇と人形劇のフェスティバルが、
一緒に開催する新機軸となって2年目のこと。
(現在は再び別での開催となっている)

19年前。
19年で11回公演とは、決して多くはない。
ただし、主宰である近江木の実さんは、SPAC県民劇団(SPACの劇場で公演を行う2年間の助成を経て劇団の自立を目指す制度)から2013年に結成された劇団MUSESの代表でもあり、その他プロデュース公演も数多い。

それぞれメンバーは異なり、目標・スタンスも違うのだろう。
劇団MUSESがSPACの拠点がある静岡市で結成された関係で静岡県中部地区のメンバーが多いのに対し、
M-planetは、近江さんが居住する浜松市を拠点として運営されている。

第1回公演「いいとしのエリー」が、サザンオールスターズの名曲「いとしのエリー」の掛詞となっているのに対し、
今回の「望月うさぎをめぐる4つの狂詩曲(らぷそでぃ)」も、
“餅つき兎”と何やら掛かっている。
月を眺め日本人が、模様が餅をつく兎に見えるという伝説はいつから始まったのだろう。
ちなみに海外では同じ模様なのに各国、見え方が違うようだ。

“餅つき兎”つまり、主人公である望月うさぎから発想を飛ばし、イメージの世界を縦横無尽に広げていく趣向。
4つの異なるパートを俳優5人が出ハケを繰り返し、役を入れ替わりながら演じる。
俳優のひとり、BKぶんぶんは、観客とつなぐ水先案内人となる。

特に印象的だったのは、視覚障碍者が、同行者と一緒に美術館で絵画を鑑賞する場面。
同行者2名が、美術作品を観ながら、感想を口に出して語るのだ。
目で観ることが出来ない当事者は、言葉による情報から、想像して作品を鑑賞するのである。

僕も昨年映画で観た「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」の白鳥建二さんをモチーフとしていると思うが、
想像をテーマにした作品では、ぴったりの題材だった。
想像が鑑賞のすべてなのだから。
白鳥さんが、最初、ひとりで出かけた美術館で、係員に同行し紹介して欲しいと依頼し、断られた(前例がないので検討に時間が欲しい)ことからこの鑑賞方法は始まる。
その後、周りの理解を得ることとなり、ひとつの鑑賞スタイルとして確立していく。

同行者の言葉次第で、白鳥さんの頭の中に描かれる“絵”は変わるのだ。
責任の大きさを感じ、びびってしまうのも良くわかる。
これはつまり、人と人とのコミュニケーションの一コマなのだ。
常に自分自身が問われる。
ひとつの絵の鑑賞が、想像力を使っての共同作業となる。
これは演劇も同様で、演劇の上演とは舞台に立つ俳優と観客との共同作業とも言える。
俳優たちが生み出した想像力の賜物を観客が自らの想像力で読み解く。

月のうさぎは、うさぎ跳び、餅つき、バニーガール、バ(ジャ)ニーズ、月まで3キロ、月に代わってお仕置きよ、などと転調していく。
それは演劇という手法を使っての想像力の遊び。
時事問題、小説、アニメなどジャンルを超えていく。

ただし、表現は演じる側からの一方通行であってはならない。
観客との幸せな共同作業は決して容易いことではない。
なかなか高度な遊びなのだと思う。
そんなことを考えながら演じる俳優を観ていた。






 

浜松市春野文化センターで劇団限界集落「オリジナルミュージカル庚申堂~僕は、本当の僕に会いに行く~」を観た。

カテゴリー │演劇

9月7日(土)14時~

劇団限界集落とは、インパクトがある名をつけたものだ。
先ず、その劇団名に目をひかれる。
限界集落とは、地域の人口の50%以上が65歳以上の集落のことを言う。

過疎と言う言葉があるが、
限界集落という概念の提唱者は現状を伝えるには実態とずれていると、刺激性のある言葉を使ったそうである。
今が限界。
この先は・・・。

代表であり、作品の脚本・演出 松井茉未さんはかつてタカラジェンヌを目指したが、果たせず、音楽大学に入学し声楽を学ぶ。
その後、地元に戻り、就職、結婚、出産。
母校の小学校から依頼され、音楽を教えることになり、こどもたちと関わるようになる。

ミュージカルのシーンを練習で行う内、見ていた大人たちからもやってみたいという声が上がり、
「地元でミュージカルができるかもしれない」とひらめくに至る。
(以上、劇団noteより)

メンバーによる記事。
若い頃から演劇をやってみたいと思っていた70歳代の男性が、
どこか演劇集団を知っているか松井さんに聞いてみた所、
ちょうど「大人のミュージカルを地元で作りたかった」という思いと合致した。
集団が始まるときはこういうものだ。
ひとりがふたりになり、それが広がっていく。

初公演はディズニーや劇団四季でもおなじみ「ライオンキング」。
でもこの演目を選ぶとき、劇団の特徴があらわれる。
つまり、動物の着ぐるみ、衣装はおまかせあれ!
メンバーには布の事や縫物が得意な人が控えているのだ。
僕だったら、ライオンやミーアキャットやイボイノシシどうしようと尻込みしてしまう。

既成の題材2作を経て、3作目でオリジナル作品「庚申堂」を作るに至る。

庚申とは、当日配られたプログラムによると暦の上で六十日に一度めぐってくる庚(かのえ)申(さる)の日。
夜、眠ってしまうと体から三戸という虫が抜け出し、
天帝にその人が行った悪行を告げ口に行く言う。
そのため、庚申の晩は、仲間で集まり、眠らず過ごすという風習がある。
全国に庚申信仰に関連する寺社がある。

そんな庚申信仰を題材に描く、ひとりの少年、真幸の成長物語。
母を亡くし、父と新しい土地へ引っ越してくるが、転校先ではガキ大将たちにいじめられ、なじめない。
ガキ大将がかわいがっている小鳥を傷つけてしまったことで、行き場がなく、やってきたのが町の庚申堂。
不吉なことを告げる管理人の老婆にいざなわれ、中に入り込むと出会う庚申の世界。
ファンタジー。

ここでも、ライオンキングどんとこいの制作力が発揮される。
青塗りの青面金剛童子、見ざる聞かざる言わざるの三猿、熊、ウルフ、青ぎつね、ヤマセミ、お亀、シカジカ先生。
ファンタジー世界の住人たちを、俳優が個性たっぷりに演じる。
配布された登場人物の紹介文にはそれぞれの役の立場や性格が書かれていて、
それは演じる上で助けになったことだろう。

真幸が、タイトル副題の~僕は、本当の僕に会いに行く~のきっかけになったのが、
彼の歌。
歌えなかった歌を歌うことで、窮地を脱し、出会いと別れを体験し、いま生きる場所で新たな友を獲得する。
この先長い新しいステージに立つのだ。

それは、代表の松井さんの思いとも重なる。
もちろん劇団限界集落の思いとも。

※浜松市のHPで、人口分布(R6.4.1)を調べてみた。
浜松全体(78万6792人)で0~14歳 12.03%、15~64歳 59.19%、65歳~28.78%
春野町を含む天竜区(2万5296人) 0~14歳 7.20%、15~64歳 45.42%、65歳~ 47.38%(女性は50.86%つまり限界集落)
天竜区は浜松市域の61%を占め、91%が森林だということだ。
春野町文化センターまで浜松駅から46キロ、車で約1時間。
遠いのか、近いのか。






 

なゆた浜北ホールでKOGITSUNE PROJECT「SAVE」を観た

カテゴリー │演劇

8月4日(日)13時~ CAST:B  16時~ CAST:A


オリジナルの楽曲によるミュージカル。
A・Bのダブルキャスト(一部除く)で上演。

24・25日には清水マリナートで上演されたが、
僕は8月4日のなゆた浜北で観る。

ストーリーテラーによる案内、物語は進められる。

題材は“アメリカ初代皇帝”を名乗ったという男ジョシア・ノートン。
実在の人物だが、アメリカは13の州からなる独立国家で、大統領はいるが、皇帝はいない。
つまり自称皇帝。
僕はこの人物のことをまったく知らなかった。
作者はなぜこの題材を扱おうと思ったのだろう?
先ずはそこに関心を持った。

1818年にイギリスで生まれ、資産家の息子として南アフリカで過ごし、後にアメリカ・サンフランシスコに移住する。
破産による経済的破綻により、狂気に陥った上の行動とされているようだ。
ひとりアパートで犬と暮らし、軍人でもないのに軍服をまとい、偽物の勲章を胸につけ、ステッキをついて市民の前に現れる。
皇帝を宣言する文書をマスコミ各社に送り付け、突飛な行動を面白半分に取り上げ、市民たちに伝えられる。
そして、為政者でもないに関わらず発する勅命は、サンフランシスコ市民たちの心を捕らえ、アイディアは先進性を持ち、のちに実現していたりする。
(世界で最も幅が広い有名な橋、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ。提言は1872年、開通は1936年なので、ノートンが言ったから実現したというわけでもないと思うが)
ゴールドラッシュに沸く時代。サンフランシスコには移民が多く、階層社会の中で決して恵まれてはいない。
ノートンの提言や行動(実際は政治家でもないので、実現に責任はない)は人々の心に届き、思わぬ人気者となる。
それはその言葉が自らの利益をかえりみず、市民のことを第一に考えた無垢で純粋だったからこそ、響いたのだと思う。
そこに、この人物を取り上げた作・演出の淺野雅人さんの狙いがある。
戦争でしか解決の道がないとでも言うような現代の事象へのメッセージともつながる。

良いことばかりではない。
素性の知れない男に対し、反発や抵抗も生まれる。
政治家や警察といった権力者側、または裕福な資産家たちにとっては、自らの既得権益を奪われかねない恐怖を本能的に感じるのかもしれない。

移民たちが白人市民たちに迫害され囲まれた時、居合わせたノートンが首を垂れ祈り歌う姿に、暴力的だった人たちは、恥じるように拳を降ろし、退散していく。
これは論理ではなく、どこか宗教的な奇跡の場面。
祝福の歌がかぶさる。

ノートンは虐げられた者たちを救う救世主なのか?
タイトルの「SAVE」。
ある人と後日話をしていて、「SAVE」がアメリカ西部ともかかっていることに気がついた。
19世紀後半のアメリカ西部開拓時代を舞台にした西部劇。
「SAVE」ではヒーローが無法者と闘うガンアクションは出て来ない。
銃を使わない無抵抗のヒーローが登場する。

ただし、勃発した南北戦争を止めることは出来ない。
歴史の本筋を変えることは出来ないものなのだ。
その無力感。

ただし無抵抗のヒーローは、人々の心を変えていく。
ノートンが皇帝を宣言した記事と勅命を取り上げた新聞社「サンフランシスコ・コール」の記者たち。
ノートンの勅命を受け止めるユニオン広場に集う移民たち。
どちらにも人生が変わっていく象徴のように恋が生まれる。

特に話の軸として、「サンフランシスコ・コール」の記者マイケルの成長物語とも絡めている。
追悼に3万人の人々が集まったとされるノートンが死んだ後、マイケルが記者として成長した姿で幕を閉じる。

歴史を変えるのではない。
人を変えるのだ。
そんな人間賛歌。

楽曲が場面に寄り添っていたのは準備の賜物。
劇中モノクロで投影された星条旗がラストは色とりどりで映し出された。
レンガ模様の舞台セットは古き良きアメリカを表し、
照明が当たった時、装飾として貼られていたポスターがレトロな味わいに浮かび上がる。






 

竹嶋賢一音楽会「二人 vol.2」にて「しゃべらぬダンサー」を演じた

カテゴリー │演劇音楽ブログで演劇

先月のお話。

6月16日(日)14時~ 鴨江アートセンター
竹嶋賢一音楽会「二人 vol.2」 前奏曲にて「しゃべらぬダンサー」を演じた。

前週の8日には有楽街で路上演劇祭があった。
2週連続での違う演目の上演をなぜ引き受けたんだろう?

そんな疑問を抱きながら、合わせるのは当日という即興舞台に臨む。
もちろん言葉も即興という勇気も自信もないので、台本はしっかり用意する。

詩と呼ばれる時もあるが、僕は戯曲を書いているつもりなので、
ひとりで行うことで結果的にモノローグ芝居となっていることに最近気が付いた。

今回は二人のギター演奏と共演。
終わってしまうとやっている本人はあんまり覚えていない。
どんな音が奏でられたのか。
見聞きしてくださった方に委ねるしかない。

タイトルは「しゃべらぬダンサー」と言う。
今までダンサーの方とコラボしたが、今回はそうでなかったので、
逆にこの題材にしたのかもしれない。

ダンサーと一緒だと、あまりに《直接的》すぎるもんね。
「こんなんじゃない」と言われるかもしれないし。

そういえば、映画は6月1日に監督と俳優が舞台挨拶した「辰巳」と7月1日に「関心領域」を観た。


《二人 vol.2 プログラム》

1)前奏曲 細田茂美(G) 竹嶋賢一(G) 寺田景一(語り)

2)ギターとダンスの為に 杉浦麻友美(Dn) 野中風花(Dn) 細田茂美(G) 竹嶋賢一(G)

3)即興的な唄 岡野晶(P・Vo・Aco) 細田茂美(G) 竹嶋賢一(B・Vc・G) 加茂雄暉(As・Tl)

4)即興的な即興 フィナーレ


※写真は3)即興的な唄より







しゃべらぬダンサー
                         寺田景一



《戯曲》

しゃべらないダンサーが、北へ向かうと言う。
南に住む人は、北へ向かうのだと言われている。
北には山がある。
山には魔物が住んでいると言われている。
魔物がいると知りながら、北へと向かう旅に出る。
北へ、北へと。
ノース。
草履を、荒れた地べたで擦り減らしながら。
雨風にさらされた着物は濡れ、木々や崖で擦り切れる。
照らす太陽は熱く、ダンサーの水分を奪う。

筋肉は動くのだろうか。
関節は。
神経は。
私の脳は。
意思。
意思。
意思。
そもそも、踊り始めようと思ったのはなぜなのか?
それは、果たしていつのことだったのか?
その時、私に何が起こった?

生まれて、気がついた時には踊っていた。
親が言うには、生まれた瞬間から踊っていたそうだ。
「おギャー、おギャー」と踊る。
踊る子供。

テレビのプロレスで、レスラーの入場曲に合わせて踊り、お父さんに叱られた。
ほうきで掃除をするお母さんの横で踊り、「ジャマ」と、蹴飛ばされた。
三半規管が弱い、お兄ちゃんの傍でクルクル回っていたら、
お兄ちゃんがぶっ倒れた。
「お兄ちゃんの前で踊るな」が「嘘をつかない」と同様、我が家のルール。
私の家は、か弱いお兄ちゃんを中心に回っていた。

踊る子は、しゃべらない。
しゃべらぬダンサー。
口があく前に、身体が動く。
言葉より大事なことがある、なんてぼやいてみるけど、
ホントはしゃべりたくないだけ。
踊っているのが、断然楽しいのだ。
踊るためには、嘘もつく。
お兄ちゃんも、何回もぶっ倒れる。

家を出た勢いで、日本を飛び出した。
お兄ちゃんと会う機会がなくなった。
でも、私は知っている。
お兄ちゃんが、私の踊りが何より好きだったこと。
お兄ちゃんに喜んでもらうために、私は踊っていた。

どこででも踊る。
誰かがいても踊る。
誰もいなくても踊る。
音がなくても踊る。
空気の中で踊る。
エアー。
身体にエアーがまとわりつく。
私の衣服であるかのように。

私はこうして北へ向かっているが、誰にも出会わない。
それでもかまわない。
私は踊っている。
踊り、踊り、踊っている。

果たして、山には魔物が現れたのだろうか。
魔物が私に迫り来る。
鋭い爪が私を切り裂き、
巨大な口に飲み込まれていく。
擦り減った草履が脱げ、着物が剥がされても、
手足がちぎれ、
血が流れ、
肉が溶け、
骨が落ち、
たとえ魂だけになったとしても、
私はかまわない。
踊り続ける。

しゃべらぬダンサーは、ふと気がつく。
そういえば、旅立ってから、南を向いていない。
そうだ。
私はこれまで足を止め、うしろを振り返ったことがなかった。
しゃべらぬダンサーが初めて、南を向く。
来た道を。
南を。
サウス。

そこには、海が差し迫っていた。
ざぷーん、ざぷーん。
波打つ大海が。
足元に泡立った海水が浸る。
濡れた。
疲れ、傷ついた、私のつま先に。
傷跡に、沁みて、癒す。

ダンサーはステップを踏む。
水の重さと戯れるように。
まるで水の一部になったように。
ウォーター。
ダンサー。







 

穂の国とよはし芸術劇場PLATで「Le Fils 息子」を観た

カテゴリー │演劇

6月29日(土)18時~

フランスの劇作家フロリアン・ゼレール作で、
家族3部作として「ザ・ファーザー」「ザ・サン」「ザ・マザー」がある。

「ザ・サン」は2021年に岡本健一、岡本圭人の親子共演で「Le Fils 息子」というタイトルで公演。
今回は再演で、初演となる「La Mera 母」と同時上演だったが、「Le Fils 息子」のみ観た。

岡本健一さんは元々は男闘呼組のメンバーで、現在は主に舞台俳優として活躍している。
息子である岡本圭人さんもHey! Say! JUMPの元メンバーで、アイドルから俳優の道に進んでいる。

そのような人気のある俳優が出演することもあり、女性客が大変多かった。
男女のカップルやグループで来るのではなく、女性同士で訪れると言うのが特徴だと思う。
“押し活”は、ひとりで密かに押しているのも楽しいが、
押し活仲間がいると、より楽しみは広がる。

コンサートや演劇を観た後、あれこれ語り合うのもそうだろう。
シビアな結末の家族劇だったが、観た感想はどうだっただろうか。

「ザ・ファーザー」は、アンソニー・ホプキンス主演で作者自身の脚本・監督で映画化された。
これは、痴呆症と言う病気の話でもあった。

「Le Flis 息子」も、同じように、ある病気に関しての話だ。

作者の視点は、病気に関し、同情や哀れみや気遣いで描いていない。
病気により現れた症状を冷静に見つめる、例えば医療の視点で描いている。
そこから、家族の形があぶりだされる構造となっている。

難病を奇跡的に治すスーパードクターなどいない。
愛情の深さが、解決不能な難問を解決することもない。

だから、幕が開いてから、観客が心から笑う場面はない。
常に緊張感がつきまとっている。

こういう時の習性として、人は何とか笑える場所をさがしだし、
きっかけさえあれば、見逃さず、ここぞとばかりにどっと笑う。
緊張を解きほぐすように。
自分を守るために。

ただし、そこは本当は心から笑う場面ではない。
何のストレスも不幸の種もない安心安全な状況なのではない。

問題が何も解決していなく、笑えば笑うほど、本当は悲しくなる場面なのだ。
登場人物たちも、藁をもすがる思いで、笑いが起きる場面を作り出す。
観客たちはそんな切実な思いでひねり出した笑いにすがりつく。
涙を流すくらいに声を出して笑う。
パーティー用にあつらえた派手な裏地をちらりと見せるだけで。
思い出の腰振りダンスを踊るだけで。

息子二コラの父ピエールと母アンヌは別れ、ピエールは再婚し新しい妻ソフィアと暮らしている。
アンヌはピエールの元を訪ね、二コラが3ヵ月間高校に行っていないということを相談する。
二コラは母の元に居ることは出来ないと出て行き、父の家に来る。

ただし、血のつながらない、父の新しい妻ソフィアとうまくいかない。
こちらには、新しい子も出来ている。
ソフィアが冷たくしているわけではないのだ。
二コラの考えていること、行動が理解できないだけなのだ。

父にとり息子のことは心配だが、
弁護士の仕事上で大きなステップアップの場が訪れようとしている。
息子は先ずは学校に行くようになってくれさえすればいい。
そうすれば、例えば自分のように、そこそこの人生を送る能力はあるのだ。
自分の息子なのだから。
学校に行かないのも、一時の気の迷い。
自分がちゃんと説得すればきっとわかってくれる。

母にとっても、息子は自慢の息子。
私の太陽。
なぜ、私が居るのに学校へ行かなくなってしまったのか。
反省し落ち込むが、理由はわからない。
夫と別れたのがいけなかったのか。
育て方が悪かったのか。

舞台は母が住む家と父が住む家の2カ所のみ。
二コラが通う高校は登場しない。
観客は二コラが行っているという学校の場面は想像するしかない。

終盤、二コラの嘘がばれた時、父と同様、僕たち観客は唖然とする。
二コラは何という孤独で空しい時間を過ごしていたのか。

でもそれを分かったからと言って、二コラを理解したことになるのだろうか。
どの分岐点を誤らなかったら、二コラを悲劇的な結末に追い込まなくて済んだだろうか。

答えが思いつかず、ただ客席で呆然とする。
この演劇は、とある家族のひとつの事象を描いている。
観客の留飲を下げる気持ちも、希望を感じてもらう意図もない。
ただただ、とある家庭にあったことを提示する。
観客はもしかしたら、自分と結びつけず、関係のないどこかの気の毒な家族の話だと思うかもしれない。

自分とは違う誰かの心情を知ること。
それが例えば演劇を観る意味と言えるかもしれない。
それは自分とは関係ないと言ってしまうなら、それはそれでいい。
他人の人生なのだから。

俳優のファンは、ひいきするファン目線から物語に入ることもあるだろう。
決して楽しい話ではない。
どきどきわくわくなんてしない。
自分が愛する俳優が、カッコ悪くちっぽけで惨めな姿をさらす。
派手な衣装もカッコいいダンスも歌もない。
それなら、コンサートに行った方が楽しくてハッピーだ、と言う人もいるかもしれない。

でも、目の前で演じる姿を見て、何かしら感じ取るからこそ、
終演後の暖かい拍手に結び付くのは間違いないだろう。
そして、誰かと、大いに、またはちょっぴり、観たことについて話すのだ。
もちろんひとりでかみしめるのもいい。

終演後の帰り際、いろいろ語り合っているロビーを見るのは楽しい。
関係ないのに意味なく、しばらく佇んでみたりする。
他人なのに一緒に観たなという気持ちに少しだけなった気がするのだ。






 

路上演劇祭Japan in 浜松2024で「名のなき人」を演じた

カテゴリー │演劇ブログで演劇

3月20日、鴨江アートセンターで行われた、
竹嶋賢一音楽会「二人 Vol.1」に続き、
6月8日、路上演劇祭Japan in 浜松2024にて上演した。

場所は屋内から屋外へ。
違う場所で行ったことで学んだことが多い。

観てくれた人、ありがとう。
一緒にやってくれた人、ありがとう。



16:40~  テラ・ダンス・ムジカ 【名のなき人】


《前置き》

ここは、バスと電車の連結口になっている公共の場である。
コンクリートの天井や壁で、雨露とは無縁だ。
吹き抜けは空とつながっていて、大いに陽が差し込む。
春は近いが、朝夜は冷え込む。
そこで、この男は生活をしている。

この場で生活している延長で、有楽街に立つ。
口を開くかもしれないし、あまり開かないかもしれない。
セリフを言おうと思うが、
詩的な言葉の切れ端かもしれない。
男の持ち物は、一冊のノートと一本のペン。

ぶつぶつ呟きながら、何かをしきりに書き付けているが、
まともなものを書いていると思う者は誰もいない。
一瞥もせず通り過ぎていく人も、
また、男と同様、一切合切の持ち物をまとめ生活している人も。
周りには、舞っている者や奏でている者もいるかもしれないが、
男はさして気にしている様子はない。
舞台作品として、観客にとり、調和しているように見えれば、良い。





《戯曲》

名のなき人


第一章:我のこと


本名を名乗らなくなってから、ずいぶん経つ。
我は、『名のなき人』。
昨日と同じ朝が来たが、予定はない。

寒い土地で生まれた。
もう、帰ることはない。
都会に出て、長く生活をした。
もう、戻ることは出来ない。

記憶は、薄れかけている。
暇があれば、覚えている記憶を数えてみようか。

目の前を通り過ぎていく。
人、人、人、人、人、人‥‥‥。
彼らと目が合うことはない。
オレを避けて、過ぎ去っていく。
こちらから、目を向けることはない。

我が目には、何が映っているのだ。
角膜から光が入り、網膜に景色が写り込む。
そこに、いったい何の意味があるのだ!

路上での生活は、自ら選んだ。
朝は、身の回りの掃除をする。
ボロボロの箒を手にして。

誰の為でもない。
ここに居るための「言い訳」。
誰の為にも生きていやしない‥‥‥。

今日はトモコの命日だ。
花を供えようか。
季節柄、咲いている花はない。
出歩こうか…‥‥。
ああ、痛い‥‥‥。

書くとするか。
食べることには、興味がない。

酒は‥‥‥。
空っぽだ。

書こう。
書くしかない。




第二章:トモコのこと


ただいま。
‥‥‥いないのか。

‥‥‥腹が減った。
口に物を入れたのはいつのことだったか。

何にも書いていない。
真っ白だ。
オレの人生、真っ白だ。

トモコ。
どこにいる?
トモコ。
どこ?

(手帳をめくり)あった。
トモコの頭がおかしくなった日。

いや、オレが悪いんじゃないよ。おまえがさ、
だって、おまえが、
オレ?
オレのせいだって言うの?
オレの母親が悪い?
父親が悪い?
生んでくれた親の悪口言うなよ。
おまえの親だって。

生まれた町?
学校?
オレの友だちの悪口言うなよ。
オレのことは言ってもいいからさあ。

傷つくよ。
言われれば。
オレだって。
人間なんだからさあ。

ごめん。
悪かった。
ごめんですめば、警察いらん?
警察だって、信用できたもんじゃねえだろう?
あいつらだって。
人間なんだからさあ。

そういう問題じゃない。
そうだな。

オレの問題か。
オレが謝ればすむのか。

オレは、おまえじゃないんだよ。
オレはオレで、トモコじゃないんだよ。

泣くなよ。
泣くなよお。
頼むからさあ。

そんなことよりも、オレにはやらなければならないことがあるんだ。




第三章:花を探しに行く


この花の名前は何だろう。
生まれ育った、寒い町で見かけた花か。
都会で、出掛けた先の花屋で見たのか。

オレは花の名前は知らない。
人生に必要だと思ったことがない。

サクラ。
ひまわり。
たんぽぽ。
チューリップ。
バラ。
菊の花‥‥‥。

‥‥‥トモコの為に花を供えなければ。
トモコが好きだった花。
何だったかな。

思い出せない。
いろんな花が好きだったからな。
春夏秋冬。
野の花も。
花屋の花も。

生まれ変わったら、花屋になりたいなんて言っていたな。
「そんなつまらない夢はやめろ。なりたけりゃ、今すぐにだってなれる。花屋なんか」

トモコの夢よりも、オレのことが大事だった。
そればかりだった。
それが、世間も、まわりも、幸せにすることだと思っていた。

オレばかりだった。




第四章:喪失


トモコが死んだのは、やたらと天気がいい日だった。
オレは、トモコの死を悼むよりも、オレへの当てつけのように死んだのを恨んだ。

トモコがいなくなっても、オレは、あまりある多くのモノを持ち得ていると思っていた。
仕事も、趣味も、夢も、名誉も、財産も、オレを大切に思い支えてくれる人も。

そんなものは何もなかった。
何一つなかった。

悪いことは重なった。
踏みとどまり、挽回する力もなかった。
オレは何も持ち得ていないことを知った。
実力も運も。

家を出よう。
トモコとの思い出が詰まったこの家を。
すでにオレの持ち物ではない。
他人の手に渡っている。
そいつらは、オレとトモコとの思い出を引き継いではくれない。

くそっ、
ばかやろう、
なんてこった、
死にやがれ、
全員まとめて、地獄に落ちちまえ。




第五章:花の名前


行こう。
立ち上がろう。
トモコのための花を探しに。

オレは立つことが出来るだろうか?
今、ここで。
すっと、
いや、よろよろだってかまわない。

出来ないのは、降り続ける雨のせいじゃない。
底冷えする寒さのせいじゃない。
治らない足のせいじゃない。

花を見つけるのだ。
トモコが好きだった花。
町へ出るのだ。
足を踏み出すのだ。
歩く。
歩く。
歩く。
その先をたどれば、生まれた寒い町に行きつくかもしれない。

どうしよう。
我は名のなき人。
そこで、自分の名前を名乗ることが出来るだろうか。
オレは‥‥‥。

花を見つけたら‥‥‥。
花の名前を調べよう。
分からなければ、誰かに聞こう。
そして、書こう。
花の名を。

陽が照ればよい。
こればかりは、天に向かって祈ろうか。
トモコ。


謡 寺田景一
舞 杉浦麻友美 野中風花
音 竹嶋賢一 加茂雄暉


写真:榎本有希子




                       



 

鴨江アートセンターで演劇集団浜松キッド「宮沢賢治 セロ弾きのゴーシュ」を観た

カテゴリー │演劇音楽

6月23日(日)16時~

進化系移動朗読劇×音楽家生演奏と銘打ち、
6月23日の鴨江アートセンターから、10月19日、11月16日の浜松市雄踏文化センターへ続く。

浜松キッドによる朗読劇の他、音楽家による生演奏も行われる。
音楽家は各日変わり、この日はクラシックギター奏者の高崎守弘さん。

「宮沢賢治 セロ弾きのゴーシュ」は3月23日の大同窓会公演に続いて観たが、
文字通り、進化していた。
時を経て、作品は成長する。

金星音楽団は10日後に行われる音楽会のために、練習をしている。
セロを担当するゴーシュが、どうしてもまわりの演奏についていけなくて、
楽長から注意を受けている。

家に帰り、ひとり練習をしていると、猫やカッコーやたぬきや野ねずみの親子が順番に現れる、
という話。

それぞれの役を俳優が演じ、弁士が話をつなぐ。

「団長より愛を込めて」というリーフレットの挨拶分に、今回の公演に至った経緯が記されている。
朗読劇「セロ弾きのゴーシュ」は平成8年(1996年)9月15日に浜松キッド第16回公演として上演された。

当時から劇団とも付き合いのあった洋画家の足立典正さん(団長の小中の同級生)の御逝去がきっかけで、
再演することを決め、劇団員他OB、仲間たちにより台本、音響、小道具(動物の被り物)、チラシなどが揃っていく。

高崎守弘さんは、浜松キッド団長・山田利明さんの高校の同級生なんだそうだ。
40年間オーストリアのウィーンでクラシックギター奏者として、国内外で演奏活動をしていた。
3年前に地元浜松に戻り、クラシックギターの演奏及び指導を行っている。

ハプスブルグ家や大航海時代などヨーロッパの歴史などの話から曲を演奏する構成は、
まるで時間と場所をまたいだ世界旅行をしているようだった。

クラシック音楽に明るいわけでも、クラシックギターについて考えたこともなかったが、
そういえば、クラシックギターが入っているオーケストラはあまりないのではないか?
とふと思った。

ネットで少し調べてみたら、
他の楽器と比べ音量が少ないことや、
音の減退が早いことが理由として述べられていた。
つまり、音が埋もれてしまうのだ。
また、クラシックギターは音色の幅広さなどから「小さなオーケストラ」と呼ばれている記事もあった。

と言うことは、大所帯のオーケストラや演奏場所に縛られることもない。
演奏者とギター1本で、何処へでも行くことが出来るのだ。

旅先で観た光景に触発されてギター曲を作る。
大陸を越え、ヨーロッパの曲と南米の曲はまた違うだろう。

バッハの前奏曲に始まり、スペイン、キューバ、南米のギター曲。
映画音楽で「11月のある日」、「(ディアハンターより)カヴァティーナ」など。

「アルハンブラの思い出」は、
スペイン人のギタリスト、タレガがアルハンブラ宮殿の噴水から落ちる水が光に反射するのを見て、
着想して作られたということだ。







 

穂の国とよはし芸術劇場PLATでアマヤドリ「牢獄の森」を観た

カテゴリー │演劇

6月15日(土)14時30分~

前週8日(土)は浜松有楽街で路上演劇祭Japan in 浜松2024に出演した。
翌週16日(日)にも、鴨江アートセンターで行われる音楽会「二人」のプログラムの中で、
2名のギター即興演奏と朗読で共演することになっている。

本番の前日、他の公演を観ている場合ではないとも思うのだが、
即興上演と言う幕が上がらなければわからない方式である以上、
じたばたしても仕方がない。

劇場のホームページに掲載された過去上演写真はダンスシーンだった。
きっとダンスシーンが中心の作品なのだろう。
作・演出の広田淳一さんの経歴でアマヤドリ以前率いていたのは、ひょっとこ乱舞と言う。

書いた台本のタイトルは「しゃべらぬダンサー」。
ダンサーをテーマに書いた。
きっと、僕の本番にも触発されることだろうと観劇を後押しした。

僕は、幕が開き、いつダンスシーンが始まるだろうという気持ちを抱きながら、
演劇を見守っていた。

ダンスシーンはまったくなかった。
セリフのみの完全なるストレートプレイだった。
ああ。

もちろん、観に行ったことに悔いはまったくない。

この作品はPLATのレジデンス事業で、劇団が劇場に滞在して制作された。
アフタートークで、2週間の滞在で会ったことが語られた。
劇場が演劇を上演する場所だけでなく、演劇を創る場所であること。
その理想の元、行われている。
そして、地域の方を対象に行うワークショップ、公開稽古などでも還元する。

ホームページで出演者の中に、
2014年の路上演劇祭Japan in 浜松に広島から参加したグンジョーブタイの深海哲哉さんの名前を見かけた。
へえ~。なぜ東京の劇団に舞台に?と素朴な疑問。
終演後、ロビーで声をかけ、解決した。
どちらにも所属されているのだ。アマヤドリもグンジョーブタイも。

チラシにアマヤドリの紹介文では、
現代口語から散文詩まで扱う「変幻自在の劇言語」と、
クラッピングや群舞など音楽・ダンス的な要素も節操なく取り入れた「自由自在の身体性」を両輪として活動、とある。

今回の「牢獄の森」は完全なる前者のタイプ。
現代口語を使ったディストピア演劇、とでも言えばいいのか。

戯曲を購入したのだが、セリフ内に独自の記号がふられていて、
出入りのタイミングや間の取り方などしゃべり方の指示がある。
「平田オリザさんっぽい!」

そうか。
現代口語演劇の手法であるが、そこに近未来劇の要素が入っているのが特徴の舞台。

実は、この演劇は、修羅場の表現を避けている。
問題が起こったのは、舞台で流れる時間の以前であり、以後である。
観客は、時の前後、場所の外を想像する。
交わされる登場人物の日常会話の中で。

犯罪を起こす因子を持っている人たち(キャリアという)を集めた施設が、とある森にある。
ネーション(国家か?)から派遣された管理者が取り締まり、
そこでは、いつも話し合いによるシミュレーションが行われている。

タイトルの「森の牢獄」というように、
現実社会から隔離され、収監された人たちであるが、
ルールにのっとった厳しい管理ではなく、
現代の自然の恐ろしさには目を向けない、
ガーリー(乙女ちっく)な“森ブーム”の雰囲気で、
ヨガや料理にいそしむなど、自主性を重んじている。
恋愛も自由。

民主主義も、
学級会も、
寄り合いも、
薬物やアルコール依存の自助グループも、
自由な話し合いの中で解決することを良しとする。

そこでは、相手の意見を否定しない、
互いを肯定し、認め合うことから始めるのを基本とする。

問題が起きそうになっても個人間に任せない。
集団の中の問題として置き、関係性の中で有機的な解決手段をさぐる。

緩やかな関係。
硬直しないむしろ弛緩した、
許し許される関係。
それが平和。

それでも問題は起こる。
何しろ、犯罪を起こす因子を持つ人たちなのだから。
緩やかな関係性の中で解決できない場合、
その当事者は自ら出て行く。
この場所に居ることが出来なくなるのだ。
牢獄からの出所という名目で。

時には入所者の中から、腕章を巻き、管理者の役割を担う者がいる。
管理される者の上り(あがり)は管理する者としての実践を行うこと。
出所は喜ぶべきことだが、
その役割を担っているテーパは、頭痛に悩まされ、
愛する妻や子の記憶もあいまい。

不適合者たちによる“森”での平和的な理想社会が、維持されることはない。
僕たちが生きる現実社会で、それが実現できないように。

ここでは、出所した娑婆の世界の問題も言葉のみで表される。
「戦争」。

もはや、そこでの言葉だけの「戦争」は、記号でしかない。
実体がないのだ。
家族の実体もない。

嘘の“森”。
まやかしの“ネイチャー”。
自然は本来、闇深く恐ろしいものなのだ。
人間は人間内の論理の中でじたばたする。
「戦争」も。

実際の血縁と関係のない「人々」の中で生まれ、育つ子は、人類の未来なのだろうか?
生まれ来る子には皆やさしい。
今生きているの者たちに対してよりもずっと。

未来の子に勝手に希望を抱く。
さえない自らを託し。







 

静岡文化芸術大学で映画×演劇プロジェクト「哭く」を観た

カテゴリー │いろいろ見た

映画制作チームbfの2020年度作品「哭く」の映画上映と、
それを元に舞台化した舞台公演を組み合わせた企画。

映画上映 18時15分~ 南176講義室
舞台公演 19時~    講堂

どちらも30分ほどの作品。
再現性に大きな特徴を持つ映画と、
再現性が不可能な演劇。
同じ内容、同じタイトルの作品にそれぞれの特徴が活かされている。

映画に映っているのは四年前に作られた当時の学生で、
学内の講堂で演劇を演じているのは今の学生。
同じ大学の学生の間で時を経て、演劇作りにおいて引き継ぐ作業が行われる。

南176講義室と講堂という近い距離にある場所を移動し、
連続して観ると、その引き継ぐ作業がわかる気がして感慨深い。

映画のそれぞれのシーンが、演劇に落とし込まれていく。

舞台美術となり、衣装となり、演技となり、演出となり、戯曲となり。
それぞれの担当者が、各自映画「哭く」のことを考える。

天井のバーから吊るされた赤い紐が印象的だった。
前段は中央寄りに椅子を間に2本真下に吊るされている。
後段は左右から3本ずつまとめられ、舞台に置かれた椅子にがんじがらめに括り付けられている。

俳優の登場は左右から静かに登場し、所定の位置に配置されると演技を始める。
まるでベルトコンベアーに乗っかって、あらかじめ組み込まれていることが起こるという感じで、
とても整理整頓されているように思った。

俳優が主体なのではない。
俳優による演技も演劇全体の一部であり、
その他のものと合わさって演劇は出来ている。

だからと言って俳優の演技がおろそかにされているわけではなく、
伝えるべきことをシンプルに伝え、かえって言いたいことが明確になるような気がした。

映画には登場しない、ギリシア劇で言うコロスが活躍する。
梶井基次郎の「桜の樹の下には」だろうか。
順番に出て来て「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と読みだす。
その他にも、簡単な肉体パフォーマンス(基本は立ったり座ったりだが)、
言葉が書かれた紙を持って来て並べたりする。

彼女たちは、上が白、下が黒の出で立ちだが、服のタイプはそれぞれ違い工夫されている。
衣装の色は、登場人物の服装とも関連している。

同級生の3人組(男性役だが、演劇では女性が演じている)が、いつものように集まってくっちゃべっている時に、
現れる黒づくめの服の唯という女性。
彼らと同じ大学に通う学生だが、まわりと合わせることはしない。
その中のひとり伊織はまわりに合わせる性格で、正反対の唯のことが気になる。

公園で話をするきっかけができる。
映画ではその前にひとつのエピソードがあるが、演劇ではクライマックスのあとに現れる。
心を開くきっかけとなる会話がされたのち、唯は伊織に夜の11時だから、お子さまは帰りなさいとたしなめ、
今から仕事と、その場を去る。

映画では、何の仕事かわからなかったが、演劇ではそれ以前に唯が学生ながら流行作家として活躍していることを示唆している。
だから、仕事の意味が執筆であることを知っている。

そのように、映画と演劇、情報の出し入れの箇所が異なり、観ている人の印象は変わる。

赤いリンゴや煙草のマルボロなど、映画で使われている小道具も効果的に使用されていた。
冒頭、リンゴをボンボンと床に落とす音は、刺激的だった。
唯という女性を象徴する煙草のシーンも感心するほど、さりげなかった。

クライマックスで真下に垂れた赤い紐が唯一使用される。
今まで整理整頓され、律義に時間を使って来た劇がここに集約される気がした。

その後の結末は、もはやすべて語り終えた後の結論。
伊織の服装が唯と同じ黒に変わったことが観客に伝わればよいのだ。








 

シネマe~raで「イーちゃんの白い杖 特別編」を観た

カテゴリー │映画

3月から5月にかけてシネマe~raで観た映画。

3月30日(土)11時35分~ ビクトル・エリセ監督「瞳を閉じて」
5月3日(土)12時~ 濱口竜介監督「悪は存在しない」

5月26日(日)9時50分~ 
シネマe~raで橋本真理子監督「イーちゃんの白い杖 特別編」を観た。
この日は上映後、映画に登場する焼津市在住の小長谷一家と音楽の川口カズヒロさんが舞台挨拶で登壇。

元々はテレビ静岡制作のテレビ番組のドキュメンタリー。
1999年、視覚障がいの世界や盲学校の現状を描いた「イーちゃんの白い杖-100年目の盲学校-」から、
25年に渡り継続取材し、作り上げた。

イーちゃんが小学生時代通っていた盲学校は同じ学年がイーちゃんひとり。
先生とマンツーマンの授業が行われる。
天井の高さを知る授業。
机の上に立ち、手を挙げるがまだ届かない。
椅子の高さを把握し、机の上に椅子を積み上げ、
イーちゃんはその上に立つ。
そして、てのひらは天井に届き、
天井というものの姿を知る。
そして、高さというものを身体で知る。

僕だったら、見上げて、ああ、天井だなあで済ましてしまう。

人は自分とあまり関係がないものには、気を留めないものだが、
ビールの缶に点字の表記がある。

イーちゃんこと小長谷唯織さんは、授業の一環でスーパーに出向き、
陳列されているお酒売り場で、いろいろな缶の上部をさわりながら、
「酒かお酒って書いてある」と嬉しそうに言う。

目の不自由な方が、缶飲料で、酒と間違えないようにとの配慮で始まったが、
身近にも点字表記されているものがある。
食料品、電化製品、日用品、信号機、自販機、駅の切符売り場など。
ただし、それに気が付かない。
僕にとって必要ないからだ。

彼女の家族にとっては違う。
共に生活している。
お母さんにとっても。おとうさんにとっても。
おばあちゃん、おじいちゃんにとっても。

外に出る時は、点字ブロックが頼りだ。
お母さんは、イーちゃんが自ら道の進み方を覚えるのを待つ。
手を引っ張れば簡単かもしれないが、何度も迷うのをじっと見守る。
イーちゃんはお母さんに見守られ、行き方を覚える。

弟のイブ君こと小長谷伊吹さんも視覚障がい者だ。
イーちゃんは、白い杖をつき、自分で学校に通うことが出来るが、
イブ君は、出来ない。
イーちゃんよりも障がいは重い。
イーちゃんとイブ君は、互いの顔を見たことがない。

イブ君は音楽が大好きだ。
姉のイーちゃんのピアノ演奏に身体をゆすり、手を合わせ、拍子をとる。
「幸せなら手をたたこう」が大好きだ。
幼稚園の仲間たちが声に出して歌っている中、
イブ君は、心と身体で歌っている。

イーちゃんは小学校は静岡の盲学校、中学は東京の盲学校、
卒業すると浜松の視覚特別支援学校にマッサージ師になるための専門教育を受ける。
住んでいる焼津市から電車に乗り、浜松駅で降り、バスで学校まで通う。
僕もなじみの浜松駅からバスターミナルに続く地下の連絡通路を歩く。
自分の手足であるかのように自在に使う白い杖を突いて。
もちろん自在に見えるのは僕の一方的な思い込みかもしれない。
イーちゃんに直接聞いたこともないのだから。

監督の橋本真理子さんは、テレビ静岡の社員であるが、
小学生の時、お父さんが口腔がんにより、話すことができない障がい者になったことがきっかけで、
記者になることを志す。

「障がい者への偏見をなくしたい」
「障がい者が生きやすい社会にしたい」

その思いが、地方テレビ局の記者として仕事をしながら、
自分のやりたいテーマをさぐる。

30年ほど前、静岡盲学校100周年記念式典の取材時に、
にこにこと目の前を駆けて行ったイーちゃんと出会い、声をかけたのがきっかけだそうだ。

ひとつ質問をすると10の答えが返ってきたとパンフレットの監督のインタビューで語られている。
30年経ち、この日シネマe~raで、東京の盲学校で知り合い結婚した和典さんやイブ君、お父さんお母さんと登壇したイーちゃんは、
まさにそんな感じだった。

イーちゃんは東京での盲学校時代、弱視者と全盲者の違いの中でいじめの体験から、この時期は取材を拒否していた。
その後、和典さんと付き合いはじめ、焼津の実家に遊びに来て、
かつてピアニストを目ざしていたが諦めたイーちゃんのピアノを和典さんがショパンの曲を弾き、
お母さんがめっちゃ上手いじゃんと、感動している姿が美しかった。

舞台挨拶の司会をした橋本監督といかに信頼関係で結ばれているかがよくわかる。
イーちゃんは、これからもよろしくお願いしますと、にこやかに笑う。
取材はまだまだ続く。

31歳になったイブ君、お母さん、お父さんも揃い、
最後は川口カズヒロさんの弾き語りで主題歌「I-あい-」を歌い幕を閉じた。
あいさつ後、何となく元気がなくなったように見えたイブ君は、吹き返し、
音楽にノリノリだった。







 

路上演劇祭Japan in 浜松2024 6月8日(土) 有楽街にて開催!!

カテゴリー │演劇

路上演劇祭Japan in 浜松2024

‘’旅する。有楽街‘’

有楽街を北から南へ移動しながら上演します!!

6月8日(土) 13時~18時30分頃
会場:有楽街 
※雨天時 砂山銀座サザンクロス商店街
観覧無料



Time Table

13:00~ 出張お芝居!ぷちまり【ぷちまりメドレー】

13:15~ URARA【「Metamorphose」「Japanese Dance」】

13:40~ キング人民共和国【田紳有楽羅漢さんがそろたらそろそろまわそ】

14:05~ 浜松キャラバン隊【知的障害・発達障害こんな行動あるある】

14:20~ 木の実プロデュース【アウタビニ、オノマトペ】

14:40~ a・la・ALA・Live(ア・ラ・アラ・ライヴ)【a・la・ALA・Live 浜松路上演劇祭バージョン】

15:10~ 劇団天文座【永遠の星】


15:40~ エンジョイ・おでんの具【アフリカン・パーティ】

16:10~ 加藤解放区【Ya(ra)maika】

16:40~ テラ・ダンス・ムジカ【名のなき人】

17:00~ 里見のぞみ【ごろり、ぐるり、ばたり】

17:30~ 劇団カチコミ【囃 ハヤシ】

18:00~ お芝居デリバリーまりまり【身体表現のみで繰り広げる昔話メドレー】

18:30~ フィナーレ【リズムYou-Raku-Gai】

滞在型出演 ひらのあきひろ【コネクトプロジェクト(らの歩き2)】 

隙間型出演 浜松和合新町管弦楽合奏団【純粋管弦楽曲】

※開演時間・出演者等タイムテーブルは状況により急遽変更となる場合があります。
予めご了承ください。


僕も16時40分から出演します。

テラ・ダンス・ムジカ
【名のなき人】
謡:寺田景一 舞:杉浦麻友美 野中風花 音曲:竹嶋賢一 加茂雄暉

観に来てね!!











 

劇団からっかぜアトリエで演劇ユニットぽんぽこハニー「ことなかれ」を観た

カテゴリー │演劇

5月18日(土)19時~

演劇ユニット ぽんぽこハニーは、MUNA-POCKET COFFEEHOUSE(通称ムナポケ)から派生したユニットで、今回は第1回公演。
ムナポケらしくダブルキャスト制で、YMOのビハインド・ザ・マスクで芝居は始まる。
僕が観たのは「チームぽんぽこ」。

演出・プロデューサーはムナポケの大石健太さん。
脚本は演劇集団Rubbishの根間健太郎さん。

1615年5月、大阪の陣で徳川方に負けた豊臣方・秀吉の子秀頼は、母親茶々と共に、自害し、戦国時代は終わりを遂げる。
その際、家康の孫であり、秀頼の妻、千姫は城から抜け出し、父である将軍秀忠に夫と茶々の助命を嘆願するが受け入れられなかった。

そして、2019年令和の新元号名が発表される前に時間は飛ぶ。

戦乱の時代の終焉と令和前を結びつけるのは、1年後コロナ禍に突入する2020年に再び飛ぶことにより、作者の意図を理解する。
新しい元号になじむ間もなくコロナの波状攻撃を受ける若者、大学生年代の青春群像を描いている。

タイトルの「ことなかれ」。
ことなかれとは、いい意味では使われない言葉だ。
物事を荒立てないように、穏便にすませようとすること。
ある意味、平和的解決を望むことを言う。
それも自分では手を下さず、人任せで、何とかしてくれること、何とかなることを望む。

でも、あえて性急に対処しようとせず、ゆっくりと時を待ち、解決に導こうという意思的な態度にも思う。

世界に紛争が絶えないのも、自然災害も、コロナ禍が起きたのも自分のせいではない。
そんな大きな問題も大事だが、自分でしかどうにもできない問題がある。
それは他人にとってはちっぽけな問題かもしれないけど、自分にとっては世界の問題と同じくらい重い。

登場人物たちはそれぞれ生きている場所で懸命に生きている。
大学の友だちの中、ミタニは大学に行っていなく、だからと言って就職するつもりもない。
コサワという付き合っている男はいる。
ただ、あまりうまく行っていない。
言ってみれば、どこにでもいるひとりの女性。
彼女がどう変わるかが、この話の主題でもある。

登場人物たちの会話が面白かった。
キャラクターに添ったセリフ、行動がまわりの反応を促す。
日常のあるあるが、現代の若者を描写する。

ただし、その演技の手法は、時代劇パートの演技とは異なる。

秀頼が没したのは22歳。この時、千姫18歳。

秀頼と千姫の悲恋を現代に生きる若者に置き換えたのは、
昨年の大河ドラマ「どうする家康」の影響もあるかもしれない。
秀頼が現代にタイムスリップした大学生の姓、古沢(コサワ)は「どうする家康」の脚本家と同じ。
他の登場人物にも実在の脚本家の名が並ぶ。

元号が変わりコロナ禍に突入する若者たちの葛藤を、
生き方も考え方も違う時代のうねりと重ね合わせるのが、狙いだっただろう。

そこには風の音がうめき、風見鶏がくるくる回る。

タイムスリップと言ったが、多くのタイムスリップ物の用のように、登場人物の意思を引き継がない。
生まれ変わり、転生と言った方がいいかもしれない。

千姫、秀頼が今の時代でどう生きるではなく、
今に生きるミタニ、コサワがどう生きるというのがテーマなのだ。

生きている時代や生まれた状況は違えど、
自分が自分の為にどう生きて行くか考えなければならないことは同じ。

ミタニは、同時代、同年代にとって、あたりまえの選択をする。
もちろん彼女にとって大きく必要な。

自分のことには「ことなかれ」とは言っていられない。