2014年02月25日07:21
静岡芸術劇場でSPAC「真夏の夜の夢」を観た≫
カテゴリー │演劇
9日(日)舞台芸術公園のBOXシアターで行われた「赤鬼」の後、
16時からグランシップの静岡芸術劇場で行われる「真夏の夜の夢」を観た。
野田秀樹がかつて、シェイクスピアの戯曲を原作に書き起こし、
上演された「野田版 真夏の夜の夢」を宮城聰が演出。
宮城さんが演出し、野外劇場で上演された唐十郎が書いた「ふたりの女~唐版・葵上」を観たが、
その時のキャッチコピーに
「能×アングラ×宮城聰」とある。
今回は
「シェイクスピア×野田秀樹×宮城聰」だろうか。
掛け合わせることにより、新たなものが生まれる作戦と見る。
といわずとも、
存在自体掛け合わせだ。
思考も掛け合わせだ。
行動も掛け合わせだ。
劇中、打楽器の音が寸断なく入る。
新聞紙を固めて作ったという衣装は印象的だ。
設定では「富士の麓」という舞台美術、
木々を意味する昇り棒が何本も立ち並び、
精霊たちがたたずみ、
人々が昇り降りし、
舞台の縦横四面を有効に使う。
野田の芝居自体、シェイクスピアの原作にはないメフィストなどが登場し、
ずいぶん書き換えられている。
×が多いと、それだけ、観る側も鍛えられる。
単純に考えても情報が多くなるからだ。
僕がかつていた劇団での上演作品は
例えば
北村想作の「想稿 銀河鉄道の夜」
寺山修司作の「星の王子様」
前者は
「宮澤賢治×北村想×劇団」
後者は
「サン・テグジュべり×寺山修司×劇団」
と、掛け合わせでは宮城さんの演出作品と同じ構造だろう。
それだけ、やる側も学ぶことが増える。
観客に届けるには
やる側の理解・解釈も重要になる。
わかってやっているのか、
どんな思いでやっているのか。
「想稿 銀河鉄道の夜」は、
宮澤賢治の銀河鉄道の夜にひたすら敬意を表して、書いている。
当時アニメ映画化された「銀河鉄道の夜」を観て、
自分ならこう書くと、戯曲化した作品と触れている。
そして、
「星の王子様」は
王子の純粋な心に対しての反語として書いている。
童話星の王子様の読者たちに「ゲッ」と言わせようと書いている。
もちろん敬意があっての反語であるが。
表があれば裏もあることをあえて書くのだ。
宮城さんの場合はどうであっただろうか。
宮城さんは公言しているように
唐さんも野田さんもファンであった。
野田さんは同じ高校の先輩後輩で、高校の教室で行われた
野田演じる作品を見た様子を書いている。
だが、それだけにすぐには彼らの戯曲を演出するには時間が必要だったようだ。
唐さんも野田さんも現役である。
いろいろな意味で「近い」のである。
対して、
北村さんにとっての宮澤賢治「銀河鉄道の夜」、
寺山さんにとってのサン・テグジュべりの「星の王子様」は
ほどよい距離がある。
そんな「遠さ」がちょうどよく対象化されることにもなるのだ。
何をやっても許される。
本人たち、亡くなってるし。
宮城さんは大変なことはあったと思う。
本人たち、生きてるし。
実際「唐版 葵上」は僕が観に行った時、唐さん当人も観劇に来ていた。
紹介されてたし。
僕らは唐さんがどう観ているのかも観る。
野田さんの作品「THE BEE」は上演ツアーの中に静岡芸術劇場での
上演も含まれていた。
関係は続いている。
そんな現役の表現者同士の微妙な関係。
その結果は
敬意を色濃く表しながらも、
自らの表現手段をふんだんに発揮する。
そんな公演だったと思う。
「真夏の夜の夢」は。
16時からグランシップの静岡芸術劇場で行われる「真夏の夜の夢」を観た。
野田秀樹がかつて、シェイクスピアの戯曲を原作に書き起こし、
上演された「野田版 真夏の夜の夢」を宮城聰が演出。
宮城さんが演出し、野外劇場で上演された唐十郎が書いた「ふたりの女~唐版・葵上」を観たが、
その時のキャッチコピーに
「能×アングラ×宮城聰」とある。
今回は
「シェイクスピア×野田秀樹×宮城聰」だろうか。
掛け合わせることにより、新たなものが生まれる作戦と見る。
といわずとも、
存在自体掛け合わせだ。
思考も掛け合わせだ。
行動も掛け合わせだ。
劇中、打楽器の音が寸断なく入る。
新聞紙を固めて作ったという衣装は印象的だ。
設定では「富士の麓」という舞台美術、
木々を意味する昇り棒が何本も立ち並び、
精霊たちがたたずみ、
人々が昇り降りし、
舞台の縦横四面を有効に使う。
野田の芝居自体、シェイクスピアの原作にはないメフィストなどが登場し、
ずいぶん書き換えられている。
×が多いと、それだけ、観る側も鍛えられる。
単純に考えても情報が多くなるからだ。
僕がかつていた劇団での上演作品は
例えば
北村想作の「想稿 銀河鉄道の夜」
寺山修司作の「星の王子様」
前者は
「宮澤賢治×北村想×劇団」
後者は
「サン・テグジュべり×寺山修司×劇団」
と、掛け合わせでは宮城さんの演出作品と同じ構造だろう。
それだけ、やる側も学ぶことが増える。
観客に届けるには
やる側の理解・解釈も重要になる。
わかってやっているのか、
どんな思いでやっているのか。
「想稿 銀河鉄道の夜」は、
宮澤賢治の銀河鉄道の夜にひたすら敬意を表して、書いている。
当時アニメ映画化された「銀河鉄道の夜」を観て、
自分ならこう書くと、戯曲化した作品と触れている。
そして、
「星の王子様」は
王子の純粋な心に対しての反語として書いている。
童話星の王子様の読者たちに「ゲッ」と言わせようと書いている。
もちろん敬意があっての反語であるが。
表があれば裏もあることをあえて書くのだ。
宮城さんの場合はどうであっただろうか。
宮城さんは公言しているように
唐さんも野田さんもファンであった。
野田さんは同じ高校の先輩後輩で、高校の教室で行われた
野田演じる作品を見た様子を書いている。
だが、それだけにすぐには彼らの戯曲を演出するには時間が必要だったようだ。
唐さんも野田さんも現役である。
いろいろな意味で「近い」のである。
対して、
北村さんにとっての宮澤賢治「銀河鉄道の夜」、
寺山さんにとってのサン・テグジュべりの「星の王子様」は
ほどよい距離がある。
そんな「遠さ」がちょうどよく対象化されることにもなるのだ。
何をやっても許される。
本人たち、亡くなってるし。
宮城さんは大変なことはあったと思う。
本人たち、生きてるし。
実際「唐版 葵上」は僕が観に行った時、唐さん当人も観劇に来ていた。
紹介されてたし。
僕らは唐さんがどう観ているのかも観る。
野田さんの作品「THE BEE」は上演ツアーの中に静岡芸術劇場での
上演も含まれていた。
関係は続いている。
そんな現役の表現者同士の微妙な関係。
その結果は
敬意を色濃く表しながらも、
自らの表現手段をふんだんに発揮する。
そんな公演だったと思う。
「真夏の夜の夢」は。
この記事へのコメント
あまりおもしろくなかったのですね♪
Posted by 猪ボヘミアン at 2014年02月26日 18:43
というわけでもないのですが、
舞台で繰り広げられていることが
少し遠くにある気がしました。
情報量を僕がうまくキャッチできなかったのかもしれません。
舞台で繰り広げられていることが
少し遠くにある気がしました。
情報量を僕がうまくキャッチできなかったのかもしれません。
Posted by テトラ at 2014年03月01日 09:09