浜松城公園石舞台でFOX WORKS「近代能楽集 弱法師」を観た

カテゴリー │演劇

10月14日(月・祝)20時~

前週末土曜の台風が明けて、翌日の日曜は晴れていた。
台風は中部・関東・東北に痕跡を残し、
被害に遭われ、対応に追われている方も数多くいた。

にも拘らず、生活は継続する。
それぞれの予定をこなさなければならない。
それが生活を送るということだ。

10月からの消費税増を前に
先月、自転車を購入した。
以前所持していた自転車をなくし日が経つこともあり、
そこそこの距離なら「自転車で行くぞ」
という意気込みがある。

夜8時からという演劇公演としては遅いスタートの
「近代能楽集・弱法師」を観るために
自転車に乗って自宅を出た。

台風が来るまでは
ネットで天気予報を1時間刻みで気にしていた。
ところが過ぎ去ってしまうと
すっかり油断していた。
しばらくは台風一過の晴れが続くものと思い込んでいた。

向かう途中で雨が降ってきたのだ。
引き戻すことも頭をよぎった。
道中、雨に濡れるからだけではない。
今から観ようとしている芝居は
野外劇なのだ。

雨に濡れながら芝居を観ることになるのだろうか。
それとももっと本降りになったら、取りやめになるのだろうか。
雨はコントロールできないので
そのまま会場へ向かった。
幸い雨はそれ以上ひどくならず、
無事公演が行われた。

会場である浜松城公園は
今のような公演に整備される前は
動物園だった。
動物園が郊外に移動となり、
その跡地は、動物園当時の丘陵を活かした
散策が出来る公園となった。

その中に、石舞台はある。
整備されたばかりの頃、
ここで年に1度、薪能が行われていたと思う。
情報だけは見聞し、
いつか行きたいと思っていた。
実際に観たことはないので、
正確ではないが、
実際のかがり火を炊いた本格的なものだったように思う。

ウィキペディアによると
起源は平安時代中期、奈良の興福寺で
催されたものが最初で、
あくまで神事、仏事の神聖な儀式であり、
野外で薪を燃やせば、薪能という訳ではない、
という見解もあるようだが、
時代を超え、薪能という名も
拡大解釈されているのだろう。

石舞台での薪能は
雨天の場合は
アクトホールで場所を変えてやるなどしていたが、
何回か行った後、終了し
ずいぶんと年月が経つ。

その後、“舞台”として使われる機会はどれくらいあったのだろうか。
今回、その石舞台で公演は行われる。
そういえば僕は初めてこの場所で
舞台公演を観る。

「近代能楽集 弱法師」は
三島由紀夫さんが能の演目から
いくつか選んで、現代劇に書き替えた作品のうちの一つだ。
三島さんは小さなころから能などの古典芸能に親しむような
家庭環境だったようだ。

今回の公演は3つの時代の構造を持つと思う。
ひとつは脚本の原点である古典芸能である能の世界。
次に三島さんが書き換えた当時の“今”。
最後に、令和元年に演じるまさに今。

三島さんは古典芸能を当時の現代の芝居に書き換えた。
第二次世界大戦後に
戦災孤児となった俊徳が育ての親と生みの親との間で
調停の場で親権が争われる。

古典の能も近代能楽集も
子を捨てた親と
失明した子との時を経ての再会が描かれているが、
子の反応はまったく異なる。
前者が主に親の心を描いているのに対し、
後者は子の心を主に描いている。

三島は日本が戦争で失ったすべてを取り戻し、
新しい時代を切り開く象徴として俊徳の存在をとらえていたように思う。
だから生みの親も育ての親も必要としていない。
それらは過去の因習なのだ。
過去の因習を捨て去るのがここでの俊徳の反応なのだ。

但し、それもまた今とは違うと思う。
近代能楽集もすでに古典なのだ。
三島さんにとって平安時代に書かれた能が古典であるように。

古典作品も
今の人に向けて上演される。
それが、今、上演される理由なのではないかと
僕は思ったりするし、期待する。

浜松城公園石舞台でFOX WORKS「近代能楽集 弱法師」を観た


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