穂の国とよはし芸術劇場PLATで「ザ・ドクター」を観た

カテゴリー │演劇

12月11日(土) 13時~

大竹しのぶさんがご友人に「絶対見た方がいいよ」と勧められ、
イギリスで「ザ・ドクター」を観て、英語がわからないに関わらず
11人の出演者の繊細な演技に引き込まれ、
その後、今回日本での上演時、出演オファーを受け、びっくりした。

そんなエピソードがPLATが発行している広報誌に掲載されていて
これは観なきゃと思いチケットを購入した。
まあ、大竹さんの演技をじっくり見てみたいという気持ちがあったのは確か。

以前テレビ番組で観たのか何だったのか忘れてしまったが、
こんなようなことを話されていた。

演技をしていて、まわりの共演者が物足りなく、
煽るような演技をしてしまう時がある。

つまりこういうことだ。
もっと私のように演技しなさいよ。

こういうととても傲慢のようにも思うが、
あたりまえのことでもあると思う。

例えば、サッカー。
中田英寿の厳しい高速パスは
パスの受け手である味方をも成長させる。

出だしのセリフは固いように思えた。
早口で、流し込むように言葉が継がれる。
ああ、これは大竹さん演じるルース・ウルフの役つくりに基づく。

これは医療という分野を扱った海外戯曲の翻訳ということで、
セリフの分量の多さと文体の硬さもあるのかもと思いながら聞いていた。

しかし、それはその後も続く演劇全体を見越した計算された演技で、
戯曲もそのように出来ている。
つまり、演技はその後続々と変わっていくのだ。

白状すると
僕はこの演劇が終了してもどこか消化しきれない気がした。
それは、劇の構成による。
演劇は文学や映画や音楽と同様の時間芸術で、
時間の経過を楽しんでいるとも言える。

時間の経過を楽しんでいると、
次々と新しい「問題」が提示されるのだ。
そこで、一瞬頭はフリーズする。
ん?今の情報は何なんだろう?
言葉としてはもちろん理解できる。

ただ、軽くはない問題提示に
僕の頭が追い付いていかないのだ。

宗教
医療倫理
人種
SNS
政治
ジェンダー

それらは単独の問題としてだけでなく
重なり合って、観客にも問うてくる。

その中でルースは追い詰められ、
自らが立ち上げた医療研究所を
辞めることになる。

不利な立場を挽回するための
テレビショーでのリベート番組への出演は
ますます不利な状況に追い込む。
多様な意見の代弁者であるはずの
各専門家は
自分の立場を守るのが第一なので、
沈みゆく船の乗客に手を差し伸べることはしない。
道連れになるのは誰でも嫌だから。

ただし、ダメ出しのように追い込まれていく中で
ルースは不思議とますます強さを得る。
人間とは怖く、たくましい。

舞台上部に設けられたモニターに
映し出されたルース(つまり大竹さん)の表情は
演劇の弱点である物理的な距離による表情の読み取りにくさを
克服し、まる映画のように、まるでテレビのように
表情を大きく映し出す。

観客はリアルの大竹さんの表情と
スクリーン上の大竹さんの表情を見比べる。
もちろん同じなんだが。

観客の前に出現するのは
ほぼ大竹さん自身ではないかと思われる
素に戻ったルース。
いや、素に戻されたルース。

決して自分で選び取ったのではない。
忸怩たる思いで
選ばざるを得なかった自分。

成功者ではあるので
おそらく高級で広い家の中で
ただし、ひとりきりで、
誰に相談できるわけでもない、
誰を頼りにできるわけでもない、
ただただ
ひとりぼっちの自分と向かい合うしかない。

そこで導き出す答えは、
もちろん予想通り。
ここはまったく理解不能なことはない。
気持ちよく演劇は終わり、
カーテンコールとなる。

カーテンコールでも大竹さんは変化(へんげ)を遂げる。
5回に及ぶカーテンコールで次々と変わっていくのだ。
最後は初めてテレビ番組でもおなじみの
“天然”で無防備な可愛らしい
「大竹しのぶ」となる。

そこで観客は一気に脱力し、
満足げに劇場を後にする。

同行者がいれば、
帰りの道で何を話すだろう?
そうでないにしても
近く出会った人と何を話すだろう?

もちろん観てきた演劇についてだ。
他のことを優先して話すとしたら、
そんなに演劇に影響を受けなかった証拠だろう。

僕は、豊橋から浜北区へ車で向かったが、
土曜日の夜は予想以上に混雑していた。

また、消化しきれなかった問題について
ゆっくり考えてみようか。

穂の国とよはし芸術劇場PLATで「ザ・ドクター」を観た



同じカテゴリー(演劇)の記事

 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
穂の国とよはし芸術劇場PLATで「ザ・ドクター」を観た
    コメント(0)