穂の国とよはし芸術劇場PLATで市民と創造する演劇「悲劇なんてまともじゃない」を観た

カテゴリー │演劇

3月4日(土)14時30分~


シェイクスピアのロミオとジュリエットをモチーフにしているが、
シェイクスピアを題材とすることは企画者であるPLATの提案だったという。
上演台本・演出を担当した口字ックの山田佳奈さんが終演後のアフタートークで話っていた。

毎年開催されている、一般公募で出演者を選び、招聘した演出家等と共に演劇をつくる「市民と創造する演劇」では、
「夏の夜の夢」や「リア王」を取り上げた作品が上演されている。

今回、80名以上の応募があり、30数名が選ばれ、演劇の作り方としては、出演者たち自身の話を聞くことから始めたそうだ。
これは以前、同じ企画で俳優等の近藤芳正さんが構成・演出をした「話しグルマ」という作品の際、
山田さんが脚本・演出助手をしたときの手法に影響を受けたという。

その時のチラシ画像には「市民と創るスケッチ群像劇」というキャプションがついている。
スケッチ群像劇、この言葉に、今回の演劇のことがなるほどと思う。

人間ひとりひとりには当然ドラマがあり、
例えば、街中で行き交う人たちを見ながら、四角いフレームを設けてみて、
その中の人たちの人生を切り取って、ドラマにしたらどうだろう?
ということは成り立つと思う。

ただし、ただそれを垂れ流しただけでは、収拾がつかなく、てんでバラバラになってしまうので、
それを集約して、観客の許容に見合う上演時間と内容に収めなければならない。

まあ、それが演劇をつくるということだ。

そこにシェイクスピアがたすき掛けするように入ってくる。
シェイクスピアとは何だろう?

一貫して流れてきた音楽はバグパイプの音を特徴とするスコットランドの民謡風で、
1か所実際に、聞けば誰でもわかる「勇敢なるスコットランド」が流される。
舞台セットは、古代ヨーロッパの神殿を思わせる石楼が立ち並んでいる。
(石楼は発泡スチロールを素材に市民たちによる作られたそうだ)

これがシェイクスピアらしさだろうか?
シェイクスピアはイングランドに生まれ、ロミオとジュリエットはイタリア・ヴェローナを舞台とする。

今回のタイトルは「悲劇なんてまともじゃない From Romeo and Juliet」。
悲劇なんてまともじゃない、とはどういう意味だろう?

まともじゃないとは、どうかしてるとか、とんでもないとか、またクレイジーだとかいかれてるとかの意味。
つまり「悲劇」を否定し、人生を全肯定しようという心意気を示そうというのだろうか?

物語はひとりの男のモノローグから始まる。
介護士であるが、だからこれからその話が中心になって展開するわけではない。
ロミオとジュリエットの恋愛劇のパートはホストクラブのホストと客である女性の間で行われる。
なぜかいつも記者に囲まれている総理大臣は、他の登場人物たちと何の関係があるのだろう?
常に位置についてよーいドンの競争をする人たち、ウーバーイーツを代表とするフードデリバリーの人たちが行き交う。
突然やたら物語る人が現れ、自分の出自、友人、水産高校時代のエピソードが語られる。
タワーマンションに住むお嬢様は、足が不自由な車いす生活で、ひとり長ったらしい、まるでシェイクスピアの登場人物たちのような詩的なセリフを口にしながら思い悩んでいる。

ホストクラブでの本気になった恋愛沙汰の果て、結婚をとりしきる自分の恋には恵まれないウエディングプランナーは、最後、ロレンスですと、ロミオとジュリエットの間を取り持ちながら結果として、悲劇のきっかけをつくるロレンス神父と同じ名だと名乗る。

ロミオとジュリエットに登場人物の名は、あくまでも記号である。
ロミオと言う名のホストと恋仲になるのはジュリエットではなくロザライン。
ロザラインとはロミオがキャピレット家の舞踏会に忍び込み、ジュリエットに一目ぼれするまで恋焦がれてた女性の名。
ジュリエットとは、パンフによると、タワマンに住むお嬢さんの名らしい。

これは、ロミオとジュリエットとのみでなく、シェイクスピアという名自体を料理に味付けするスパイスのように振りかけた作品なのではないか。
僕たちにとって、シェイクスピアって何なんだろう?
名前や「ハムレット」や「マクベス」のタイトルなど、聞いたことはあるけど、よく知らないという人もいるだろう。
日本人なのになぜ英国の劇作家?という人もいるかもしれないが、
だからと言って、日本の古典劇をよく知るわけでもない。

この日僕は、この劇場の舞台は大きいなあと思いながら観ていた。
僕も演劇をやっている身からの実感かもしれない。
広い舞台なりに、その広さを広すぎないと感じさせるために制作者は工夫をする。
セットを組めば、それ以上に舞台は広く見えない。

特に奥行きがある。
奥行きがあることを隠さない。
これは紛れもなく、町である。
もしかしたら国かも知れない。
そこにそれぞれのスタンスで生活している人たちがいる。
それを市民劇の土俵で表してみよう。
そんな試みだったと思う。
コロナから3年。
コロナ禍が続く中計画され、しかもそれまでの鬱積を吹き飛ばしたいという欲求。
それは延期、無観客実施の東京オリンピックを経て、
サッカーワールドカップ、WBCの熱狂ぶりを見てもよくわかる。

山田さんがアフタートークで語っていた。
全員が集まることが出来たのが、本番の4日前。
言うまでもなく公募で参加する人たちは立場もさまざま。
多くの人は仕事や学校に通いながら参加する。
近くの人ばかりでなく市外から参加していた人もいるようだ。
その上、ひとりひとりから話を聞き、物語に投影しようという。
今やらなきゃ後悔すると語りながら、
一方エネルギーを吸い取られたとこぼす。
そして、シェイクスピア。

この構想自体、まともじゃない、のかもしれない。
「まともじゃないから面白い」
このスローガンを言うことが目的のように幕は閉じるが、
これはきっと本音だろう。


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