古民家 風杏でガチ×ゲキproject「まるくなる。」を観た

カテゴリー │演劇

22日(日)13時~
古民家 風杏は浜松市中区春日町にある。
築100年になる古民家で、ギャラリーやレンタルスペースとして、長く活用されていたようだが、
僕は存在を知らなかった。
今回の静岡文芸大の学生たちをメンバーとする
ガチ×ゲキprojectの第3回演劇公演は初めての演劇上演だそうだ。
知ったばかりだが、残念なことに来月7月をもって、閉められるということ。

第1回公演が別役実作品。
第2回公演が寺山修司作品。
そして、今回はオリジナル作品。
作・演出は杉本健至氏。
すみません。
住宅街の中の古民家。
駐車場はないものと、車を停めたところから、しばらく歩いて会場へ。
着いた時はすでに開演していた。

古民家の居間に炬燵が置かれ、
夏場に炬燵は違和感があるが、
居間に炬燵はまったく違和感はない。

そこが演劇公演の舞台である。
四方ある炬燵の居場所の三方にそれぞれ女がいる。
それぞれ異方向を向いて、対話している。
対話しているが、視線は合わない。
それぞれの視線の先はまっすぐだ。
意思を持ち、視線の合わない対話をしている。

少し遅れた僕はそんな場面から観た。

対話が止まる。
そこにリンクするのは登場する二人の男。
そこそこフォーマルな格好をした二人の男は一見男だが、
おそらく男の役ではない。
止まり、物体と化した女三人に動作を与える。

そして、女たちは別の動作で別の対話に興じる。
語られるのはごく日常会話だが、
彼女たちはコントロールされているのだろうか。
自ら言葉を発しているのだろうか。

男に見えるがたぶん男ではない二人の登場と、
女たちの対話が果てしなく繰り返されていく。
間をとりもっているかのようにお茶を出す女たびたび出てくる。
彼女は、中盤、頃合いを測ったように、
客たちに本当にお茶を配る。
それは客とのつながりを意味しているだろう。

「ゴドーを待ちながら」という不条理劇と言われる戯曲がある。
ウラジミールとエストラゴンという二人の浮浪者が、
ゴドーと言う人を待っているのだが、来ない、という内容である。
この作品以前と以後では戯曲が変わったと言われる。
世界とはいかんともしがたいものであるという真実をつきつけた。
それまでは、人間の力で何とかしようとすれば何とかなった、
もしくは何とかしようとしたが、できなかった、という世界を描いていた。
それが、人間の力ではどうにもならない、という世界を描いた。

待っているゴドーはGOD、つまり神だと言われたりする。
真偽は作者であるサミュエル・ベケットに聞いてもわからないだろうが、
ここで示されるのは人間の無力さだ。
ただ、無力ながらも、じたばたと生きる。
生きるしかない。
思いは通じない。
相手の気持ちはコントロールできない。
わかりあえない。
世の中は変わらない。

じゃあ、何が変わるのか。
登場人物は変わろうと行動する。
それだけだ。

「まるくなる。」も不条理劇のカテゴリーと思われる。
当日渡されたプログラムを見ると、
男に見える二人は神1、神2と名付けられている。
炬燵で対話を試みる女三人はそれぞれイド、ニト、ジャノメと名付けられている。
間を行き来しているかのように見える女はお茶くみと名付けられている。

設定が与えられ、それぞれ行動する。
繰り返しの行動の間に、
甲本ヒロトのボーカル曲が響き、
客からよく見える場所で、
音響操作をする作・演出者が
古民家の日よけ(シェード?言葉がわかりません)を開け閉めする。

古民家 風杏でガチ×ゲキproject「まるくなる。」を観た


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この記事へのコメント
『まるくなる。』について書いてくださって、ありがとうございました。

~それぞれ異方向を向いて、対話している。~

確かにそういう場面も多かったですけれども、視線を合わせた時も何度もあったと思います。
テトラさんが来場される前のおはじき遊びでは、イドとニトは視線を合わせておりましたし(イドは私からは後ろ向きでしたから、本当に視線を合わせていたのかどうかはわかりませんが、ニトはイドの顔を見ていました)、炬燵の中で息を止めるゲームの時、先にギブアップをしたイドがチンと鉦を鳴らしながら観音経を唱えていたら、ニトとジャノメが揃って炬燵から体を起こしましたが、その時も二人ともイドの方を向いていたと思います。
ビー玉をストローで相手の陣地に落とす遊びの時も、やはり視線を合わせていたと思います。

でも仰るとおりに、視線の合わない対話をしている場面もありました。
これはどういう意味だったのでしょうかねぇ?
お茶の入った湯呑みを神によって三人が持たされた後、湯呑みは再び神によってテーブルに置かれ、そして神は去って行きましたが、三人は片手で湯飲みを持ったまま日常会話に戻りました。

こういう場面を観ると、彼女たちはコントロールされているところがあるのだと思わざるを得ませんよね。

ベケットの『ゴドーを待ちながら』を『まるくなる。』に持ち出したのは、慧眼だと思います♪
『まるくなる。』はね、「思いは通じない。相手の気持ちはコントロールできない。わかりあえない。世の中は変わらない。」という芝居ではなかったのではないだろうか?と思います。

大いなる者にコントロールされながら、思いを通じ合い(言い合いの裏には何かしら通じている思いがあるのだと思います)、相手の気持ちを慮る所もあったと思います。
「わかりあえない」、ということを厳しく捉えれば確かに人と人はなかなかわかりあえないだろうと思いますけれども、日常生活を送りながら楽しくコミュニケーションをする程度のことで言えば、わかりあえるものだろうと思います。
「世の中は変わらない」、政治的な状況は変わりますが、この世に対する人の意識は簡単には変わらないだろうと思います。

でもね、『まるくなる。』は、そういう方角を向いた芝居ではなかったように私には感じられました。
神によりコントロールされた世界の中で、彼女たちは活き活きと生きていたような印象を持っています。
ジャノメは演技をしていたのでしょう。神に遣わされたエージェントのような役割だったのだと思います。
Posted by 猪ボヘミアン猪ボヘミアン at 2014年06月27日 20:34
視線を合わせなかったのは、僕が席に着いた時の場面のことです。
その後は、様々な対話パターンが繰り広げられました。

「変わろうと行動する」ことは
とても人としてはアグレッシブなことで、
例えば、毎日グダグダと何もやろうとしていないように見えたとしても、
相当頑張って行動していると思います。

プログラムの表紙に宙を飛び、布団の中をさらしている炬燵が描かれています。
これが象徴のように思います。
見ようによっては女性器のようにも見えます。

僕もコントロールされていると思わしき中、
女性たちは、とても活き活きと生きていたように見えました。
コントロールというより、
大きな存在が、世界を作っているようにも思いました。
Posted by テトラテトラ at 2014年06月27日 21:59
~視線を合わせなかったのは、僕が席に着いた時の場面のことです。
その後は、様々な対話パターンが繰り広げられました。~

了解です、そうでしたよね。
プログラムの表紙に女性器を感じられたあなたの感性に敬意を表します。言われてみれば、確かにそのようにも見えますね♪カーテン左さんには怒られそうですが、ワハハハハ♪

~僕もコントロールされていると思わしき中、
女性たちは、とても活き活きと生きていたように見えました。
コントロールというより、
大きな存在が、世界を作っているようにも思いました。~

同感です。本当のことはわからないと言えばわかりませんが、私も大いなる意識がこの世界を司っているのかもしれない、という感慨を抱いています。
Posted by 猪ボヘミアン猪ボヘミアン at 2014年06月28日 19:11
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