穂の国とよはし芸術劇場PLATアートスペースで劇団MONO「はなにら」を観た

カテゴリー │演劇

3月17日(日)14時30分~

京都で発足した劇団MONOは結成30年を迎える。
作・演出の土田英生さん等
在歴の長い5名の他の4名は昨年2018年に入団した。

ずいぶん前に在籍した女優2名が退団した後は
15年ほど男性5名で公演を続けてきた。
入れ替わりが多い劇団もあるが、
劇団MONOは、入れ替わりが少ない。
男性ばかりで15年も5名で活動している様子は
ある種、古株のバンドっぽい。
余程相性の良いメンバーが集まったのだろう。

お互いの信頼感は観客に安心を与える。
固定メンバーが長かった時代を経て、
久方ぶりに加わった4名の新メンバーも
周到に準備がなされていたかのように
安心して加わっている。

一方その万全さは、
破綻を予感させない。
どっしりと手をかけて作成された舞台美術と同様に。

舞台は20年前に災害があり、
多くの死者を出した島。
2つの家には
それぞれ血縁関係のない者たち同士が住んでいる。

災害により家族を失った者たちが
縁あって、
自治体からあてがわれている住まいに
同居している。
毎年、追悼式典が開かれ、
死者を悼む。
そして20年がたった。

多くの犠牲者を出したといえば、
東北大震災である。
8年の月日が経った。
8年でいったい何が回復したと言えるのであろうか。

20年という設定は
同居するうちの
災害時両親を失いひとりぼっちになった
女の子が、妙齢の年齢になったことを示す。

結婚してもいい年。
つまり、この家を旅立ってもいい年。
作者はそこにこの舞台の時間を用意した。

血のつながらない同居人たちは
関係性としてはひとつの家族である。
チラシでは“疑似家族”という言葉が使われている。
映画「万引き家族」が経済や血縁のひずみという
継続する暴力(的なもの)による被害者たちの疑似家族だとしたら、
「はなにら」の疑似家族は
自然災害と言う一時の暴力により作り出された。

その違いは作品に現れていたと思う。
被害者であるとすれば、
加害者の存在があるのだが、
「万引き家族」の加害者は事情により
それぞれ異なる。

引き換え、災害の場合は
加害者はたったひとつである。
災害があったからこうなった。
立ち向かう対象が簡略化される。
だから、“絆”という言葉も生まれる。
“がんばろう東北”や“がんばろう神戸”という言葉も生まれる。

20年の間、血のつながらない同士が
同居している者たちは
そこが終の棲家だと考えているわけではない。
あくまで仮である。
何が解決しているという訳ではない。
でもまあ、このまま続くならそれでもいいとも思っている。

それを脱するにはきっかけが必要である。
大きな事件ではない。
成長して大きくなった女の子が
誰かを好きになって、家を出て行くという
どこの家庭にでもある話だ。
決して特別なものではない。

それは作者の視点である。
同居人のひとりひとりが
どんなに悲劇を背負っていようとも。
それは舞台に充満させない。
20年と言う時間も
リアリティを薄めるのに効果的だったかもしれない。

しかしながら、過去は存在する。
想像すればだれでも感じ取ることができる。
耳をすませば聴きとることができる。

そんな中、
まるで一般的な家庭が
ひとりの娘を嫁に出す
ありふれたホームドラマのように
舞台は進行する。

あてがわれていた住居は
震災の仮設住宅に期限があるように
“アーティスト”を地域復興のために入島させる事業のために
明け渡すというのは、笑うべきことではないかもしれないが
少し笑えた。
“アーティスト”って・・・。

舞台の成果とは関係ないが、
舞台上の人間関係の構造が、
劇団員たちの関係性と似ている気がした。
それも30周年と言う節目たる所以かもしれない。
一度確認して、次に続くというのは
仕組みとして必要なことだ。

20年前の災害依頼、
追悼式の後、
自宅庭で食事とともに
命を失ったそれぞれの家族他のために
黙とうが行われる。
そのシーンはジーンとしたが、
今思ったが、疑似家族を解散する
来年以降は行われるのだろうか。

穂の国とよはし芸術劇場PLATアートスペースで劇団MONO「はなにら」を観た



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