穂の国とよはし芸術劇場PLATで市民と創造する演劇「甘い丘」を観た

カテゴリー │演劇

3月6日(土)17時30分~

昨年の市民と創造する演劇「グッバイ・フランケンシュタイン―穂の国の怪物たち―」はコロナの関係で、規模縮小のため、上演の1週間前にチケットが売り止めとなった。

僕が、年に一度上演される市民と創造する演劇を観るのは一昨年の「リア王―どん底から笑ってリターン―」以来。
それまでは収容人数が多い主ホールで、多くの市民が参加して、多くのお客さんが観る、というイメージだったが、今回、PLATの芸術文化アドバイザー・桑原裕子さんが主宰する劇団KAKUTAの作・演出作品を収容人数が少ないアートスペースで行うという案内を見た時、「けっこう大変じゃないかなあ」と思った。

今まで僕が観た例のように、公募に集まった市民たちに、演出家が信頼する数人の俳優を組み合わせるという形だとすると、市民たちも同等の出番があり、セリフや絡みも多いことだろう。
また、大きなホールで出演者が多いと、祝祭的な演出で、経験のある人も経験が少ない人も、同じ舞台に違和感なく立てることもあるが、小さなホールの場合、俳優一人一人の一挙手一投足が目の前の観客の目にあからさまになるのではないか?

ホームページによると主ホールは収容数800席弱、アートスペースが最大266席。
市民劇の集客はある意味、出演者の人数に比例するとも言える。
そこにはフレームを合わせていない。
ただし、昨年より1年経ったこの時期も、コロナ禍で観客の人数制限がかかることは計算しなかっただろう。

土曜日の夕方、豊橋市街に向かう道路は混んでいた。
タブレットのグーグルマップのナビに映し出される経路には混雑を示す“赤”が点在。
開演ギリギリの時間に席に着いた。

思わず見上げた。
ずいぶんセットを立て込んだなあ。
昨年観た劇団KAKUTAの「ひとよ」の2段構造になっていたタクシー会社のセットを思い起こす。
縦に2段構造になっていて、下段にサンダル工場の応接ロビーと休憩室。
下手を抜けると、住み込みの従業員の部屋がある。
上手の階段で上に昇ることができ、進んだところに事務所、下手を抜けるとおそらく工場がある。
そして、上段には隠し絵のようにもうひとつの場所(心のイメージとか建物の外)が時折現れる。

時間がないこともあり、手元にあるパンフレットは見ていない。
キャスト表も掲載されていることだろう。
出てくる俳優の誰が市民で、誰が招へいされた俳優なのか、物語の推移を追うとともに、
いらぬセンサーも起動する。

開演してほどなく、市民劇の枠を越えた本気度を知る。
市民劇の枠とは何だろうか?
これは僕が一方的に心の中で縛っている鎖のようなものだろう。
観ながら、自分は鎖が外されていくのを楽しみに観に来ているのかもしれないと思った。

チラシのキャッチコピー。
『風に乗って 丘を滑り降りてくる 女たちの笑い声と匂い それはどこか汚く甘く 誘う薫りである』。
キャストは女性8人、男性9人。
変わっていくのは女性である。
それぞれの人生のひとつの過渡期の感情をMAXに発散することで、次々と楽になっていくように見える。
キーとなる役の男性には経験者を配し、女性役の感情の発散を支える。

終盤、唯一最大の悲しい出来事が起こるが、
それを予感させるように、間を巧妙に使った場面がふたつあった。
その間は、観客に自らも含めたまわりのことも考えさせるに十分な間だと思った。
十分な間を使った時間を経て、あらかじめ用意されていた終幕を迎える。

アフタートークで、俳優の数を絞ってこの戯曲を上演するのは主催である劇場の考えであったことを知った。
2007年、2009年に上演された「甘い丘」を台本に使うことも劇場側の要望だったようだ。
舞台の上では、必要な濃い人間通しの絡み合いが繰り広げられていた。
そして、コロナ禍、特に制作者や市民スタッフに大いに支えられたと思う。
これも劇場主体である強みだなと思った。

聾啞者で、靴作りを続ける虎杖一海(いたどりかずみ)は、言葉が少ない中、話の流れを通奏低音のように後方から支えていたが、演じる森川理文さんは、市民俳優のおひとりであったが、気になって調べてみた。
なかなか経験がある役者のようである。

穂の国とよはし芸術劇場PLATで市民と創造する演劇「甘い丘」を観た



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