シネマe~raで「少年の君」を観た

カテゴリー │映画

10月9日(土)11時40分~

中国・香港の合作映画。
冒頭に「いじめはやめよう」のメッセージが入る。
そして、最後にも、中国はこのようにいじめ撲滅のための法体制を整えている、という具体的な事実があげられる。

こうみると、教育的な啓発映画に思うが、上映にあたっての配慮があるかもしれない。
映画自体は、もちろん、いじめはいけない、というメッセージを得ることもできるかもしれないが、
それ以前に若い男女が出会い、苦労して、その結果幸せになるという青春映画となっている。
しかも刑事が登場するクライムサスペンス(犯罪事件を扱ったスリリングな展開のもの)であり、
中国の受験戦争の厳しさ、また将来が、この受験の成否により決定するという状況が提示され、
現代が格差社会であるということもひとつのテーマになっている。

中国では大学ごとの試験は行われないので、高考(ガオカオ)と呼ばれる
全体試験の一発勝負で将来が決定する。
主人公の高校三年生のチェン・ニンが通う学校の授業の様子もすさまじい。
それぞれ机にどっさり参考書をまるで砦のように置いて、授業へ臨む。
いじめの構造も過剰な競争意識からくるものだろう。

いじめを受けていたチェンの同級生が、学校で飛び降り自殺をする。
何が起こったか観客には知らされないまま、
各教室の生徒たちは次々と教室を出ていく。
チェンも遅れて出ていく。
しかし、彼女はその理由を知っている。
飛び降りた生徒の姿を映すことなしに、
学校の各階から生徒たちが立ち並び、
飛び降りたであろう一か所を見ている。
悲しみの表情の者はいない。
無表情だったり、笑みを浮かべる者さえいる。
観客は誰かが飛び降りたことは容易に推察する。
チェンは死んだ同級生の身体を隠すように上着を被せる。
そして、その行為がきっかけで次にチェンがいじめの対象となる。

この映画のいいところは、表現がはっきりしていてわかりやすい。
各シーンの意図が良くわかる。
登場人物が出てくれば、
そのセリフ、風体、演技、場所などから、
どのような状況なのか明確だ。

だから観客の心を逃がすことなしに、
話の推進力にどんどん持っていかれる。
これは一体なぜだろう?

荒唐無稽な設定ではなく現実的な設定であることも理由かもしれない。
ただ、1カット1カットがよく考えて撮影されていて、
退屈する隙間がないというか。
退屈する時間がない映画は意外と珍しい。

やけに長い闘いやカーチェイスは意外と退屈する。
え~?この俳優にこの役?と考えている時間も退屈してる。
俳優の感情表現のために使われている時間も退屈だ。
状況説明や回想シーンも意外と退屈だ。
理解に頭を使わなければいけない内容はともすると退屈だ。
微妙なCGも退屈だ。
歌うシーンも気に入らない歌だと退屈だ。

決して珍しいカットではない。
むしろ常套ともいえる。
ただし、丁寧で、なおかつ趣向を凝らし、
場面に的確なカットが続いていく。

考えてみれば映画とはそういうものだ。
1カットの積み重ねでできている。
きれいなカットというのはあるかもしれない。
でもそれだけでは足りない。
脚本に沿った連動性の中でふさわしいきれいなカットでなければ意味がない。

「少年の君」というタイトルはいいのか悪いのか。
チェンは、ひとりの不良少年(シャオベイ)と出会う。
チラシには
チェンが語る言葉で「君が、私の明日を守ってくれた」
シャオベイが語る言葉で「君が、俺の明日を変えてくれた」とある。
少年の君、とはふたりのことをさしているのだろうか。

日本の少年法では、「少年」を20歳に満たない男女のことを指す。
映画は現在から振り返った過去を回想する形で語られている。
ふたりは罪を犯す結果となり、収監されることになるが、
未成年だと思っていたシャオベイが実は20歳を越えていて、
それが結末までの流れに影響する。
また、BetterDaysというサブタイトルもついている。
(これは英題らしい。英語圏での上映タイトルか?)

「少年だった私たちの素晴らしき日々」
僕なりにタイトルをつけてみたが、
きっとこれは採用されないだろう。

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