シネマe~raで「スウィート・シング」を観た

カテゴリー │映画

1月16日(日)15時10分~

チラシにはアメリカインディーズのカリスマ、
アレクサンダー・ロックウェル監督の25年ぶりの日本公開作品とあった。
僕自身は初めて作品を観る。

「スウィート・シング」というタイトルは、
北アイルランド生まれのシンガーソングライター、ヴァン・モリソンの曲名から来ている。
エンディングテーマでもあり、映画の中でも使われる。
監督が好きな曲なのは間違いない。

主人公である15歳の姉と11歳の弟は、監督の実の子供が演じている。
そして、母親役にも監督の実際のパートナー(チラシでの表現)が起用されている。

姉はビリーという名で、父親が偉大なジャズボーカリスト、ビリー・ホリデイが好きで、そこから名付けた。
映画の中で、ビリーを励ます存在として、ビリー・ホリデーは幻影として現れ、歌が流れる。
(ただし、弟は実名と同じニコという役名。姉の本名はラナ)

実の父親である監督はどうか知らないが、
映画の中の父は、始終飲んだくれていて、着ぐるみを着て街に立つサンドイッチマンの仕事もまともに出来ない。
子供二人は学校にも行かず、空き缶集めなどで、わずかな金を稼ぐ。
母は家族の元を去り、別の男と暮らしている。

酒により立ち行かなくなった父は、強制入院となり、
二人は、母の元に行く。
つまり母が一緒に暮らす男の家。
男はマッチョで気がよく明るく豪快であるが、粗野で乱暴で非常識な所がある。
男の非常識さが度を越し、弟は男はナイフで刺してしまう。
「死んだ?」
姉と弟はこの家から逃げる。
ここから二人の逃避行が始まる。

きっとこんな展開は、世界中の物語の中にたくさんあるだろう。
僕は、逃げるのは二人の主婦だが、「テルマ&ルイーズ」を思い出した。
15歳と11歳の姉弟に「明日はない」。

途中で出会った少年マリクと共に
金もない子供の旅は、法を犯すか、人の優しさに頼るしかない。

知らない誰かの車の配線を引きずり出してつないでエンジンをかけ盗んで走り去る。
何かの理由でしばらく滞在していない人の家に勝手に上がり込んで、服を引っ張り出して着たり、食べ物を食べたりやりたい放題する。

それらをモノクロの16ミリフィルムの粗さが、どこか懐かしい美しき思い出のように映し出す。
子供たちは子供だけの世界で、自分たちが思うようにふるまう。
もちろん、それまでの思うようにいかない大人との社会生活に対しての反動だ。

社会には、時には優しく受け入れてくれる人もいる。
住むところがなければ家に向かい入れてくれ、
腹が減っていれば、おいしい料理を食べさせてくれる。
傷つけない優しい言葉をかけてくれ、
聞かれたくないだろうことにはあえて触れない気遣いもある。

しかし、ここで束の間の逃避行はジ・エンドとなる。
これも語る時間が限られた物語の宿命。
決していくつかの小さくはない代償を払い、苦い自立の種を得る。
運よく、父のアルコール中毒は回復をする。

監督がたぶん大好きであろうヴァン・モリソンの「スウィート・シング」を
監督が大好きな実の娘でもあるビリーが父からクリスマスプレゼントにもらったウクレレで弾き語る。
物語は語るべきことを言いつくしたかのように
とっておきのヴァン・モリソン自身の「スウィート・シング」が流れ幕を閉じる。

現在76歳のヴァン・モリソンが23歳の時に発売されたアルバム「アストラル・ウィークス」に収録されている。

シネマe~raで「スウィート・シング」を観た



同じカテゴリー(映画)の記事

 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
シネマe~raで「スウィート・シング」を観た
    コメント(0)