穂の国とよはし芸術劇場PLATで「凍える」を観た

カテゴリー │演劇

11月12日(土)13時~

ぎふ信長まつりに木村拓哉さんらが登場することで96万人超の応募があったそうだ。
一目見たい人がこれだけいるとは、人気者の有名人とはすごいものだなあと、あらためて思う。

ジャニーズのアイドルは歌だけでなく、バラエティもやれば、俳優もやる。
昨年解散したV6の坂本昌行さんが出演する「凍える」を観た。
Wikipediaによると、坂本さんは1992年の「阿国」以来ミュージカルを中心にコンスタントに舞台に出演し続けている。
3人という限られた出演者による、歌う場面や踊る場面の余地がない
完全なストレイトプレイ、しかも幼児連続殺人犯という役割は挑戦だったのかもしれない。
また制作する側もアイドル出身の舞台俳優をあえて抜擢する意図があったことだろう。

V6のファン時代からの流れのお客さんがどれだけいたのかわからないが、
客層の男女比は8対2だろうか、もしかすると9対1かもしれない。
演劇により異なるが、特に著名な俳優が出演するような作品の場合、
女性の率がグンと上がる印象。
男同士で「誰誰が出るから演劇観に行こうよ」とは、あまりなりにくいかもしれない。
「総合格闘技行こうぜ」や「ツーリング行こうぜ」はありそうだが。
僕はこの恩恵を休憩中列をなす女子トイレを横目に、すいすい男子トイレに向かう時感じる。
誇るべくもない恩恵だが。(男子トイレも使っていいルールにしても僕は構わないと思うが、女子は望まないかもしれない)

ニューヨークのアパートに住んでいる鈴木杏さん演じる精神科医アニータはロンドンに呼び寄せられる。
信頼する協働パートナーであった先輩が事故で亡くなったばかり。
追ってそれに関する深い葛藤も語られる。
10歳の少女ローナが行方不明となった20年後、連続幼児殺人犯として
坂本昌行さん演じるラルフが逮捕される。
娘がいなくなった後、ひっそりと暮らすローナの母、長野里美さん演じるナンシー。
ひとりの女の子の死を巡る立場の違う3人。

それぞれの心の内や状況説明を吐露する長いモノローグを中心に劇は展開する。
ブライオニー・レーヴァリーさんによる戯曲は1998年にイギリスで初演され、2004年にニューヨークで上演、
今回栗山民也さんの演出で平川大作さんの翻訳で日本上演。

僕は本来西洋の言語である英語で書かれた戯曲が、
僕が語り理解する唯一の言語である日本語で俳優が語ったセリフを聞きながら、
これは、西洋の芝居だよなあ、と話の内容とは別に考えていた。

舞台から遠い席のため、見えない俳優の表情を認知するために
双眼鏡をのぞいたりしながら、せわしなく観劇していたせいかもしれない。
距離のせいだろうか?
僕の理解力のせいだろうか?
翻訳の行為は、翻訳者、演出家、俳優等により稽古中から本番まで行われるが、
観客もそれを継いで行う。
それはひとつの壁であると思う。
壁があることを理解することも必要なことであると思うので、
僕はこうして劇場に足を運ぶのだと思う。

舞台は交差する十字路が横たわる。
奥に従い高くなっている。
それは出演者たちを区分けし、または出会わせる。
白い十字路は明らかに十字架に思えた。
巨大な十字架。

舞台には1本の水道がある。
蛇口をひねると水が出る。
ラルフは昔から素行も荒く、身体には刺青を入れている。
ただし、清潔好きで潔癖症。
命の綱ともなる水道から流れる水が格別の意味を持つ。

子どもを理不尽に殺された母親ローラは直接の被害者でもないにも関わらず、
特別の思いを抱く。
ポジティブな要素はない。
完全なるネガティブな思い。
怒り、憎しみ、嘆き、恨み、そして諦め。
それは受けた行為と同じ仕返しをしても一生晴らされることはない。
日常を表す生活の場を彩る花の色が変わる。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。
この演劇で幾度か語られる言葉。
「悪意による犯罪を罪とするなら、疾病による犯罪は症状である」

ラルフの犯罪は生まれつきの脳の腫瘍という診断が下される。
担当精神科医アニータの下した診断は、母親ローラの心を溶かすことはない。
凍り付いたままのナンシーの心は凍てついたまま時だけが立つ。
失われた命が戻ることはない動かしようのない凍り付いた現実。

「罪を憎んで人を憎まず」は現実感の全くないファンタジーなのか?
人を憎まずなんてことが出来うるのだろうか?

犯罪を犯してから20年経ち、法治国家の原理で捕まっても
ラルフには自らの罪を理解していない。
理解していない殺人者には犯罪を糾弾するものに取っても無力だ。
疾病ゆえ罪を問えないと判断されても被害者の何の救済にもならない。
ただ解決の見込みのない空しさが残るだけ。

意を決したナンシーはラルフとの対談を望む。
娘の弔い合戦。
アニータは職業上、それを認めることは出来ない。
疾病者ラルフは特別な人なのだ。
同じく当事者でないのに娘の弔い合戦の思いを抱く
ある意味特別な人であるナンシーと直接対決させるわけにはいかない。

しかし、実現する遭遇。
ただし、そこでナンシーはラルフを許す。
ローナのことを母であるナンシーが愛していたように
ラルフもローナを愛していた。
たとえそれが屈折していたとしても。
ナンシーはラルフの両親のことを問う。
心のやらかい場所。
スガシカオ「夜空ノムコウ」の
「ぼくの心のやらかい場所♪」

ラルフは小さなころ父から受けた性的虐待をフラッシュバックさせて苦しむ。
自分の苦しみを思い起こすとともに自ら犯した罪のない少女への行為の意味を知る。
途端に母親ナンシーへ謝罪の手紙を書きあげる。
気の毒なぐらいつたない哀れな手紙。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・」

ラルフはその手紙を破り捨てる。
謝罪により救済に至ろうとする糸口を自ら否定する。
それは自らに刃を向けること。
そう簡単に心が変わるはずはない。
変わろうとするのを自ら封じ込める。

それがラルフが下した結論。
法の下に下されるのではなく、
自ら決着をつける。
それは決して称賛に値するものでもない。
結論のない運命であったともいえる。
ただ、一人の男が自ら命を絶った。
その結果だけが残る。
直前に水道管から流れる水だけが束の間、彼を癒す。

ナンシーとアニータは関係上ラルフの死を悼み、弔う。
そこでラルフの人生や大人になることを知ることなく
20年前に命を閉じたローナの人生を肯定することになったかどうかは僕はよく分からない。

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