なゆたホールでMUNA-POCKET COFFEEHOUSE「幸福な王子、お化け屋敷へ行く。」を観た

カテゴリー │演劇

12月10日(日)11時~ キャストA


この作品は、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」を元にしている。

銅像として立っている王子が、困っている人を助けるため、
ツバメが、王子の代わりに、
サファイヤの目や、身体を覆う金箔を届け、
最後はぼろぼろになり、
市民たちにより、取り外され燃やされてしまう。

「幸福な王子、お化け屋敷へ行く。」の舞台は、
ダム建設によりダムの底に沈みゆく町、「コノクニ」。
コノクニは、今私が住んでいる国と読み換えることが出来る。
つまり、“沈みゆく日本”。
ただし、これはあくまでもひとつのメタファー。
“沈みゆくもの”は何なのか?

ここでの王子は銅像ではない。
姿はどこかサン・テグジュペリの「星の王子さま」を思い起こす。

王子は導かれ、日本の伝統的なお化けに出くわす。
百目、傘小僧、河童、ろくろ首、番長皿屋敷のお菊の亡霊。
タイトルではそれを、お化け屋敷へ行く、としている。
少年が夏のある日、遊園地のお化け屋敷に遊びに行くように。

お化けがなぜ怖いかと言うと、
それが、私たち人間のなれの果てであり、
一方的に恐ろしがっている「自分」も、
もしかしたらそういう姿かたちになるかもしれないからだ。

つまり、「自分」に対し怖がっているということで、
他人事だったものが、
突然自らにふりかかることが有り得ることは、
誰でも頭ではわかっている。

この演劇の特徴は、前半と後半でがらりと世界が変わることにある。
前半部分で、お化けたちが順番に王子の前に現れるのだが、
それぞれのパートが、練習期間に行うエチュードのような方法で作られている。

つまり、いくつか約束ごとを決めて、そこは逸脱しないようにしながら、
あとは俳優の創意工夫でいかようにも見せることが出来るのだ。
今回キャストAのみの観劇だったが、
キャストBはまったく違う印象であっただろう。

それは、ともすると話が停滞してしまう恐れもある。
しかし、王子が身体を順番に奪われていくという着地点があり、
肝心かなめの後半に向け、バトンを渡していく。
動きが重視されていたり、対話が中心だったり、ひとり芝居だったりとそれぞれ工夫があり、
また、お化けに扮する衣装や映像も駆使し、飽きさせない。

前半と後半をつなぐのが、「文字」であるのも大きな特徴。
言葉遊びというと、しゃれているが、
ここではいわゆる駄洒落。
上司や父親が言えば、親父ギャグと呼ばれたりもする、
実は使用が難しいツールでもある。

あえて(くだらない)駄洒落で言葉をつなげ、それを(まじめな)メッセージに昇華させて行く。
そういうたくらみ。

王子はかわいそうなお化けのために自分の身体を続々と与え、
しまいには、原作の「幸福の王子」のように心も授けてしまう。
すべてを捧げるのだ。
自分以外の誰かのために。
しかし、それは贖罪‥‥‥。

劇中、通奏低音のように、静かに音が流れている。
後半、ギアが変わるようにピアノの和音が外れ始める。

お伽話の中の王子が、現実に生きる私たちに転化していく瞬間。
王子がお化けたちと同様、ひとりの人間、ある男のなれの果てであることを知る。

王子を支えるツバメの行動で、伝えるための手段が、
メディアの記者から個人で発信するSNSに移行していくのは現在的だった。
「つばめチャンネル!」

「幸福な王子」のラストは「救済」である。
それも今回共通する。

なゆたホールでMUNA-POCKET COFFEEHOUSE「幸福な王子、お化け屋敷へ行く。」を観た

縦に2つ折りのチラシの表紙。
観劇後に開いてみると、味わい深い。



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