戯曲について

カテゴリー │演劇

昨年、名古屋で鈴江俊郎という岸田戯曲賞もかつてとった劇作家の1日(しかも3時間)だけという戯曲講座を受けたが、その時、鈴江氏は書いた戯曲は長いのも短いのも含めて、すべて上演されているという話をしていた。
本数もおおよそ言っていた気もするが、数は忘れた。
戯曲はやはり、上演されて成り立つものだと思う。
三谷幸喜などは自作をあくまで上演のための"台本"と称し、戯曲を出版することを基本的に許さない。
(唯一、岸田戯曲賞を受賞した「オケピ!」は受賞作は主催である白水社から単行本化されるという決まりがあるため、出版された)
演出や役者やその他スタッフとの共同作業を経て、戯曲は晴れて本当の作品となる。
そんな日の目を見ないで、書き終えて眠ってしまう戯曲って何?
せっかく書き終えた戯曲を上演までこぎつけるには何らかの行動が必要だ。
上演する人、そして、上演する場所がないと上演には至らない。
お父さんが子供を使って芝居を作り、茶の間で妻に見せるなんてのもいい。
自分で書き、自分が出て、浜松駅の前でひとりで演じるなんてのもいい。
生きていれば、日々物語の連続であるし、わざわざ物語なんか作る必要がないと思う人もいるかもしれないが、やはり僕は"わざわざ"新しく物語をこしらえて、そう強くたのまれてもいないのに、人の前で見せるという行為はとても必要なことだと思う。
それは別に演劇だけというわけでなく、音楽や絵や踊りやその他、わざわざこしらえるものには共通するものであるが。
ものをつくろう。
そして人に見せよう。


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