掌編小説『猫、トムの行方』を書いた

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月に1本、3600字以内の掌編小説を書く講座に通っている。
事前に提出した文章を添削され戻される。
提出原稿をその場で読む。
書き直し再提出する場合もある。
以下、添削を参考に書き直した第二稿。
段落や行替え、間隔はブログ用に変更した。

紀ノ川真也は妻と離婚したばかり。
仕事も辞め、時間がある。
桜が咲き始めた春のある日、
以前住んでいたマンションにやってくる。





猫、トムの行方                      

                    寺田景一



エレベーターはマンションの十階に向け、静かに上がっていった。

乗っているのは、手ぶらで普段着姿の紀ノ川真也(きのかわしんや)ひとりだった。
到着し、扉が開くと、そこにはおばちゃんたちがあふれていた。
いや、真也の目にそう見えただけかもしれない。
顔も体もふくれたおばちゃんたちが押し寄せる寸前、細身の真也は、エレベーターを抜け出した。
 
後方からは、扉の閉まると共に喋り声が消え、ガタガタと軋みながら降りる音が聞こえる。

真也にとって、ここは何度も来た場所だった。
エレベーターを降り、左へ曲がった一番先の角部屋。
何度も見たドア。
レバーハンドルを下にガチャリとやれば開くことは知っている。
でも、開かないことは覚悟していた。

ガチャリ。

開いた。

ひとりの若い男の姿が見えた。
その男は真也の方に振り向いた。
向こう側にあるのは女の顔。
桃瀬友香(ももせともか)。
旧姓は紀ノ川。
真也は友香と離婚したばかりだった。

友香は真也の顔を確認すると、何も言わず厳しい目付きに変わった。
傍らには見知らぬ若い男がいた。
何か言わなければと思ったが、すぐには思いつかなかった。

男は友香に話しかけたが真也には聞き取れなかった。
直後に、男は無視して真也の脇を通り抜けていった。

「来るなら、先に言ってよ」

友香は極めてつっけんどんに言い放った。

真也にも非があるので何も言い返さなかったが、真也の目前には、食後の食器や食べ残しがあふれていた。
あらゆる種類の酒の瓶も、ダイニングテーブルの上には転がっていた。
ニャーと猫の声が聞こえた。

「トム……」

真也はここに来て、初めて口を開いた。

トムと呼ばれた猫は、汚れた食器や食べ残しや酒の瓶の山の向こうから、ぬるりと現れた。
トムは若くはない。
真也と友香が夫婦として、このマンションで生活し始めた時からここにいる。

現在、真也が四十二歳。
三つ年下の友香が三十九歳。
証券会社の社員だった真也が二十五歳の時、新卒の友香が入社して、四年後に結婚。
その後友香は退職し、真也は新築のマンションを購入して、猫を飼い始めた。

「何しに来たの?」

真也がトムを呼び寄せる前に友香はやりきれない声でつぶやいた。
真也は呼び寄せようとした手を止めたが、十三歳になったトムは早くは動けない体で、のそのそと近付いてきた。

真也は体を寄せてくるトムを仕方なさそうに撫でた。

「桜が咲いたけどさ、まだ外は寒いだろ?」
「それがどうしたのよ。いつもそうじゃない」
「コートあっただろ? ベージュの」
「いらないもの、全部置いていったでしょ? 捨てていいって」
「捨てたのか?」
「まだあるわよ。物捨てるのも大変なのよ」
「洋服ダンスか?」

と言いながら、真也はトムを片手に抱え、洋服ダンスの方向に歩き出す。

「ちょっと、勝手に開けないでよ」

真也は構わず扉を開けようとするが、友香が体を寄せてそれを制す。

「何だよ! さっきの男の服が入っているのか?」
「そんなわけないじゃない。あの方は、職場の人よ。店長なの」

友香はダイニングテーブルの上の残骸を示しながら言う。

「スーパーの他の人たちもここにいたわ。今日水曜日で休みなのよ。そんな日に来ないでよ」

真也は十階の窓から外を眺める。
桜が咲いていないかと無意識に探しながら言う。

「入ったばかりで、自宅に招待しなくちゃならない会社なのか? そんなとこ……」
と言葉を続けようとして、止める。

トムが閉まったままの窓をカリカリと爪をあて始めたからというのもある。

「外、見たいのか? 桜咲いているかなあ」

真也はトムにかこつけて、堂々とピンクの桜の姿をさがす。

「外、出たいのよ。このところ毎日そう。きっとあなたの所へ行きたいのよ」

真也はこれには答えない。
目にはあちらこちらに咲く桜の花。

「桜の花は、放っておいても毎年咲くわ。ねえ。新しい仕事見つかったの?」

真也はトムの要望に応えようと窓を開けようとする。

「ねえ。窓開けないでよ」
「いいじゃないか。トムが出たがっている」
「トム、連れてってよ。あなたの方がなついているから」
「無理だよ。今の俺じゃ」

真也は証券会社を、不正を働いたことが理由でクビになっていた。
相応な退職金は支払われなかった。
友香と離婚する話が出たのはそれからすぐだった。
貯金もない真也は、唯一の財産であるマンションを慰謝料がわりとして、友香に譲った。
かつての若手の有望株は、会社にとって不必要な社員に成り下がっていた。

友香は汚れた食器の山を片付け始めていた。
残飯はごみ入れに捨て、酒瓶は水でゆすがれ、一所に集められた。

その先に、小さな仏壇が見えた。
友香はダイニングテーブルを丁寧に拭いた後、観音開きの小さな扉を開けた。

仏壇には花が手向けられていた。
小さな写真立てには、五歳の紀ノ川功也(きのかわこうや)が笑っていた。
功也は五年前の今頃の季節、五歳にして、交通事故で亡くなったのだった。

真也が珍しく息子の功也を連れて散歩に出て、ひとり走り出したところを車に轢かれた。
真也はそのことを自分の責任だと考えていた。

「お線香あげていくでしょ?」
「ああ。もちろん」

真也はトムを抱いたまま、仏壇へと向かう。

「トムも連れて行ってね。コートと一緒に」

真也は今の居宅にトムの居場所はあるか想像した。



                      おわり

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