2022年03月29日06:41
シネマe~raで「さがす」を観た≫
カテゴリー │映画
3月20日(日)19時40分~
監督の片山慎三さんの前作に長編第1作として「岬の兄妹」という映画があること知り、レンタルで観た。
障害を持つ兄妹が、金に困って兄が妹に売春行為をさせるという話。
この映画は冒頭、海沿いを兄がいなくなった妹をさがす、と言う場面から始まる。
そして、ラストもいなくなった妹を兄がさがして見つかるという場面で終わる。
「さがす」は、娘がいなくなった父親をさがす話。
「岬の兄妹」は、時系列に沿って話が進むのに対し、
こちらは、2回時間をさかのぼることで、ミステリー映画としての役割も果たす。
娘がいなくなった父親をさがす視点が、
3か月さかのぼると、父親がいなくなった理由と関係すると思われる連続殺人容疑者である男の視点と変わり、
さらに13か月さかのぼることで、今度は父親の視点となる。
それぞれの事情が明かされていくことで、最後は、さがしていた愛すべき父親が
見つかった時は、まったく違う父親となっていることを観客は娘と共に知る。
その現実は、あまりに過酷で、絶望的な状況だ。
その状況をどこか開放させているのは、
大阪弁だったり、西成・あいりん地区の地域性だったり、
喜劇俳優・佐藤二朗さんの真面目に寄せた演技だったりするのかもしれない。
ただし、これを一挙に引き受けているのは
伊藤蒼さんが演じる娘のまるで漫画の主人公「じゃりン子チエ」のような無尽蔵の生命力である。
病気が理由だったり、金がないのが理由だったり、その人にしかわからない理由だったりで、
死にたいと思っている人がいる。
また、そんな死にたい人につけこんで、代わりに望みを果たしてあげる代理殺人を
正しいことをやっているかのように都合よく正当化してみたり、
または持ち合わせる殺人欲を満たすために殺しに興じる者もいる。
それら人間社会の不条理をひとりの娘がひとり(しもべあるいはボディーガードとして自分を好きだという同級生の男を従えているが)
で引き受け、立ち向かう。
これは何だろう。
たぶん悩んでいる姿を見せないことで成り立っているのではないか?
父親がいなくなれば、悩む前に行動する。
捜索のビラをつくり配り、
臨時雇いで働いていると思われる職場をさがし、
中学生に手を差し伸べてくる善意の人たちにも
うそ臭さを少しでも感じると遠慮なく切り捨てる。
父がいなくなった原因だと思われる連続殺人容疑者と相対した時も
恐れず追いかける。
悩んでいる姿を見せないという意識は、
難病を患う母親との場面に娘がまるで存在しなかったかのように、
映っていないということにも現れていいると思う。
「岬の兄妹」は、さがしているのは、兄だが、さがされる妹はまったく悩んでいる姿を見せない。
その理由は彼女の持つ障害故なのかもしれないが、
彼女の無尽蔵な生命力ゆえの行動が、まわりを巻き込み話は展開する。
「さがす」は主な登場人物3人の視点により、観客の抱くものはそれぞれ違うだろう。
父の視点で見れば、善良な男が落ちていく姿を描いているともいえるし、
連続殺人容疑者の男の視点で見れば、犯罪者の心の闇を描いているともいえるし、
娘の視点で見れば、少女の青春活劇冒険譚ともいえる。
貧困、格差、外国人労働者、独居老人、尊厳死、中学生男子の恋、自殺サイトなどテーマがばらまかれていて、
その時々、心は停まる。
ラストまで残るのは父と娘のみだが、
そこでは途中、切り離されていたふたりを結ぶ、卓球というアイテムを通して、幕を引く。
それはラリーと言う単純な行動を映す長回しで、観客にとって結論はすでに確定されているが
確信犯のように、監督はその時間をたっぷり使っている。
だから、観客は余計なことを気にする。
ラケットを打ち込むフォームだとか、
最初は練習したの?すごいな、と思っていたが、さすがにこれは加工処理じゃ、と疑りにかかってみたり。
それまで観客の心をかき乱していた映像のお詫びをするように、ある種退屈を持ち込んだ場面で、
映画は幕を閉じた。
監督の片山慎三さんの前作に長編第1作として「岬の兄妹」という映画があること知り、レンタルで観た。
障害を持つ兄妹が、金に困って兄が妹に売春行為をさせるという話。
この映画は冒頭、海沿いを兄がいなくなった妹をさがす、と言う場面から始まる。
そして、ラストもいなくなった妹を兄がさがして見つかるという場面で終わる。
「さがす」は、娘がいなくなった父親をさがす話。
「岬の兄妹」は、時系列に沿って話が進むのに対し、
こちらは、2回時間をさかのぼることで、ミステリー映画としての役割も果たす。
娘がいなくなった父親をさがす視点が、
3か月さかのぼると、父親がいなくなった理由と関係すると思われる連続殺人容疑者である男の視点と変わり、
さらに13か月さかのぼることで、今度は父親の視点となる。
それぞれの事情が明かされていくことで、最後は、さがしていた愛すべき父親が
見つかった時は、まったく違う父親となっていることを観客は娘と共に知る。
その現実は、あまりに過酷で、絶望的な状況だ。
その状況をどこか開放させているのは、
大阪弁だったり、西成・あいりん地区の地域性だったり、
喜劇俳優・佐藤二朗さんの真面目に寄せた演技だったりするのかもしれない。
ただし、これを一挙に引き受けているのは
伊藤蒼さんが演じる娘のまるで漫画の主人公「じゃりン子チエ」のような無尽蔵の生命力である。
病気が理由だったり、金がないのが理由だったり、その人にしかわからない理由だったりで、
死にたいと思っている人がいる。
また、そんな死にたい人につけこんで、代わりに望みを果たしてあげる代理殺人を
正しいことをやっているかのように都合よく正当化してみたり、
または持ち合わせる殺人欲を満たすために殺しに興じる者もいる。
それら人間社会の不条理をひとりの娘がひとり(しもべあるいはボディーガードとして自分を好きだという同級生の男を従えているが)
で引き受け、立ち向かう。
これは何だろう。
たぶん悩んでいる姿を見せないことで成り立っているのではないか?
父親がいなくなれば、悩む前に行動する。
捜索のビラをつくり配り、
臨時雇いで働いていると思われる職場をさがし、
中学生に手を差し伸べてくる善意の人たちにも
うそ臭さを少しでも感じると遠慮なく切り捨てる。
父がいなくなった原因だと思われる連続殺人容疑者と相対した時も
恐れず追いかける。
悩んでいる姿を見せないという意識は、
難病を患う母親との場面に娘がまるで存在しなかったかのように、
映っていないということにも現れていいると思う。
「岬の兄妹」は、さがしているのは、兄だが、さがされる妹はまったく悩んでいる姿を見せない。
その理由は彼女の持つ障害故なのかもしれないが、
彼女の無尽蔵な生命力ゆえの行動が、まわりを巻き込み話は展開する。
「さがす」は主な登場人物3人の視点により、観客の抱くものはそれぞれ違うだろう。
父の視点で見れば、善良な男が落ちていく姿を描いているともいえるし、
連続殺人容疑者の男の視点で見れば、犯罪者の心の闇を描いているともいえるし、
娘の視点で見れば、少女の青春活劇冒険譚ともいえる。
貧困、格差、外国人労働者、独居老人、尊厳死、中学生男子の恋、自殺サイトなどテーマがばらまかれていて、
その時々、心は停まる。
ラストまで残るのは父と娘のみだが、
そこでは途中、切り離されていたふたりを結ぶ、卓球というアイテムを通して、幕を引く。
それはラリーと言う単純な行動を映す長回しで、観客にとって結論はすでに確定されているが
確信犯のように、監督はその時間をたっぷり使っている。
だから、観客は余計なことを気にする。
ラケットを打ち込むフォームだとか、
最初は練習したの?すごいな、と思っていたが、さすがにこれは加工処理じゃ、と疑りにかかってみたり。
それまで観客の心をかき乱していた映像のお詫びをするように、ある種退屈を持ち込んだ場面で、
映画は幕を閉じた。