結婚式と演劇

カテゴリー │静岡県西部演劇連絡会会報原稿

結婚式と演劇                     フィールド  寺田景一


先日学生時代の友人の結婚式に山形市まで行ってきた。
山形駅に降り立ち、改札口を出る。
県庁所在地で、新幹線駅なのに、妙に静まり返っている。
人が誰もいないようなのである。
もしかして、たった一人なのではないかと思い、周りを見る。
人はそこそこいた。
僕のようなひとりの人ばかりではない。
サラリーマン、年配の人たちのグループ、女子高生、お土産の漬物を売る人、駅員たち。
話をしている人もいる。
でも、それがなぜかひどく小声なのだ。
全体のしんとした雰囲気に合わせるかのように、女子高生のおしゃべりもひそひそ話のようにされている。
聞き耳を立てる。
のちほど近ごろ若い人は方言を使わないという話を聞いたが、そこでひそひそ話のように話をしている女子高生の言葉は明らかにこちらの方言だった。
浜松の話し方とは違う東北ならではの喋りは、他の町から来たばかりの僕を随分いつもと違う場所に来たような気にさせた。
「ああ。違う町へ来たのだ」
友人の結婚式は自分自身がびっくりするほど、僕の心に染み渡った。
1日に何組も披露宴が行われる大きな結婚式場での結婚式的セオリーにのっとった進行のひとつひとつがやはりドラマなのだ。
新郎新婦が選んだとっておきの音楽が流れ、それぞれの人生で出会ったかけがえのない人たちによるスピーチがなされ、ひたすら2人の祝福するための暖かい(また辛口ではあるがそれがまた暖かい)出し物や歌が披露される。
僕が知らないエピソードが語られ、別の一面を知る。
別々の人生を歩んできた2人の出会いに、運命というものを考える。
参列者はかわるがわる壇上の2人に祝福を述べに訪れ、両親や兄弟も各参列者のテーブルを回って感謝の意を述べる。
それぞれのテーブルでは例えば幼い頃からの幼なじみ、地元を離れ学生の時に知合った友達、社会人になり、仕事で知合った人、またプライベートの趣味で知合った人など、まったく立場は違う人たちが、時には同窓会になったり、時には「始めまして」になったり。
ただし呼んでくれた壇上にいる主役が最大の共通点だ。
生活や環境の違うものたちが幸せな一体感を持つ。
まるで、劇場のように。
不謹慎にも思う。
祝儀の3万円は観劇の入場チケットなのだ。
それを観るために往復4万円近くかけて、山形まで来たのだ。
「スタンドバイミー」が流れる中、2人が生まれてから今までの写真がスクリーンに映し出される。
両親への感謝の言葉。
新郎は何日も前から練習したという言葉をかみしめながら、しかもよどみなく語る。
今だかつて語ったことのない言葉であっただろう。
そして、新婦は言葉に詰まり・・・用意していたであろう言葉を続けることができない。
そして、涙。
新郎は今までに見せたことのない(僕との付き合いの中では)やさしい、しかし頼もしい顔で新婦を見つめる。
参列者達も泣いている。
男も女も。
年とった人も若い人も。
そして、エンディング。
そして、心から思う。
「幸せになってくれ」と。
これは演劇的であるかもしれないが、演劇ではない。
しかし、そこには様々な人生のドラマが詰まっている。
しかも、生の人生であるからリアルなドラマが。
もちろん縁もゆかりもない人の結婚式に金を払って出席したいかといえば、そんなことはほとんどない。
そうなると、よほど特別の演出があるとか、有名歌手が祝いの歌を歌うとか、語りのプロがスピーチに立つとか、何らかの要因が必要だろう。プライベートのセレモニーである結婚式と、パブリックに向けた表現である演劇(広くどなたが観に来てもいいということ。
ある一定の人に向けた個人的な演劇もあるだろうが)とは根本的に異なる。
そこで僕の演劇をふりかえる。
いい結婚式は人生がこめられている。
うそ偽りのない人生がまるごと。生きてきたこと、考えてきたことが。
心も体もまるごと。
いい演劇とは実はそういうものではないのだろうか。
でも、結婚式では許されることが、演劇では許されないことがある。
演劇では「スタンドバイミー」に思い出の写真では縁もゆかりもない人に、たちまちそっぽを向かれるだろう。
「家で知合い集めてやってくれ」って。
「あんたたち、わたしたちに大金を払わせて、こんなとこ集めて、それで何を言いたいんだ」って。 
結婚式はただひたすら、2人を祝えばいいのである。
その気持ちさえあれば、すべて成功する。
でも、演劇はいろんな思いを持った人たちがそれぞれの事情でやってくる。
お金を払い、決められた時間に、決められた場所に、携帯電話の使用を制限され、身動きのとりづらい椅子に座らされ(時には立ったまま)・・・。
例えば5分押しなどと、やる側が勝手に決めた都合で幕が開いた芝居に、多くの観客はじっと付き合ってくれる。
(観客はいつでも席を立つことができる自由を与えられているにかかわらず。
「一旦席につきましたら、演技するものが傷つきますので、どんなことがありましても途中で席をお立ちになることはおやめください」などという注意事項は聞かない)
ユニットライブ公演が終わりまもなくで、感傷的気味だったのかもしれない。
違う町で心がトリップ気味だったのかもしれない。
でも、今回の結婚式で味わった自分が正直になったような気持ちは、ひとつの公演を経るといつも感じることなのだ。
特に今回の作品「ストリップ」では色濃く感じた。
よかったことも悪かったこともあった。
できることとできないことがあるということもあらためて知った。
しかし、それ以上に自分の、そして他人のあふれる可能性も知った。
なにより、観客の存在をこんなにも感じることはなかった。
当然ながら、演劇とは、キャスト・スタッフのともにやる人、観てくれる人、そして、自分があって、成り立つものなのだ。
いろんなことがあったはずなのに、公演が終わると、ごく当たり前のことになぜか行き着く。
感謝だとか、愛だとかの言葉が頻繁に出てくる。
うまい具合に自分がリセットされるのだろうか。
そして、すぐか、しばらくたってからか、またネジを巻き始める。

「ストリップ」とは「裸にする」「~の覆いを取る」「剥ぎ取る」「脱衣する」等の意味がある。
ストリップ劇場「ロマン・ド・パリス」の楽屋で出番を待つ踊り子だけではない。
実際に脱衣はしない。
でも、登場人物たちは1枚づついろんな覆いを取っていく。
覆いを取るということに関しては、演技するにあたって、常に課題になることでもある。
演技ということはまさに自分を剥ぐことなのではないか。
僕は自分を表現することができたのであろうか。
もちろん観客にきちんと受け渡すという形で。

                          
   (2006年12月西部演劇連絡会会報より)

~ああ、6年たつのだなあ~
 「ストリップ」は2006年11月12日にクリエート浜松で上演された。
 ロマン・ド・パリスと言う名のストリップ劇場の楽屋を舞台にしたツバキとカエデの物語である。

結婚式と演劇


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